【福島県川俣町】海外ブランドも認めた「川俣シルク」
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「妖精の羽」の名前を持つ世界最薄の絹織物
まるで空気の衣をまとったような軽さ——。民話に伝わる天女の羽衣はこんな生地だったのではと思うような世界一薄くてしなやかな絹織物が日本有数の絹織物の産地、福島県川俣町で開発された。この「フェアリー・フェザー(妖精の羽)」には、髪の毛の太さ(約50デニール)の約6分の1(8デニール)という超極細絹糸が使われている。
織機のたて糸に何千本も超極細絹糸をセットして織り上げたオーガンジー(極薄手で透ける平織りの生地)は、手に取ってもまったく質量を感じさせないほど軽い。それなのに、細い生糸のもつ柔らかさが、やさしく、そして確かに、肌を包みこむ。
フェアリー・フェザーは単に世界一薄い絹織物というだけでなく、機械による量産化を実現させた技術が高く評価され、2012年の「ものづくり日本大賞」で最優秀賞の「内閣総理大臣賞」を受賞。海外の製品に押されがちな日本の繊維産業の中で、品質で世界に勝負できる製品として話題を集めた。
「横浜スカーフ」の生地は川俣産だった
川俣町はもともと薄手の絹織物の産地として古くから知られていた。言い伝えによると、592年に暗殺された崇峻天皇の妃・小手姫(おてひめ)が追っ手から逃れてこの地にたどりつき、養蚕と機織りの技術を伝えたとされる。17世紀後半の書物には、すでに川俣が各地に知られた絹の町であったことが記されており、明治維新後の1880年代には海外への輸出も始まった。
輸出港の横浜ではシルクスカーフの製造が盛んになり、一時は世界シェアの8割を占め「横浜スカーフ」として海外でも有名になった。しかし、実際にはその半分近くが川俣産の生地を使っていた。同町の絹織物の歴史に詳しい福島県織物同業会の藤原和一事務局長が、川俣町の絹織物について説明する。
「川俣町の絹織物の特徴は薄手だったことです。薄くて品質が良いため、明治維新から間もない1884年には、すでに横浜を経由して海外への輸出が始まりました。日本銀行の出張所が東北ではじめて福島に開設されたのは、川俣が当時の重要輸出品であった生糸のほか絹織物の集散地で、東北の金融の中心で、絹織物の輸出で外貨が多く入ってきたことにあります。けれども今では生産量は最盛期の10分の1まで減少しています」
「三眠蚕」の織物の量産化に成功した地元企業
低迷していた「川俣シルク」に、明るい話題を提供したのが「フェアリー・フェザー」の快挙だった。この生地を開発したのは川俣町で今年創業60年を迎える齋栄織物株式会社。齋藤泰行社長は「フッと吹けば飛ぶような、かげろうの羽をイメージした」と語る。たて糸とよこ糸の色を変えて織り上げた生地は玉虫色に輝き、まさにイメージ通りだ。
「世界一薄い絹織物」の開発までには、経済産業省の「地域資源活用支援事業」などあらゆる支援を積極的に活用して研究が続けられた。原料となる繭(まゆ)も特別なものを選んだ。普通、繭は蚕が4回脱皮を繰り返して作ったものを使用するが、フェアリー・フェザーに使うのは「三眠蚕(さんみんさん)」と呼ばれる繭糸。3回しか脱皮をしていない蚕の繭はまだ小さい。そのために糸もクモの糸のように細くしなやかだ。しかし、コストがかかるため、使用する企業は少なかったという。
齋藤社長は、他社が二の足を踏む糸にあえて手を出した理由について「いまファッション業界では薄くて軽い生地の人気が高い。30年来のお付き合いがあるウェディングドレス・デザイナーの桂由美さんも、新婦の体に負担がかからないような軽いウェディングドレスを作って、ダンスを軽やかに踊れるようにしてあげたいと言っていました」と話す。
三眠蚕の極細の糸でも、機械織りで大量に生産でき、しかも、機械で超極細糸を激しく織っても糸切れや毛羽立ちを起こさないようにするために織機に独自の改良を重ねた。その結果、糸のテンションの管理を厳密にすることで、フェアリー・フェザーの商品化に成功した。
パリ、ミラノの商談会で大きな成果
齋栄織物はまた、海外進出にも取り組んできた。約20年前からアメリカのブライダル市場に向けて絹織物の輸出を行ってきたが、2008年のリーマンショックで輸出が減少。それを機会にヨーロッパのアパレル市場へと販路を広げた。まず、ジェトロが行うミラノでの商談会に参加。ここで手応えをつかみ本格的に欧州市場に参入すべく「輸出有望案件発掘支援事業」への申請をして採択された。2011年2月にパリとミラノで開催された商談会では、複数の国際的有名ブランドからサンプルオーダーを受けたという。その後、地元紙などで「ジョルジオ・アルマーニ」に採用されたと報じられた。
「物を作って売り出すまでには長い時間と多くの人の手が必要です。フェアリー・フェザーも我々の力だけではなく、糸を染める会社や糸を撚糸する会社、生地を精錬してくれる会社が惜しみない協力をしてくれて初めて出来上がったものです。震災後『絆』という言葉を多く耳にするようになりましたが、この布はまさに絆の集大成だと思います」と、齋藤社長は熱く語る。
社長の夢は、パリのオペラ座のような伝統ある劇場で、同社の生地が舞台衣装として使われることだ。「妖精の羽」が夢をのせてどこまで高く飛んでいくのか。かつて日本製の絹のスカーフが世界中で人気を集めたときには産地の川俣町の名前は輸出港の横浜の影に隠れてしまった。しかし、今度こそ「川俣シルク」が世界を席巻することになりそうだ。
取材・文=柳澤 美帆
撮影=加藤 タケ美