宮沢賢治—日本と世界を導く光
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詩人そして「先見者」
宮沢賢治が詩や物語を書いていたのは、熱狂的なナショナリズムと軍国主義の時代だった。
賢治が生まれた1896年の前年は、日本が日清戦争で勝利を祝った年だった。日本はそれを皮切りに次々と勝利を収め、彼が亡くなる前年の1932年には、日本の傀儡(かいらい)国家である満州国が建国された。賢治が生きたのは、1905年の日露戦争の勝利や、5年後の大日本帝国による韓国併合などを受けて、日本国内で国家主義的な高揚感が高まっている時代だったのだ。
しかし賢治の作品には、皇運といった愛国主義的なスローガンはもちろん、「国体」意識やアジアにおける日本の国威発揚に関する記述は全くない。彼の関心は他にあったからだ。それが生前の宮沢賢治がほとんど評価されなかった理由の1つである。しかし賢治の没後、特にこの20年、宮沢賢治は日本の優れた近代詩人としてだけでなく、「先見者」としても注目されるようになり、人々は彼の思想や理念から、21世紀に私たちが直面しているさまざまな難題に立ち向かうための指針を見いだそうとしている。
では、賢治の関心はどこにあったのだろうか?
宇宙規模の世界観
彼の作品には、気候変動が食糧生産に壊滅的な影響を及ぼす話がよく出てくる(ただし当時は冷害に悩まされていた)。賢治は経済発展は重要だと信じる一方で、環境破壊につながる方法で電力を生み出そうとすれば必ず自然から猛烈なしっぺ返しを受けることを人々に伝えようとしていた。動物虐待も主なテーマの1つで、賢治は屠殺(とさつ)に強く反対していた(今でもベジタリアンが非常に少ない日本で、彼は21歳から37歳で亡くなるまで菜食主義に傾倒していた)。また、賢治の作品には文学の普遍的なテーマである勧善懲悪のストーリーが極めて少なく、その創作の源にあるのは、人々に勇気を与える倫理観だった。
つまり、賢治の世界観は宇宙規模だった。彼は「有機物・無機物を問わず、地球上のあらゆる物体と現象は、この地球と宇宙におけるその他全てのものとつながっている」と信じていた。その意味で賢治はカオス理論の先駆者と言えるが、彼はそのカオスの中にも人間の行動を導く慈悲深い秩序が存在すると考えていた。
熊撃ちの物語
賢治の世界観がよく表れている作品の1つが、『なめとこ山の熊』だ。ナメトコ山は花巻市近郊の豊沢湖の奥にそびえる標高860メートルの山で、賢治の故郷である岩手県(面積は東北地方だけでなく本州でも最大)に位置している。賢治の物語の舞台は架空の地名のような印象を受けるが、大半は賢治が愛した岩手県に実在する場所である。
熊撃ちの小十郎は、熊を殺し、その胆(い)を売って何とか生計を立てている。当時、熊の胆はさまざまな病に効く奇跡の薬と考えられていた。しかし、熊と人間、狩りの獲物と、狩る猟師は自然界の掟で結ばれている(動物も人間と同じように苦しみ、喜びを求めると考えていた賢治にとって、動物を殺すことは殺人に等しいことだった)。
そのため小十郎が究極の報いを受けるのは当然だった。死んで動かなくなった小十郎は、彼の獲物になるはずだった熊たちに取り囲まれて物語が終わる。
ちなみに『なめとこ山の熊』には、賢治が生きた時代における資本主義の政治規範が示唆されている。彼は物語の中で、熊は猟師に負けるが、猟師は商人に負けると指摘している。ただし、結果的にこの循環的報復の標的になるのは商人ではなく猟師で、そこがこのストーリーの強いメッセージでもある。この物語から現代に通じる教訓を読み取るならば、「巨大な存在は揺るがない」、または、より端的に、「大金持ちは被害を被らない」である。社会や自然から報復を受けるのはいまだに弱者たちだ。大物は安全な要塞に身を隠すか、自らがつくりだした災難から逃げのびた後で扉を閉め、「先に進む」のだ。問題が起きても自分たちが犠牲になることはない。代償を払うのはいつも「小さくて弱い存在」だ。
昔の作家のスタンスを、筆者が現代風にゆがめて解釈しているのではない。実際、賢治は自らの詩や物語の中で、抑圧されたり疎外された人々の味方になることが多く、彼らが厳しい自然に立ち向かい、困窮から抜け出せるように、救いの手を差し伸べている。
永遠の光
彼には、弱者や声を上げられない人に対して責任を感じる十分な理由があった。宮沢賢治は、地元で質店を営んで財をなした父、政次郎の長男として生まれた。当時の質屋業に対する社会的評価は、今よりもはるかに高かった。明治時代(1868~1912年)、経済発展の中心地から離れた小さな地方都市には、産業・商業都市に見られるような大手の金融機関はなく、宮沢家の家業は地域の貧困農家には欠かせない日々の融資を行っていた。
少年時代の賢治は、貧しい農民が父の質店にやって来ては、家族を養うためにあらゆる物を質に入れ、わずかな金を手にして帰っていく姿を何度も目にしていた。そのような光景に強い罪悪感を抱きながら成長した彼は、幸せで快適な暮らしができるようになる方法を文章にして農民に伝え、それによって彼らに報いることが自分の使命だと考えるようになった。それだけではない。賢治は肥料の使用に関する専門家になり、その利用を広めるために精力的に働いた。肋膜炎と結核を患っていた賢治は、不屈の、というよりも、使命感に取りつかれたように社会活動を行い、地元農民たちの生活向上に尽くしたが、それが彼の死を早めたと言ってもいいだろう。
賢治は詩『春と修羅』の「序」の中で、自らを青い照明に例えている。照明である賢治は、宇宙のその他全てのものと一緒にせわしく明滅している。人間の命を意味するこの照明は、人間が死んでもなくなることはない。賢治が序の中で書いているように、失われるのは体である電燈だけで、光は保たれ、永遠に明滅する。
たとえ死んでも光とその記憶は輝き続け、宇宙全体でその光を見ることができる。賢治の描く登場人物の何人かが最後に天へ行くのはそのためだ。限りなく美しい小説『銀河鉄道の夜』に出てくる主人公の一人、カムパネルラは、夜空を横切る汽車から降りていく。また、この小説に登場する「蠍(さそり)」は、自分の体から光と熱を放つために星になる。さらに『よだかの星』のよだかも、真っすぐ空へ昇って行って星になる。
賢治の描く人間、生き物たちは、時空を超えて、まさに「輝く手本」を私たちに示している。
雨ニモマケズ
宮沢賢治の作品は、彼が生まれて120年を経た今、どのような意味を持つのだろうか?
その答えは、1995年と2011年に人々が見せた宮沢賢治の作品に対する反応に示されているかもしれない。
1995年1月、日本の主要港湾都市、神戸市を含む阪神地域で大地震が発生し、6400人以上が犠牲になった。その2カ月後、カルト集団、オウム真理教が東京の地下鉄で神経ガス攻撃を行い、日本の平時に起こった最悪の国内テロ事件となった。またその数年前から、いわゆる不動産バブルの崩壊にも見舞われていた。戦後50年間、汗水流して働いてきたのに、全ての国民が基本的ニーズを満たせる経済は実現しておらず、自然災害や国内テロから人々を守ることもできないのはなぜなのか―そう人々は自問するようになった。その何らかの答えを宮沢賢治が持っているように思われ、彼の作品が日本全国で大ブームになったのだ。
さらに2011年3月11日、東北地方の太平洋沖で発生した大地震が引き金となって、津波、放射能汚染という、自然災害と人災が再び日本を襲った。日本人はこの時も、政府や国の経済政策に強い影響力を持つ大企業がなぜ国民を守れなかったのかと疑問を抱いた。人々が答えを求めたのはやはり宮沢賢治で、暗い日本の空を閃光が駆け抜けるように、賢治への関心が一気に高まった。
その答えとは、「自然を犠牲にしてまで成長を推し進めるという愚行を二度と犯してはならず、献身的な思いやりを持って互いに助け合う方法を見つけるべきだ」ということだった。
賢治の最も有名な詩「雨ニモマケズ」は、全ての人、特に弱い人や恵まれない人に対する自己犠牲をたたえた祈りの詩と評され、東日本大震災で深刻な打撃を受けた東北地方のメディアや公開イベントでよく朗読された。宮沢賢治は突然、日本人の公私の倫理観を代弁する者になったのである。
どこであれこの極めて不安な時代を生きる私たち全てに彼が残したメッセージは、「大物政治家だろうが、いわゆる天上の神だろうが、自分以外の声に耳を傾けてはいけない。芸術や自然とのつながりから得られた自分自身の道徳的指針を持ち、その針が指し示す良心に従うべきだ」ということである。
その指針に従って進み、自分が自然の中であらゆる人間や動物、植物、水、空気、土とつながっていることを決して忘れなければ、心の充足と安寧(あんねい)を見いだすことができる。こうした賢治のメッセージに耳を傾ければ、この世界は万物にとってかつてないほど好ましい場所になるかもしれない。
バナー写真:岩手県立花巻農業高校内の羅須庭園に建つ宮沢賢治の銅像(撮影=大橋弘)