「右傾化」のまぼろし――現代日本にみる国際主義と排外主義
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「右傾化」論を読み直す
昨今、日本および海外のメディアでは、現在の日本における「右傾化」の傾向がしばしば論評の対象になっている。たとえば、『ウォールストリート・ジャーナル』(電子版、2014年2月26日配信)には、「アジアでの緊張関係が日本に右傾化をかきたてた」(Tensions in Asia Stoke Rising Nationalism in Japan)と題する長文の署名記事が載っている。そこでとりあげられているのは、一方では『WiLL』のようなナショナリストの雑誌が売れ、中国や韓国をあからさまに侮蔑する書物が大量に刊行され、選挙においても同様の主張をする候補者が選挙で多くの票を得るといった社会の「全体的な雰囲気」(collective mood)である。
そして他面では、安倍晋三首相が靖国神社を参拝した写真を掲げ、参拝を批判したアメリカ政府に対し、首相補佐官が反論したことを伝えている。記事の文章そのものは、日本はすでに成熟したデモクラシーの国家であり、戦後ずっと国際平和に貢献してきたことを指摘し、もしナショナリズムの過剰な高まりがあっても、日本社会はその振り子を反対方向へ押し戻すだろうと指摘するものではある。だが末尾で紹介するのは、日本の自主的な核武装を主張するナショナリストの若い議員の発言である。読者に与える印象としては、タイトルどおり、いまの日本におけるナショナリズムの擡頭(たいとう)、すなわち「右傾化」(rising nationalism)を、批判の意図をこめながら強調するものになっている。
日本国内のメディアについてみると、たとえば代表的な新聞の一つである『朝日新聞』のデータベースで、「右傾化」の言葉を含む記事を検索すると、2014年になってからその数が急激に増えている。『ウォールストリート・ジャーナル』の記事も指摘しているように、世論調査の結果を見れば、国民全体の関心は、国防問題よりも社会保障や経済改革に対してより熱心に向いているとわかるのであり、社会の全体としてナショナリズムが盛んになっているとは、とても言えない。しかし少なくとも、活字メディアの動向を見れば、一方では反中・反韓を掲げて発売部数を伸ばそうとする出版社があり、他方で新聞や雑誌がそれを危険なナショナリズムと見なして批判するという構図が生まれている。社会の実態とは別の次元の、公的な言説の領域においては、「右傾化」が大きな話題になっていることは、確かだろう。
安倍政権批判としての「右傾化」論
しかし、同じく日本の「右傾化」を指摘して批判するとは言っても、『ウォールストリート・ジャーナル』の記事と日本国内のメディアとでは、力点の置き方が異なるように思われる。先に引いた記事が主に関心を向けるのは、反中・反韓を掲げる雑誌や本が売れ、大東亜戦争での神風特攻隊を賛美する映画がヒットするといったような、社会における排外主義の運動である。ヨーロッパの多くの国が、移民問題を原因として、排外主義運動の高まりに直面していることを考えれば、それと似た現象として、日本での排外主義に関心が集中するのも当然であろう。東京や大阪で展開されている、コリアン系の住民に侮蔑の言葉を投げかけるナショナリスト・グループのデモ、すなわち「ヘイトスピーチ」の問題もまた、そうした海外からの注目の対象になるはずである。
これに対して日本の新聞や雑誌が「右傾化」に警告を加える場合、注意点はむしろ、社会の動向よりも、安倍晋三内閣の政策に、もっと極端に言えば、安倍首相個人のパーソナリティに向いているように思われる。もちろん、海外のメディアでも中国や韓国のそれは、安倍政権のナショナリスティックな性格を盛んに攻撃している。だがそうした東アジア諸国からの「右傾化」批判が、安倍政権にかぎらない日本政府批判の言葉として、いつも通りの表現とも言えるのに対して、安倍政権の「右傾化」に対する日本のメディアの集中砲火の高まりは、やや異例であろう。ナショナリズムを掲げたという理由で、ここまで批判される政権は、1980年代の中曽根康弘内閣以来である。
集団的自衛権行使容認は「右傾化」を意味しない
もちろんこうした批判は、安倍首相みずからがこれまで長年にわたり、政治家として、「美しい国」とか「戦後レジームからの脱却」といった文句――その具体的な内容は必ずしもはっきりしていない――を高々と掲げてきたことに由来する。このたびの第二次安倍内閣において、A級戦犯も祀られている靖国神社に首相が参拝したことは、確かに過去の侵略責任を顧みない、独善的なナショナリズムのあらわれとして、批判されてもしかたのない行為ではある。その意味で、日本の「右傾化」を憂慮する文脈でいまの安倍政権を批判するのも、的はずれとは言えない。
しかし問題なのは、そうした首相個人のナショナリスティックな心情、もしくは趣味だけから発したものではない政策に関してまで、政権の「右傾化」を示すものとして一括りにして批判されてしまうことである。民主党政権がとりくんでいた課題をひきつぎながら制定を実現した、特定秘密保護法が、あたかも治安維持法の再来であるかのように批判されたのも、その一例であるが、ここでは集団的自衛権をめぐる日本国憲法第9条の政府解釈の変更を政権がめざしていることについて、とりあげてみたい。日本国家が集団的自衛権を行使できるようにするべきだという課題は、安倍政権にかぎらず、すでに長い間、政府内では議論が続けられてきたものであった。その意味で、「右傾化」した首相が強引に持ちだした提案では決してないのである。
政治哲学者・南原繁が憲法制定時に投げかけた問いかけ
しかも、戦後の思想史をふりかえれば、集団的自衛権を認めることが、日本国憲法の掲げる国際協調主義にむしろ合致するという意見が、憲法の制定時には存在していた。憲法草案の国会審議において、当時貴族院議員を務めていた政治哲学者、南原繁(1889-1974)が政府に対して行った質問演説(貴族院本会議、1946年8月27日)にそれはよくあらわれている。南原は、イマヌエル・カントの『永遠平和のために』を範とした平和思想を主張した知識人であり、のちに冷戦時代においては東西両陣営の平和共存と日本の中立を熱心に唱えたことで有名である。
南原はその質問演説で、日本国憲法第9条が「戦力」(war potential)の放棄を規定したことについて、疑問を投げかける。その理由は、第一にはこの規定が国家の自衛権を否定してしまうという懸念であった。だがもっと重要なのは、憲法が前文で掲げる「いづれの国家も、自国のことにのみ専念して他国を無視してはならない」という国際協調主義の原則を貫くならば、集団安全保障の実行に日本も加わることができるようにしなくてはいけないという主張である。日本が将来、国際連合に加入することになったら、いったいどうするのかと南原は問いかけ、こう語っている。
「国際連合における兵力の組織は各加盟国がそれぞれ兵力を提供するの義務を負うのである。日本が将来それに加盟するに際して、これらの権利と同時に義務をも放棄せんとするのであろうかを伺いたい。かくては日本は永久にただ他国の善意と信義に信頼して生き延びんとするむしろ東洋的諦念主義に陥るおそれはないか。進んで人類の自由と正義を擁護するがために互に血と汗の犠牲を払って世界平和の確立に協力貢献するという積極的理想はかえって放棄せられるのではないか。」(『南原繁著作集』第9巻[岩波書店、1973年]所収)
憲法の国際協調主義と集団的自衛権の思想的系譜
もちろん、ここで南原が念頭に置いているのは国連の安全保障理事会が機能して、国連軍がきちんと創設されるという見通しであるから、現在の集団的自衛権をめぐる議論と、この見解がぴったりと重なるわけではない。憲法第9条は自衛権をまったく否定してしまうとする南原の懸念も、いまの通常の憲法理解とは大きく異なっている。
しかし、憲法の前文に示された国際協調主義の原則から出発して第9条を読んだ場合、もし個別的自衛権を認めるならば集団的自衛権までをも行使できるとしないかぎり、解釈は一貫しないだけでなく、せっかく憲法が掲げている「積極的理想」をも捨て去ることになってしまう。南原の問いかけは、そうしたメッセージを現代にも投げかけている。個別的自衛権は行使できるが集団的自衛権は容認できないとか、あるいは後者について保持しているが行使できないとかいった議論は、成り立つ余地がない。
現在でもたとえば、村瀬信也は論文「安全保障に関する国際法と日本法」(『国際法論集』[信山社、2012年]所収)において、国連軍に代わる集団的防衛のしくみがさまざまに展開し、国連による平和維持活動(PKO)のとりくみも発展を見ている現在では、政策的判断による集団的自衛権の行使を、一定の限界つきで認めるべきだと論じている。また、細谷雄一も「集団的自衛権をめぐる戦後政治」(『IIPS Quarterly』Vol.5 No.2)のなかで、集団的自衛権の行使を違憲とする政府解釈が、1960年代後半に国会での与野党間のかけひきのなかで登場したものにすぎないことを、先行研究をふまえながら明らかにしている。
もちろん、憲法第9条の明文規定と個別的・集団的自衛権との関係をどう考えるかについては、さまざまな意見がありうるだろう。しかし、集団的自衛権を行使できるようにするという課題それ自体は、首相個人の「右傾化」の産物というわけではない。それはむしろ、日本が国際社会における平和の維持に主体的にかかわろうとする「積極的理想」を、日本国憲法から読み取ろうとする試みとして、南原繁から細々と続いた系譜に属するものと呼ぶことすらできるのではないか。
粗野なナショナリズムの抑制を
だが、以上のように日本の現政権にみえる「右傾化」の危険性が、新聞や雑誌で言われているよりも低いと指摘しても、やはり「反中」「反韓」言説やヘイトスピーチの横行に見られるような、社会における排外主義的な運動の存在は、やはり放置してはいけない問題だろう。この点については、樋口直人の著書『日本型排外主義』(名古屋大学出版会、2014年)が重要な指摘を行っている。樋口は、街頭でのヘイトスピーチや、インターネット・カルチャーにおける排外主義の言説が、主として日本国内のコリアン系住民を、韓国・北朝鮮と同一視しながら攻撃対象にしていることに着目する。そしてその根柢に、過去の植民地支配と戦争に関する責任について、日本政府が曖昧にし続けた結果、東アジア諸国と日本との関係がなかなか安定しないという事情を樋口は見出している。
閣議決定として過去の植民地支配と侵略を謝罪した1995年の村山富市首相の談話をその後の内閣も継承している事実や、いわゆる「慰安婦」問題をめぐる「女性のためのアジア平和国民基金」による事業などを考えに入れれば、日本の政府と国民が、責任をとることを回避し続けているとは、決して言えないだろう。しかし他面で、近代の日本国家が歴史上犯した過誤について、正面から認めることを嘲笑し拒否するような言説が、いまだにナショナリストの新聞・雑誌や、インターネット上のウェブサイトに多数見られることも、また事実である。
こう検討してみると、政府における「右傾化」とされる事態のうち、少なくとも集団的自衛権の問題も、また社会におけるヘイトスピーチの問題も、日本が今後、どのように国際社会にかかわってゆくかという問題につながってくる。みずからの過去に関する態度を明らかにしながら、他国との協調関係を築いてゆくこと。いわゆる「右傾化」の現象をむしろ、粗野なナショナリズムのムードを抑制しながら、そうした課題に真剣にとりくむための好機へと変えてゆく努力が、日本の政府と国民には求められているのである。
タイトル写真=2013年11月にフィリピンを襲った台風30号の被災者に対する医療支援のためセブ島北部ダアンバンタヤンを訪れた自衛隊員と歓迎する住民たち(2013年11月24日、写真=時事通信社)
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