松本幸四郎、歌舞伎の伝統と革新を語る
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歌舞伎座新開場、忘れられない3カ月
新しい歌舞伎座(東京・銀座)が2013年4月に開場。6月までの3カ月間、「大幹部」と呼ばれるベテラン俳優はそれぞれの当たり役でこけら落とし興行を盛り上げた。
「アベノミクスで景気は上向きらしいですけど、東日本大震災以降のご時世にあって、こけら落としが無事に行われ、連日お客さまが詰め掛けてくださっただけでもありがたかった。この3年間は、新橋演舞場、国立劇場(いずれも東京)、博多座(福岡)、南座(京都)、松竹座(大阪)などいろんな劇場に俳優や裏方さんが分散してやってきただけに、その思いが強いんです」
「新しい歌舞伎座は楽屋が立派できれいになり、舞台裏や奈落のスペースも広くなって、非常に使いやすい。舞台の寸法も以前と寸分違わず、前の歌舞伎座でやっているかと思うほどです。ただ、器は大事ですが、もっと大事なことは、その中で演じられる歌舞伎の質を保つことです。歌舞伎座には日本全国はもちろん、世界からお客さまに来場いただき、満足していただける歌舞伎を常に上演していなければならない宿命がありますからね」
4月興行では、長男の市川染五郎が新開場を祝う序幕の舞踊「壽祝歌舞伎華彩(ことぶき いわうかぶきのいろどり)」に登場し、孫の松本金太郎は「盛綱陣屋(もりつなじんや)」(※1)で子役の大役である小四郎役に挑んだ。幸四郎自身は人気演目の「勧進帳(かんじんちょう)」(※2)で弁慶役を勤め、朝昼夜3部に分かれる毎日の公演の最後を飾った。
「親子孫三代でこけら落としに出演でき、感無量でした。しかも4月興行の千穐楽(4月28日)に『勧進帳』の上演1100回目を迎えたのは奇跡に近い。自分の俳優人生の中で忘れられない3カ月になりました」
「勧進帳」親子三代で3000回以上公演
『勧進帳』の最後に“飛び六法”で舞台を去る弁慶(2013年4月、歌舞伎座/撮影=渡辺文雄)
「勧進帳」は、市川團十郎家のお家芸である「歌舞伎十八番」の演目の一つ。兄・源頼朝から追われる中で安宅の関(あたかのせき、現在の石川県小松市)を通ろうとする源義経の主従一行と関守の富樫左衛門との攻防が描かれる。祖父の七代目松本幸四郎(1870~1949年)は、師匠の九代目市川團十郎(1838~1903年)から弁慶役を学び、全国各地で1600回以上演じた「弁慶役者」だった。当代幸四郎も、16歳で初めて弁慶役を勤めて以来、半世紀以上にわたり全47都道府県で演じてきた。
「『勧進帳』は今でこそ人気ナンバーワンの歌舞伎狂言ですけども、以前はそれほど人気がなかった。それを祖父が人気狂言にしました。父が500~600回やり、私が1100回になりましたから、親子孫三代で3000回以上演じているわけです」
「私が今日まで演じ続けてこられたのは、最後にいただくあの拍手があるからでしょうね。“飛び六法”(※3)の弁慶にいただく拍手は、苦しみも、つらさもすべて忘れさせてくれます。祖父の精進、情熱。それを受け継いだ父。先人たちの血と汗と涙のこもった『勧進帳』を次の代に残すためにも、1人でも多くのお客さまにお見せしたい」
弁慶に見る究極の“男のロマン”
江戸時代に七代目市川團十郎(1791~1859年)が初演した「勧進帳」は、荒唐無稽な話が多い「歌舞伎十八番」の中でもリアルな人間描写が特徴だ。
「能の『安宅』を基に、長唄をこしらえて『勧進帳』という歌舞伎劇にしたのは、オペラをミュージカルにする以上に画期的なこと。この長唄が名曲で、演出も無駄がありません。九代目團十郎がそれに写実性を盛り込み、祖父は心理描写を加えました」
「富樫に見とがめられて義経であることが分かってしまった時、弁慶はひと芝居打って、義経を打ち据えます。主君を打ち据えるということはとても恐れ多いことですから、弁慶はその寸前に軽く会釈します。これは恐らく祖父が考え出した心理描写だと思います」
「弁慶は義経が背負っていた笈(おい)を背負って、最後に花道を引っ込みます。『仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)』(※4)の大星由良之助(おおぼしゆらのすけ)もそうですが、すべての仕事を終え、仲間たちにも人生を全うさせて、しんがりで去っていくという、究極の男のロマンがあります。そういう男性像は昨今、日本の男性には見られなくなりましたが、歌舞伎の世界には生きているんですね」
脚本家の遺言で贈られたトニー賞トロフィー
松本幸四郎のもう一つのライフワークが、ミュージカル「ラ・マンチャの男」だ。小説『ドン・キホーテ』を基に、人生のあるべき姿を追い続ける騎士の冒険を描いたトニー賞受賞作。幸四郎は1969年に帝国劇場(東京・日比谷)で初めて出演。翌年米国ブロードウェーに招かれ、英語で60回公演した。
70歳を迎えた2012年8月19日には上演1200回を達成。カーテンコールで、脚本を手掛けた故デール・ワッサーマンの妻から同氏が受けたトニー賞のトロフィーを記念に贈られた。
「『ラ・マンチャの男』に一番功績のあった人にあげてくれ、というのが彼の遺言だったそうです。26歳の初演から半世紀近くやってきて、あの時ほどミュージカルをやり続けてきてよかったと思ったことはありません。今、家のリビングには、トニー賞のトロフィーと東大寺で演じた1000回目の弁慶で使った中啓(扇の一種)が並んで置いてあります」
悔いのない決断こそが大事
『ラ・マンチャの男』のメインナンバー「見果てぬ夢」を歌うドン・キホーテ(2002年5月、博多座)
初めてミュージカルに出演したのは22歳の時。ミュージカルの大スターだった越路吹雪(1924~80年)の相手役に選ばれ、「王様と私」の王様役を演じた。当時、幸四郎は父と共に松竹を離れて東宝と専属契約を結んでおり、歌舞伎と並行して多くの現代劇やシェークスピア劇、ミュージカルに出演した。1990~91年には英国で「王様と私」の舞台に立ち、英語で演じた。
「歌舞伎俳優でありながらミュージカルをやったのは、自分から進んで、というより東宝から話が来たからです。でも、やるなら英語でブロードウェーの俳優とブロードウェーの舞台でやれるまでとことんやってみようと思いました。歌舞伎俳優だから『ラ・マンチャの男』はできない、シェークスピア劇はやらないというのも一つの決断かもしれない。でも僕は正面から立ち向かっていっちゃった」
「人間は、人生においてどんな目に遭ったかではなく、悔いのない決断をしたかがとても大事だと思います。生まれて死ぬまで、苦しいこと、悲しいこと、つらいことはいろいろあります。僕も人並みにいろいろ遭ってきたけれども、それをどうこう言っても始まらない。悲しみを勇気や希望に変えるのが人生でしょう。そうやって徹底してやってきたから、今日まで続いてきたんでしょうね」
「演劇としての歌舞伎」を追求
近代歌舞伎の歴史を振り返ると、明治期に活躍した九代目團十郎は歌舞伎に写実性を取り入れ、大正から昭和の歌舞伎界をリードした七代目幸四郎や母方の祖父である初代中村吉右衛門(1886~1954年)、六代目尾上菊五郎(1885~1949年)らは、心理描写を取り入れて歌舞伎を革新した。
歌舞伎と現代演劇の両輪で前人未到の歩みを続ける幸四郎もまた、現代の観客の心に訴える表現を目指して「演劇としての歌舞伎」を追求している。
「『俊寛(しゅんかん)」(※5)や『寺子屋(てらこや)』(※6)のようなストーリー性のある演目では、人物の心理を表現しているつもりです。ただし、写実性や心理描写と言っても、表現の仕方はあくまで歌舞伎の手法でなければいけません」
「ブロードウェーで演じる『ラ・マンチャの男』が油絵なら、歌舞伎は日本画。手法も材料も全く違うわけですよ。ヤンキースタジアムでメジャーリーガーと野球をやるのと、国技館で相撲を取ることくらい違います。だから、歌舞伎を演じる時に現代劇から影響を受けないし、逆に現代劇に出る場合に歌舞伎的なことを利用することは全く考えません」
「一方で『歌舞伎十八番』に代表される荒唐無稽でシュールな演目があります。僕はそういう非日常的な歌舞伎をやる場合には、ウイットを加味したいんです。祖父の七代目幸四郎は、『壽曽我対面(ことぶき そがのたいめん)』(※7)の小林朝比奈を演じる時には洒落(しゃれ)っ気を盛り込んでいました」
「播磨屋の祖父(初代吉右衛門)が、やはり歌舞伎十八番の一つである『暫(しばらく)』(※8)で、鯰(なまず)(※9)を演じた時もそうでした。すると荒唐無稽な歌舞伎の劇がウイットに包まれて、非常に洒落たお芝居になる」
「これからどこまでできるか分かりませんが、僕はこの二通りの歌舞伎をご覧に入れて、お客さまが喜んでくださればと思っています」
物珍しさを超えた歌舞伎を世界にアピール
新開場以来、歌舞伎座には多くの外国人も訪れている。今後、歌舞伎を世界にどうアピールしていけばいいだろうか。
「歌舞伎は日本の古典芸能として、能・狂言、文楽と共にユネスコ(国連教育科学文化機関)の世界無形文化遺産になりました。しかし、言葉や文化、風習などがネックになって、なかなか海外に出ていけない。でも本当にいいものは古くても新しく感じられます。歌舞伎もむやみに外国向けに変えなくても、そのままやれば新たな感動を感じてもらえるはず。新しい歌舞伎座に世界中から来ていただいて、ご覧になっていただくことが一番です」
「古典芸能としての歌舞伎とは違う、演劇として世界に通用する歌舞伎。物珍しく、エキゾチックなだけで終わらない歌舞伎になってこそ初めて、歌舞伎が世界に認められると思います」
聞き手・文=中村 正子(時事通信文化特信部)
写真提供=松本幸四郎事務所
(※1) ^ 「盛綱陣屋(もりつなじんや)」…大坂冬の陣を題材に、鎌倉時代に置き換えて劇化した「近江源氏先陣館(おうみげんじせんじんやかた)」の八段目。敵味方に分かれた佐々木盛綱、高綱兄弟の悲劇が描かれる。高綱の子、小四郎は父を助けるために切腹する。
(※2) ^ 「勧進帳(かんじんちょう)」…歌舞伎十八番の一つ。鎌倉幕府による追跡を逃れるため東大寺勧進の山伏に身をやつした源義経主従が、富樫左衛門が守る加賀国・安宅の関を弁慶の知略で無事通過する。
(※3) ^ “飛び六法”とは、片手を大きく振って、勢いよく足を踏み鳴らしながら花道を引っ込む演技のこと。
(※4) ^ 「仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)」…元禄赤穂事件を題材にした人気演目。南北朝時代の『太平記』の世界に移して劇化され、大石内蔵助は「大星由良之助(おおぼしゆらのすけ)」と名前を変えてある。
(※5) ^ 「俊寛(しゅんかん)」…「平家女護島(へいけにょごのしま)」の二段目。平家討伐を企て、絶海の孤島、鬼界ケ島に流された俊寛僧都(しゅんかんそうず)の嘆き、絶望、諦観が描かれる。
(※6) ^ 「寺子屋(てらこや)」…菅原道真が大宰府に左遷され、天満天神として祭られるまでの物語に、道真の領地に生まれた三つ子の梅王丸、松王丸、桜丸の活躍を絡めて描く「菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ)」の四段目。菅丞相(道真の異名)の恩に報いるため、我が子を犠牲にする松王丸の悲劇が描かれる。
(※7) ^ 「壽曽我対面(ことぶき そがのたいめん)」…「日本三大あだ討ち」の一つである曽我兄弟のあだ討ちを題材にした演目の一つ。通称「対面」。歌舞伎の様式美が凝縮された一幕で、典型的な役柄が勢ぞろいする。江戸時代には毎年正月に曽我物の芝居が上演された。
(※8) ^ 「暫(しばらく)」…歌舞伎十八番の一つで、「荒事」の代表的な演目。清原武衡(きよはらのたけひら)が自分の意に従わない人々を家来に命じて斬ろうとするところに、鎌倉権五郎景政(かまくらごんごろうかげまさ)が「しばらく~」の声とともに現れ、人々の命を助ける。
(※9) ^ 鯰(なまず)は、「暫」の鹿島入道震斎(かしまにゅうどうしんさい)役の異名。丸坊主で長いひげを伸ばしていることからその名がついた。