「Iターン」と地域活性化——海士町の挑戦
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日本海の離島が注目を集めるわけ
ここのところ、島根県の海士町(あまちょう)の話題をよく耳にするようになった。本土から約60キロ、日本海の離島である隠岐諸島の一つ、中ノ島にあるこの自治体がにわかに世の注目を集めているのである。いわく、「Iターン」(地域にもともと縁のなかった人が移住すること)の町、特に若い移住者で活性化した町として。いわく、島の物産を次々に商品化することに成功し、安倍晋三首相までが所信表明演説(2014年9月29日)で取り上げた地方創生のモデルとして。さらにいわく、地域住民をあげてユニークな地域の総合振興計画「島の幸福論」を作成したコミュニティーとして。
いずれも間違いではない。というか、まさにその話をこれから紹介していくつもりなのだが、肝心なのは、これらの要素を相互に結びついた一つのプロジェクトとして捉えること、そしてそのようなプロジェクトがなぜ、この島で実現したのかを探ることである。Iターン・地域活性化・住民自治のいずれも、それ自体としては珍しい話ではない。それではなぜ、この三つが日本海の離島で結びついたのか。
「ないものはない」の気概と創造力
客観的にみれば、海士町の置かれた条件は決して恵まれたものではない。本土と島をつなぐ主たる交通手段はフェリーであり、移動には3時間近くを要する(現在は、高速船も利用できるようになったが)。さらに島と島の間の移動は船に頼るしかなく、結果として移動は一日がかりとなる。それも船が出るならまだいい。波が高くなれば当然船は欠航になるし、台風シーズンなどは、島に何日も閉じ込められるということになりかねない。冬の海もしばしば大荒れとなる。飛行機の便もあるにはあるのだが、大阪と出雲にそれぞれ一日一往復だけである。
産婦人科医の不在も深刻だ。隠岐諸島最大の島である島後(どうご)には総合病院があり、そこに産婦人科もある。とはいえ、以前は大学病院から医師を派遣してもらっていたものの、産婦人科医の不足が深刻化する今日、常駐の医師の確保はどうしても難しくなっている。結果として、多くの妊婦さんは本土での出産を余儀なくされる。緊急となれば、ヘリコプターを使うしかない。
以上は隠岐のすべての島にあてはまる話である。そのなかでも海士町はさらに不利な条件にある。隠岐諸島は大きく分けると島前(どうぜん)と島後からなるが、海士町のある中ノ島は人口が少ない島前の一つであり、そのなかでも一番大きな島ではない。空港や産婦人科がないのはもちろん、コンビニエンスストア一つ存在しない。島の訪問者は、港に隣接した「キンニャモニャ・センター」(海士町で最も親しまれている民謡の「キンニャモニャ節」から)なる観光施設をまず訪れることになるが、そこで目にするのは「ないものはない」という、島のロゴマークを描いたポスターである。確かに、ないものはない。数え上げれば、あれもないこれもないと、いくらでも指摘できるだろう。
しかしながら、「ないものはない」ということは、逆にいえば、「あるものはある」ということである。海に囲まれ豊かな海産物に恵まれたこの島は、良質な湧き水が出ることから、稲作で米を自給することもできる。豊かな海の幸と良質の水、そして農産物。島の人々は、ないものを嘆くよりも、あるものを楽しもうという気概をもっている。それだけではない。「ないものはない」というのは、逆説的に「すべてがある」とも解釈できる。言い換えれば、知恵次第では、何だって自分たちでつくり出すことができることを意味しうる。一例を挙げれば、図書館のなかったこの島は、島にある本を持ち寄って、島ごと一つの図書館にしてしまった。島の標語は、そのような人々の自負を示しているかのようにも思える。
退路を断ち、勝負に出る
このような海士町も、かつてはかなり追いつめられた状態にあった。日本の他の地域と同様、少子高齢化と人口減に苦しむこの島では、長らく公共事業こそが町を支える産業であった。しかしながら、その負の遺産として、地方債は膨らむ一方であり、2003年にはついに、毎年の返済額が町の年間予算の3分の1を占めるに至った。そのような島をさらに襲ったのが地財ショックである。地方交付金の大幅な減額によって、町は財政再建団体への転落を目前にした。
浮上したのは、近隣自治体との合併である。とはいえ、一島一町の海士町にとって、海を隔てた近隣自治体との合併による行財政の効率化は、あまり期待できない。そこで町長の山内道雄氏は、住民による徹底的な話し合いを実施した。島の14の地区で住民集会を開催し、合併するかどうかを話し合ったのである。結論は、単独での生き残りであった。もちろん、容易な道ではない。しかしながら、住民は苦渋の決断をすることで、自ら退路を断ったともいえる。
まず動いたのは行政であった。財政再建を目指すためにも、役所自体が自らの身を削る改革をすることが不可欠であった。町長は自らの給与を削減し、やがてその決意は管理職、そして一般職員にも広がっていった。しかしながら、予算カットだけでは何も生まれない。残った貴重な予算を何に使うかが、重要であった。海士町はこの予算をまず、海産物の細胞を破壊しないまま冷凍する新技術CAS(Cells Alive System)の導入に充てた。小さな町にとっては、かなりの冒険であるこの施設を活用することで、真空パックされた島の海産物は、全国的に流通するようになる。
サザエカレー、隠岐牛で全国展開
さらに新商品の開発が続いた。安倍首相も紹介したサザエカレーもその一つである。島では肉の代わりにサザエをカレーに入れる習慣があったが、これをレトルト化することで、最初のヒット商品が生まれた。岩牡蠣(いわがき)の開発がそれに続いた。全国から取り寄せた岩牡蠣を研究し、春先に選び抜かれた高品質のものだけを商品化することで、島は新たな販路の獲得に成功したのである。
隠岐牛も話題になった。牛を放牧で育てる隠岐地方では、足腰の強い牛を生育する伝統があったが、離島による輸送コストのハンデゆえに、これまで稚牛のうちに他の地方に売られることがほとんどだった。これに対し、東京の市場でも評価されるような極めて高品質の成牛のみを、「隠岐牛」のブランドとともに売り出したのである。現在、出荷量は限定されるものの、隠岐牛は全国的に高い評価を受けるに至っている。他にも天然塩や「ふくぎ茶」と呼ばれる地元のお茶など、注目商品が数珠つなぎである。一体、なぜ、このようなことが可能になったのだろうか。
「Iターン」研修生の発想力活かして島の魅力をアピール
秘密の鍵は、本稿の冒頭に書いたIターンである。島の人々は、自らの地域を活性化するにあたって、自ら立ち上がるのみならず、大胆に外部の力を導入したのである。その数は、2004年からの10年間で、294世帯、437人にのぼった。島の人口が2300人ほどであるから、実に驚くべき数字である。しかも、移住者には20代から40代にかけての若い世代が多く、その定着率が高かった。それではなぜ、これほどの人々が海士町に移り住んだのであろうか。
一つのポイントはその研修生制度にある。町は移住者に住宅や多様な行政サービスを提供するだけでなく、研修生の制度をつくって、島の魅力ある商品づくりにあたらせた。研修生は一定期間、島に住んで業務にあたるが、その後を拘束されるものではない。島に残るのも、去るのも自由である。日本の他の地域では、移住者に手厚い経済的支援を行い、その分、過剰な期待をかけて移住者との意識ギャップを生み出すこともあるが、海士町では、来る人に十分な情報提供などのサポートは行うものの、必要以上に拘束せず、自由意志を尊重している点に特徴がある。
さらに、Iターン者の研修生から優れた企画が提案されれば、それを公設民営の施設などを使って、実現化を支援するのもこの島ならではである。すでに挙げた商品化の数々のうち、いくつかは研修生による発案からスタートしている。もともと住んでいる人には当たり前すぎて意識されない島の魅力を、外から来た人の目で再発見してもらい、それを商品化する。このような戦略を自覚的に推進したのが海士町の成功の最大の要因であるように思われる。
「島のデモクラシー」が突き動かしたコミュニティーづくり
とはいえ、旧住民と新住民とがばらばらなままでは、けっして真の意味で島が活性化することはない。両者を交流させ、その一体化をはかったのが、第四次総合振興計画の策定である。しばしば、無味乾燥な数字の羅列であったり、逆に口当たりのいい美辞麗句のオンパレードであったりする自治体の振興計画であるが、海士町のものは楽しいイラストに満ち、しかも具体的である。
テーマは「島の幸福論」とされ、特にその別冊には、「1人でできること」「10人でできること」「100人でできること」「1000人でできること」に分かれた、具体的な提案が並んでいる。例をあげると、使われなくなった保育園などを利用して趣味や交流の場として活用する「海士人宿」、放置された竹林の間伐(かんばつ)を行いその竹で炭をつくる「鎮竹林」、海士町の魅力を全国に発信する「AMA情報局」、海士の伝統文化や達人の技を伝える「海士大学」などがある。いずれも具体的な情報源や相談すべき行政窓口などが示されている。
海士町ではこの振興計画を作成するにあたって、住民と行政職員で四つのチームをつくり、一年にわたって議論を続けた。その際、「コミュニティーデザイン」で知られる山崎亮氏を招いて助言を得ている。新旧住民が加わり、徹底した対話の機会をつくったことが、海士町におけるコミュニティーづくりの基礎となったといえるだろう。合併をめぐる住民による自己決定を含め、この島を突き動かしているのは、「島のデモクラシー」とでも呼ぶべきものであった。
追いつめられたがゆえに、住民が当事者意識をもって徹底的に話し合いを行い、そこに外部の移住者を招いて外からの視野とアイディアを加え、さらに新旧住民が一体になってコミュニティーづくりを進める。このような海士町のモデルは、日本の各地域にとっても大きな示唆を与えてくれるのではないだろうか。
(2014年11月20日 記/写真提供:海士町役場)
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