みんなの家—建築家・伊東豊雄からのメッセージ
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建築の原点を問い直すプロジェクト
東日本大震災の発生から2年。津波被害の大きかった沿岸部では、がれきの処理が進む。だが一方で、仮設住宅に移り住んだ人々の精神的、肉体的な負担はいまだ大きく、コミュニティを失った被災者たちが孤立化する問題も深刻化している。
未曾有の被害を目の前にして、建築家には何ができるのか。
こうした声に応えるため、建築家の伊東豊雄氏は、大震災直後から素早く行動を開始し、過去2年間に2つのプロジェクトを軸として活動を続けてきた。一つは、岩手県釜石市の復興計画にアドバイザーとして参画すること。もう一つは、建築家の隈研吾、妹島和世、内藤廣、山本理顕の各氏に呼びかけて「帰心の会」を発足させ、「みんなの家」をつくるというプロジェクトだ。
「みんなの家」は、その名のとおり、みんなのための集会所である。孤独な生活を強いられる仮設住宅での暮らしを目の当たりにした伊東氏は、「家を失った人が集まり、飲んだり食べたりしながら語り合い、心をあたため合う場所をつくれないか」との思いを強くした。そして「みんなの家を拠点として自分たちの街をどうしていくかを語り合ってもらえばいい」と考えたという。
東日本大震災によって、近代の合理主義や市場経済の価値観に基づいてつくられてきた街や建物が破壊され、その社会システムも根底から大きく揺さぶられた。伊東氏はこの惨状に直面して「建築とは何か」「建築は誰のために、何のためにつくられているのか」という根源的な問いかけを自らに発せざるを得なかった。「これからの建築は変わらなくてはいけない」。その決意のような思いが、「みんなの家」に込められている。
「みんなの家」は、これまでに岩手県に3軒、宮城県に3軒が完成し、現在でも数軒が建設中だ。それぞれの建築デザインは異なるが、建てる人と利用する人が共に考えながらつくることは共通する。それぞれを担当した建築家が仮設住宅で暮らす人々の要望を聞き、共感する設計者や学生、施工者、住民らが協力しあってつくり上げてきた。つまり「みんなの家」は、「みんなによる、みんなのため」の建築でもあるのだ。
ベネチア・ビエンナーレで金獅子賞(パビリオン賞)を受賞
岩手県陸前高田市の「みんなの家」は、2012年に開催された第13回ベネチア・ビエンナーレ国際建築展の日本館に展示された。テーマは「ここに、建築は、可能か」。展示では、約1年にわたる議論や制作の過程を模型を中心にドキュメントとして紹介し、120個のスタディ模型を通じて最終的に一つの建築物に収れんしていく姿を示した。展示内容は「単に建物をつくるという次元を超えた建築」と評価され、日本館は最高賞にあたる金獅子賞を受賞した。
日本館のコミッショナーを務めた伊東氏は、展示に先立って、陸前高田市の「みんなの家」の設計を、乾久美子、藤本壮介、平田晃久の若手建築家3名に共同で行うよう指示し、同市出身の写真家、畠山直哉氏にも参加を求めた。一つの建物を、複数の建築家が役割分担することなく設計することは極めて珍しい。個性を競い合う建築家が一つの建築物を合同でつくると、コンセプトが不明確になり、妥協や譲り合いの産物となる可能性が高いからだ。しかし伊東氏はあえて若手建築家に「とことん議論をしてほしい」と投げかけ、やりとりを見守るスタンスをとった。
託された若手建築家たちの苦悩は、おびただしい数のスタディ模型とそれらに付けられたコメントから見て取れる。数々のアイデアが出されては、収束することなく振り出しに戻っていった。平田氏は「最初は3人の個性が主張し合い、建築という形式の中で新しいものをつくりたいという意識が空回りしていたように思います。建物がどう被災地に受け入れられるかという視点が抜けがちだったのです」と振り返る。
エゴを超えた意思が建築をつくる
転機となったのは、仮設住宅のリーダー的存在、菅原みき子さんとの出会いだ。当初は仮設住宅の敷地に建てる予定だったが、菅原さんが「いい場所を見つけたから」と言って新しい敷地に案内してくれた。そこは、津波ですべてが流された平地と津波を押しとどめた山との境目で、登れば海まで見渡せる小高い土地だった。「ここに、陸前高田全体に分散したコミュニティをもう一度結び付けるシンボル的な建物がほしい」と菅原さんは考えていたという。
「人を集めてここで生まれようとしている“社会のはじまり”が、“建築のはじまり”と重なって感じられました」と平田氏は言う。「求められている建築の役割と共通の目標が見えてから、議論は対立することなく、最終的な案まで一気に進んでいったのです」
完成した建物は、直径約60センチの丸太が立ち並び、その間に建物が入り込んだ櫓(やぐら)のような姿。遠くからも目立ち復興再生のシンボル的な存在となる19本の柱は、浸水による塩害で立ち枯れた地元の「気仙杉」を使ったものだ。1階にはキッチンと薪ストーブを備えた土間と小上がりのようなスペース、2階には小さな和室があり、外周を螺旋(らせん)状に巡る階段は、見晴台へと続く。
小さな空間が柱にまとわりつくように連続し、室内と外の境が曖昧な構成は、図面や写真を見ただけではなかなか把握できない。しかし、その場に立つと不思議と心地良く感じられる。この空間構成は、集まり方や活動を丹念に観察したなかから生まれたという。
伊東氏は「最後までどうなるか分からなかったけれど、対話を通じてつくられていく過程で、3人が建築家としてのエゴを超えていった」と評価する。個性豊かな建築家のつくる建築でありながら、個人のオリジナリティに固執せず、より大きな目的を達成した。このプロセスは、複数の作者が連作する「連歌」を想起させる。
「みんなの家」は、大震災後という特殊な背景なしには生み出されなかった。しかし、そのプロセスを通じて、「建築は誰のために、何のためにつくられるのか」という普遍的なテーマを世界に向けて発信したと言ってもいいだろう。
「個人として2002年にベネチア・ビエンナーレ国際展で金獅子賞をいただいた時よりも、今回の受賞の方が数倍うれしかった」と伊東氏は言う。
3.11以降、日本人のメンタリティの中に、人と人との関係性を重んじるような変化が芽生えつつあるようにも思える。だからこそ今、建築に何が可能かを提示したことの意義は極めて大きい。
文=加藤 純(建築ライター)
撮影=コデラケイ