伝統美のモダニズム “Cool Traditions”

浮世絵技術を現代に継承する職人集団「アダチ版画研究所」

文化

北斎や歌麿などの傑作の復刻を約1200点も手掛けてきた「アダチ版画研究所」。フランス人の日本美術研究家が工房を訪ね、江戸時代から変わらない制作の現場をレポートする。

19世紀以降、繊細な線、独創的な構図、そして美しい色彩で欧米の人々を魅了しつづけてきた日本の浮世絵。江戸時代、浮世絵は情報伝達の手段として、あるいは玩具や寺子屋の教材として、日常生活の一部となっていた。この多色刷り木版画は当時のヨーロッパ美術にも多大な影響を与えた。しかし今日、こうした美しい浮世絵を制作できる職人は希少な存在になっている。浮世絵という多色刷り木版画の素晴らしい技術を新しい世代にどう継承していくのか。幸いなことに、東京・目白にある「アダチ版画研究所」が、葛飾北斎(1760-1849)や喜多川歌麿(1753-1806)らの傑作の復刻と、新しい木版画の制作を通じて技術継承を図かり、浮世絵芸術の伝統を守ろうとしている。

今回、同研究所の中山周(めぐり)さんに工房内を案内していただいた。彫師(ほりし)と摺師(すりし)が江戸時代からの伝統を守り、当時とまったく同じ技術を使って、葛飾北斎『冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏』の復刻版を制作する作業に立ち会うことができた。

浮世絵復刻の制作過程(1~4は彫りの過程 5~8は摺りの過程)

1 版木に下絵を貼る 2 小刀で輪郭を彫る 3 鑿(のみ)で凹面をさらう 4 主版(おもはん)完成 5 版木に絵具をつける 6 紙を置く 7 馬連でこする 8 摺りの完成 →こうした色版を摺り重ねて浮世絵が完成

ミリ単位の精度が要求される彫師の仕事

彫りはきわめて緻密な作業であるため、手元を明るくしなければならない。版木の上方にある電球の下には水の入ったフラスコがつり下げられている。電球の光が水にあたって乱反射することで手元に影がなくなり、細かい線がくまなく見える。

工房の中は静まり返り、職人たちの集中した空気がみなぎる。この道50年の彫師、新實護允(にいのみもりちか)さん(69歳)の手元には小刀や鑿(のみ)など、さまざまな道具が並ぶ。

新實さんが使うのは山桜の版木。山桜は硬い木材だが、木目がとても細かい。湿度の変化による伸縮が少ないのも版画に適している。 彫師はまず、親指の付け根の部分を使って版木に米から作った和糊(わのり)を塗り、その上に、極薄の和紙に描かれた版下絵を裏返しにして当てる。版木の上で見ると北斎の描いた波が右側になるが、摺(す)りあげた紙の上では左側になる。

新實さんは、墨で描いた版下絵の輪郭線がよく見えるように、版木の上においた紙を指先で静かにこすり続ける。紙はちぎれてぼろぼろになり、彫りを入れる版下絵の輪郭線が浮き上がってくる。

女性の髪の線は1ミリ以下

輪郭線の両側に切れ目を入れて輪郭を小刀で彫り出した(写真上)後で、周囲の木材を鑿でさらう(写真左)。美しい版画ができるかどうかは、彫師の腕にかかっている。ベテランの彫師は、1ミリに満たない輪郭線でも寸分の違いなく彫りあげる。歌麿の美人画に描かれた女性の髪の線は1ミリ以下の細さだ。髪の毛を彫る作業を「毛割(けわり)」と呼ぶ。

全輪郭線を彫り込んだ最初の版を「主版(おもはん)」と呼ぶ。彫りの仕上がり具合を確かめるため、墨で主版の試し摺りを行う。「校合摺(きょうごうずり)」と呼ばれ、これを絵師に見せる。絵師は、輪郭線の間のスペースに朱で色の指定を行う。続いて彫師は、各版木の右下と左から3分の1の位置に1ヵ所ずつ、「見当」と呼ばれる切り込みを付ける。摺りがずれないよう、版木の上に紙を当てるときの目安だ。

岸千倉さん(28歳)(写真手前)は新實さんの実演を見て彫師の仕事を知り、この高度な技術を学ぶことを決心した。今は年季が明けて、プロの彫師だ。

彫師は、使う色の数に応じて版木を彫る。「色版(いろはん)」と呼ぶもので、『神奈川沖浪裏』では、4枚の版木を使う。主版は板が狂わないようにするため片面だけにしか彫らないが、色版は両面に彫る。こうした版木を使い、8回摺り重ねられて完成する。江戸時代において浮世絵は、利潤を多く上げるためにコストを出来るだけ抑えることが要求された。そのため色彩は制限され、使用する版木の数も5枚前後だった。

『神奈川沖浪裏』のすべての版木を彫るには約3週間かかる。この緻密で繊細な作業を行う彫師の正確で巧みな鑿運びは、“見事”という他ない。 

発色の秘訣は摺りにあり

次に、この道40年以上の摺師(すりし)、仲田昇(77歳)さんが、一色ずつ色を付ける作業を始める。最初に伝統的な和紙の上に 「礬水(どうさ)」と呼ばれる液体を塗る。 礬水は明礬(みょうばん)と膠(にかわ)を混ぜて煮たもの。にじみ防止の効果がある。

浮世絵の輪郭線は墨で摺られるのが普通だが、北斎の『神奈川沖浪裏』では藍が用いられる。絵具はすべて鉱物性か植物性のものが使用されていたが、19世紀末頃から色彩鮮やかな化学的なものが出回るようになった。アダチの職人たちは、できる限り江戸時代の頃と同じ絵具を水に溶かして使っている。

摺師の仲田昇さん

摺師はまず、馬毛(尻尾)の刷毛(はけ)を使って版木を水でぬらす。版木が顔料を吸収しやすくするための準備だ。それから摺りにかかる。見本の色に応じて絵具を配合し、一定量の絵具を版木の上にのせ(写真上)、刷毛でしっかりと版木になじませる。それから、「見当」に合わせて紙を版木の上にのせる。摺台と呼ばれる斜めになった木机を前に、摺師はあぐらをかいて「馬連(ばれん)」で紙の上をこする。 摺台は手前が少し高くなっていて、摺る部分が遠くなっても力を十分に伝えられるようになっている。

摺師は、色版について同じ作業を繰り返す。薄い色から始めて、だんだん濃い色に移る。乾燥によって版木が縮んだ場合には、2つの「見当」の位置を調整して、色がずれないように摺る。

摺りは力作業で、これまで摺師はすべて男性だったが、最近では女性の摺師もいる。馬連で摺り込むことで絵具が和紙の繊維の奥深くまで入り込み、味わい深い独特の発色が生まれる。色摺りのほか、紙に凹凸をつけたり、ぼかしを入れるなど、多くのテクニックがある。

摺りの順序 主版を藍で摺り、薄い色版から濃い色版へと摺り重ねていく。

浮世絵が現代性を持ち続けるための挑戦

アダチ版画研究所が東京に工房を開いたのは1928年。それ以降、鈴木春信(1725?-1770)、葛飾北斎、歌川広重(1797-1858)、東洲斎写楽(生没年不詳)らの傑作約1200点の復刻に取り組んできた。特筆すべきは、写楽の全作品142点の完全復刻を手掛けたことだ。

東洲斎写楽 『三世大谷鬼次の奴江戸兵衛』

歌川広重 『名所江戸百景 日本橋雪晴』

喜多川歌麿 『婦女人相十品 ビードロを吹く娘』

江戸時代の作品の忠実な復刻とともに、横山大観(1868-1958)、平山郁夫(1930-2009)など20世紀の画家たちの作品の複製木版画も手掛けてきた。現在では、平松礼二(1941-)や山口晃(1969-)などの現代アーティストに浮世絵の絵師になってもらって、版下を依頼し、そこからオリジナル木版画を作るという試みにも取り組んでいる。

平松礼二『春』  平松礼二の素描による多色刷り木版画 ©平松礼二 アダチ版画研究所 2013年


山口晃 『新東都名所 東海道中 日本橋 改』 山口晃の素描による多色刷り木版画 ©山口晃 ミヅマアートギャラリー アダチ版画研究所 2012年

アダチ版画研究所が存在しなかったら、江戸時代からの浮世絵の伝統は消滅の危機に陥っていたに違いない。今でも個人で仕事を請け負う彫師や摺師はいるが、同研究所のように、協同作業で浮世絵・木版画を制作する集団はない。より完成度の高い木版画を生み出すためには、職人たちのコミュニケーションが不可欠だ。同研究所は高度な浮世絵技術を守る“最後のとりで”と言える。

現代では、リトグラフやシルクスクリーン、デジタルプリントなどさまざまな版画技法があり、アダチ版画研究所のように版木から作る木版画は少数派だ。しかし、木版画で摺られた浮世絵には独特の味わいがある。温かみのある味わいは、和紙に水性絵具を摺り込んで発色させるという日本独自の印刷技法だからこそ生まれるものだ。

同研究所が伝統木版画の技術を保存し、その技術者を育成することを目的として、「アダチ伝統木版画技術保存財団」を設立したのも、木版画の素晴らしさを後世に伝えるためだ。

「浮世絵の伝統を残していくために最も必要なのは、現代人が買いたいと思う作品を作り続けることです」と、同財団理事も兼ねる中山さんは言う。「販路の開拓も必要です。リビングルームのインテリアや海外へのギフトなど、浮世絵が現代人の生活でも楽しめるものであること知ってもらうのも私たちの役目だと思っています。現代作家の作品を木版画で手掛けるのは、21世紀において“現代の浮世絵”を作るというチャレンジでもあるのです」

浮世絵の「浮世」とは現代のこと。日本の伝統芸術の至宝である卓越した技術が次世代へと受け継がれ、これからも浮世絵は現代性を持ち続けるに違いない。

(原文フランス語)

撮影=大橋 弘
イラスト=井塚 剛

▼あわせて読みたい
浮世絵 江戸の最先端を映したメディア
西欧の近代絵画に大きな影響を与えた浮世絵。今も海外で高い人気を誇るが、江戸時代に本来どのような目的で使われていたかはあまり知られていない。フランス人の日本美術研究家が分かりやすく解説する浮世絵入門。
春画はポルノにあらず
精巧で色鮮やかな浮世絵は海外でも評価が高いが、実は当時の著名な浮世絵師の多くは、性風俗を描写した春画の制作にも携わっていた。大勢の来場者でにぎわう大英博物館の春画展を、英国在住のライター、トニー・マクニコルが取材した。
温故知新のアーティスト―山口晃
山口晃(あきら)は伝統的な日本画の手法を借りながら、現代美術の最先端を切り開くアーティスト。ポップ感覚あふれる作品は世界からも注目を集めている。その創作の秘密をフランス人の日本美術研究家が解き明かす。

江戸 歌舞伎 浮世絵 芸術 美術