競馬騎手クリストフ・ルメール「僕が日本を選ぶ理由」
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2016年の日本競馬は「ルメール・イヤー」
2015年に日本中央競馬会(JRA)の通年騎手免許を取得し、母国フランスから日本へ本格的に拠点を移したクリストフ・ルメール騎手。2年目となる2016年シーズンは大幅に騎乗回数を増やして勝ち星を重ね、12月11日には戸崎圭太騎手を抜いて、ついにリーディング(最多勝)争いの首位に立った。賞金総額、勝率、連対率(2位以内に入る率)、3着内率でもすべてトップ。2016年の日本競馬界は「ルメール・イヤー」だったと言っても過言ではない。
11月5日から6日にかけて、騎乗機会10連続連対(出場したレースで10回連続して2位以内)のJRA新記録を更新し、6日には武豊の記録(2002年)に並ぶ1日8勝の快挙を達成した。インタビューが行なわれたのは、その直前の11月4日。前日も川崎競馬に出場していたルメール騎手だが、終始笑顔で取材に応じてくれた。
——まずは10月23日の菊花賞制覇、おめでとうございます。ルメール騎手にとって、日本におけるクラシック競走(※1)の初タイトルで、外国人騎手が菊花賞を制するのも初めてでした。
ありがとうございます。馬にとって1度しかチャンスがないクラシックレースはやはり特別。他のレースとは注目度が違って、勝てば大きな自信になるし、ファンや関係者からの信頼を得ることができる。日本でこのタイトルが取れてとてもうれしい。歴史に名を刻むことができて誇りに思うよ。
——その前のクラシックレース、日本ダービー(※2)(5月29日)では同じサトノダイヤモンドに騎乗して惜しくも2位、だいぶ悔しかったのでは?
僅差でマカヒキに敗れてしまった。でも、全てのレースに勝つことはできない。サトノダイヤモンドは自分の力を最大限に発揮して、よく走ってくれた。大一番をあと少しで逃して悔しかったのは確かだけど、負けを引きずることはないんだ。一週間後には次のレースがあって、自然と気持ちが切り替わるからね。
——ダービーでは、そのマカヒキ陣営からも騎乗の依頼があったとか。 サトノダイヤモンドを選んだ理由は?
サトノダイヤモンドはデビュー戦からずっと乗ってきた。以前からマカヒキの馬主には、もし2頭が同じレースに出場する場合はサトノに乗るよと言ってあった。あのディープインパクトの馬主でもある金子真人オーナーがそれを理解してくれて、「では別の機会にぜひ」と言ってくれたんだ。
——それが凱旋門賞(10月2日)で実現したのですね。
うん、マカヒキとフランスに行くことができた。凱旋門賞はおそらく世界で最も重要なレース。過去にも出場したことはあるけど、今回は日本の馬に乗って日本からの初参戦だから、特別な感慨があった。残念ながら結果は出せなかったけど(14位)、その前哨戦(ニエル賞)では勝つことができた。来年また日本の馬で凱旋門賞に挑戦したいね。
凱旋門賞だけが目標じゃない
——日本に拠点を移して以来初の母国でのレースということで、フランスのメディアから注目されたのでは?
次から次へと取材が入り、まるでマラソン(笑)。競馬専門のメディアだけじゃなく、一般のメディアも話題にしてくれて、日本の競馬について理解を広めるいい機会になったと思うよ。
——日本の競馬は世界でどの程度認知されているのですか?
日本の馬の実力はすでに世界で証明済み。遠征のたびに大きな注目を浴び、誰もが敬意を払う。牧場にも定評があるし、馬主がサラブレッドの競りに巨額を投資することも知られている。海外の大きなレースに日本の馬が出場すれば、日本から多くのメディアがやってくるから、現地にとっていい刺激になる。今回もマカヒキはフランスのメディアから大いに注目された。
——1981年の第1回ジャパンカップで、外国馬に上位を独占されたとき、日本の競馬界は世界とのレベルの違いを思い知ったと言われています。
何事も下からの積み重ねだからね。日本は欧米に比べると競馬の歴史がそこまで古い国じゃない。ジャパンカップの創設はまさに、国際的なレースを日本で開くと同時に、日本の競馬を海外に広めることが目的だった。確かに当時、日本の馬のレベルは、欧米の馬に及ばなかったけれど、そこからの成長は見事と言うしかない。競走馬、牧場、種牡馬、繁殖牝馬、いずれも世界のトップレベルにある。競馬の国際化が進んで、外国のレースに出る日本の馬が増え、日本の馬主や調教師が自信を深めていった。競走馬の世界ランキングで日本の馬が1位と2位を独占した年もある。もう足りないものはないんじゃないかな。
——日本の馬が凱旋門賞を制するのも遠くないと考えますか?
うん。すでに2着は4回ある。最後の一段を上がるだけだ。その日はもう間もなく来るだろう。
——それを自分がやる、というのは大きな目標になりますね?
凱旋門賞を勝つのはあらゆるジョッキーの夢だし、日本の競馬関係者やファンが熱狂する中、日本の馬で勝てたなら、これほどの名誉はないだろうね。確かにそれは大きな目標にはなる。でも馬は生き物だし、レース当日まで何が起こるかわからない。僕にとって大事なのは、一つのレースだけに照準を合わせるのではなく、毎日をいつも通り平常心で過ごして、こつこつと練習を重ねていくこと。そしてレースが近づくにしたがって、徐々に集中力を高めていくことなんだ。
隠れて競馬紙を読んだ少年時代
——初めて馬に乗ったのは何歳頃? 小さい頃から騎手になろうと思っていましたか?
5歳かな。父が障害競走のジョッキーだったから、馬には小さい頃から親しんでいたんだ。最初はポニーだけどね(笑)。早く本当の馬に乗ってスピードを出したい、ジョッキーになるんだって思ったよ。でも10歳のとき父が引退すると、しばらく競馬熱は冷めてしまった。14歳の頃、一家が南仏に引っ越して、父が競馬番組のコメンテーターをするようになったのをきっかけに、またレースに夢中になった。父に内緒で、こっそりと競馬新聞を見ていた(笑)。ある日、父に『ジョッキーの学校に行きたい』って打ち明けたら、目を丸くしていたよ。普通の高校に行けと言われ、騎手の養成学校には行かせてもらえなかった。それでも16歳で初めてレースに出た。フランスにはアマチュアの大会があるから、普通の高校に行きながらでもレースの経験は積めたんだ。
——初めての来日は2002年ですね? 日本に来ようと思ったのはなぜですか?
僕は20歳になる前の3年間、米国とドバイとインドにそれぞれ3カ月ずつ修業に行った。若いうちに国外に遠征して、いろいろな経験を積んだほうがいいからね。感性が豊かになるし、違うトレーニング方法や騎乗の仕方を学ぶことができる。レースを冷静に読む力もつく。だから、チャンスがあれば日本にも行きたかった。先輩のオリビエ・ペリエ(※3)が日本のレースに出ていたので、よく話は聞いていたんだ。ただ当時、日本は条件が厳しくて、実績がないと免許が下りなかった。だからフランスでいい成績をあげて基準を満たすと、すぐにJRAに短期免許を申請した。それから毎年冬に来るようになって、もう14年。初めて日本の街をこの目で見たときは『マンガのまんまだ!』という印象だったね(笑)。
ディープを破った伝説のGI初制覇
——日本でルメール騎手を一躍有名にしたのは、ハーツクライに騎乗してディープインパクトを破った2005年の有馬記念でした。
その1カ月前のジャパンカップのことから話さないとね。このときはハーツクライに乗って数センチ差で2着に終わった。序盤にスピードが出なくて、かなり後方から追い上げたけど捕まえきれなかった。あとちょっとのところで日本のGI初制覇を逃したのだから、もうガックリしたよ。
——さっき「負けは引きずらない」って言ってましたけど?
このときだけは別。悔しさから立ち直るのに2週間かかった(笑)。でもこのレースでハーツクライのレベルの高さを確信したから、次はもっとアグレッシブに勝負すると誓った。有馬記念の前、メディアはみんなディープインパクトで大騒ぎだったけど、自信はあったんだ。スタート直前、ハーツクライには最初から行くぞって気合いを入れた。いつも最後尾にいる馬がいきなり三番手につけたのだから、みんな驚いたろう、『ルメールの野郎、何をしてやがる!』ってね(笑)。でも僕にしたら作戦通り。最後の直線でディープインパクトが追い上げてきたけど逃げ切った。これが2005年末の日本競馬界を襲った大激震(笑)。ジャパンカップのリベンジができて、日本のGI初制覇、おまけに相手は無敗のディープインパクト! 僕にとって忘れられない一戦になったよ。
——2年前、落馬して大ケガもしたこともありましたね。
ケガをしてもポジティブに考えればいい。入院の期間を利用して日本語を勉強したよ!(※4) 僕たち騎手は、普段まったく休みなく訓練している。何年もその生活を続けていると、精神にも肉体にも疲れがたまってくる。ケガをすれば、いやでもその生活が完全に止まるよね。レースを離れ、プレッシャーから解放されて、心身ともにリフレッシュできるんだ。ケガから復帰した直後の騎手が、好成績を上げることはよくあるんだよ。
日本の競馬ファンは「真のサポーター」
——通年の騎手免許を取って2年目。日本に住むようになってどうですか?
京都は栗東(滋賀県の栗東トレーニングセンター)に近いし、フランス人学校があるから、子どものいる僕には完璧。美しい街だし、暮らしやすいね。京都のスタイルが好きなんだ。東京に比べて伝統が強く残っていて、古い建築や街並みがいい。来てすぐの頃は、有名な観光地ばかり訪れたけど、いまは小さな裏通りを散歩して、あまり知られていない小さな寺とか庭園を発見するのが楽しいよ。
——お子さんたち(男の子11歳、女の子9歳)は日本の生活に慣れましたか?
最初はフランスに帰りたいと駄々をこねることもあったけど、「帰るって? ここが僕たちの家なんだよ!」と言い聞かせた。今は友達もできたし、食事にも慣れたね。毎日レースがあったフランスと違って、平日は子どもと過ごせる。宿題も見るし、学校への送り迎えもするよ。フランスにいるときよりリラックスして、自由を感じられるね。街で誰かが僕に気づいても心配ない。日本の人たちが僕に接する態度には、いつも優しさと敬意があるからね。僕も家族もこの国に受け入れてもらっていると考えているから、それに最大限応えて、周りの人々やしきたりを尊重して、溶け込もうと努力している。そうすることで、すべてがうまく行って、何の問題もないんだ。
——日本にはあとどれくらいいるつもりですか?
騎手として活躍できる体力があって、レースに勝てるうちは居続けたいね。50歳まで現役を続けるジョッキーも少なくない。その後のことはわからないな。メディアの仕事もいいね。競馬界の発展に貢献できることをしたいとは思っている。日本とフランスの競馬界の橋渡しのようなことができるかもしれないね。
——では、日本の競馬が世界に誇る魅力があるとしたら何でしょう。
まず、日本は競馬場に来てくれるファンの数が圧倒的に多いね(※5)。フランスでは、家や近所のカフェで観戦するのが主流だし、どうしてもギャンブルというネガティブなイメージが根強い。日本はその点、常に新たなファン層を獲得するために、JRAがイメージアップに努力している。最近のCMでは、人気タレントを使って、20代の女性、30代の男性、60代の男性の3人組が競馬を楽しむ姿を見せているよね? これが大事なんだ。欧州では、おじいちゃんたちの趣味でしかないから、この先どうなるんだろうという不安がある。日本の競馬ファンは本当の意味でのサポーターだね。競馬を正真正銘のスポーツと考えて、馬、ジョッキー、調教師を応援し、尊敬してくれるんだ。日本人の競馬の楽しみ方は素晴らしいよ。これほど熱狂的に楽しみ、応援してくれる国はないね。だから僕らジョッキーも、ファンの期待に応えることで、大きな喜びを感じることができるんだ。
インタビュー撮影=コデラケイ
フランス語インタビュー・文=松本 卓也(ニッポンドットコム多言語部)
(※5) ^ 2016年、日本ダービー当日の入場者数は13万9140人を記録。