東日本大震災から4年、三陸被災地の今・下
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シンボルの漁船は結局消えた・気仙沼
この光景、見覚えのある人が多いと思う(写真1)。津波によって、岩手県気仙沼市の漁港から1キロメートルほど内陸に押し流された漁船である。名は「第18共徳丸」。二枚目の写真にあるように、震災から1年半後、瓦礫処理がおわった後も、元市街地の中にポツンと取り残されていた(写真2)。
実は、この船を見に人が集まっていた。震災ボランティアなどで三陸を訪れた人たちにとって格好の見学コースだったのである。地元の「復興商店街」中心に、震災のシンボルとして残すべきという声が上がっていた。しかし、残すとすれば気仙沼市が保管しなければならない。その目算が立たないうちに、結局、船主が解体してしまった。
舩がなくなったあと、見学客はぱったりと途絶えたという(写真3)。
無人の町を背景に建設される戸倉の巨大防潮堤
今回の津波で、市街地が壊滅した宮城県南三陸町戸倉の海岸線である。防潮堤は、完膚なきまでに破壊された(写真4)。
元市街地は当然、無人のまま。しかし、その無人の市街地を守るように、新たな防潮堤の建設が始まっている(写真5、6)。高さは海面から8.7メートル。写真の標識がその断面である。これが、奥の海岸線まで続くのである。工事の巨大さが理解できよう。
一方、この地区では、住宅の復興は高台移転を主軸に行っており、戸倉地区でも行政による造成で、次々と高台に住宅地、団地がつくられている。
女川の海に山が動いてくる
ここで紹介した中で、最も震源地に近いのが宮城県牡鹿郡女川町である。そして、最も復興が進んでいると感じたのもこの土地である。
東北電力の原子力発電所と漁業の町である。震災直後は、ほかの被災地と同じく見渡す限りの津波の爪痕があった(写真7、8)。しかし、漁業については、2014年で、ほぼ震災前の水揚げ量に戻ったという。女川漁港には、カタールの基金の援助を受け、20億円かけて冷蔵施設が建設された。3つ目の写真の奥に見える白い建物がそれである(写真9)。
しかも、海岸線は着実に造成が進んでいる。埋め立て用の土砂は、冷蔵施設の右側の樹木がすべて伐られた山の反対側を削って採取されている。現在、三陸の被災地の各所で見られる通り、山を削って被災した低海抜地を埋めているのである。しかし、女川のように現時点で旧に復しつつある例はすくない。三陸の被災地は、4年たった今、無人の低地市街地に山を移す作業が黙々と続いているのである。
カバー写真=岩手県釜石市市街地、2011年3月31日(右)と2014年3月17日(左)▼あわせて読みたい
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