「学力低下」論争と「ゆとり」教育を検証する
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日本の1990年代は「失われた10年」といわれる。80年代後半のバブル景気が崩壊し、財務当局の失政なども重なり、不況が長期化した。銀行や証券会社などの大手金融機関の破たんが続き、金融不安を引き起こした。多数の企業倒産、従業員の解雇、金融機関などの統廃合が続いた。
正社員が減少し、契約社員が増加する。若者にはフリーターやニートが急増する。フリーターは2001年には417万、ニートは2000年に75万人という規模にまで拡大した。社会は少子・高齢化が進み、中高年は老後の不安をかかえ、若年層も将来の不安の中にある。
80年代のバブル景気は、1955年以来の高度経済成長と70年代以降の経済の安定成長の最期に咲いたあだ花であった。バブル期には、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」などと言われ、日本のシステムへの過信、自らへの自信と奢りの中にあった。そのバブル崩壊とともに、長く続いた経済の安定成長期が終わった。
こうした日本の高度成長の背景には、ソ連や中国を中心とする社会主義圏と米国や西欧を中心とする資本主義圏の対立、いわゆる東西冷戦があり、日本は米国側に組み込まれ、その保護下に入ることで、軍備費をおさえ経済活動にまい進してきたのだ。
しかし80年代の終わりから90年代の初めにかけてソ連や東欧の社会主義体制が崩壊し、東西冷戦も終焉を迎えた。世界の再編成が起こり、グローバル化の流れと国際競争力の議論が盛んになった。工業中心の第2次産業からサービス産業中心の第3次産業への移行が進んでいたが、さらに情報化社会へと急速な展開が起こる。
こうした「失われた10年」の終わりに始まった教育界の大論争がある。「学力低下」論争である。
「学力低下」論争
「世界のトップレベルだった日本の子どもたちや大学生の学力が大幅に低下している」。文部科学省(文科省)の「ゆとり」教育の失策のせいだという。
論争の直接のきっかけは2002年からの導入が目前となっていた学習指導要領にある。学校への週休2日制の導入もあり、教育内容を3割削減して「ゆとり」をつくろうという学習指導要領だった。しかし、それが日本の子どもたちの学力低下に拍車をかけるのではないか、との不安が広がった。
この論争は、従来の教育をめぐる種々の論争とは様相を大きく異にしている。それまでは文科省の政策、学習指導要領に反対するのは、主に日本教職員組合(日教組)や社会党や共産党などの「革新」系の学者や文化人であった。従って小・中・高の教育現場の問題が中心であり、論争に参加する学者たちは主に教育学関係者だった。
今回は大学教育の現場からまず火の手が上がった。それも教育学者たちではなく、文系の教員でもなく、理数教育の当事者である教官たちが火付け役を担ったのである。
98年、99年に、日本数学学会が、日本のトップ大学(京都大学や慶応義塾大学など)の大学生に小中学校レベルの数学(算数)のテストを実施したが、その結果は惨憺たるものだった。彼らはその原因として大学側の問題(私大で行われる少数科目入試など入試の軟化と教養教育の崩壊)と文科省の「ゆとり」教育の問題をあげている。大学生の学力低下のデータは、数学以外の理系の教員からも出され、予備校からも示された。
大学受験のハウツー本を多数出していた和田秀樹は以前から「受験勉強=悪玉」論を批判し、文科省の「ゆとり」教育を批判してきた。この論争においては、日本の将来の二者択一(一部のエリート主導の国家か、強制力による万人の受験競争社会か)を迫った。80年代の米国・英国の教育改革が、それまで行っていた「ゆとり」教育的な政策からの転換を図ったことをあげ、日本の「ゆとり」教育が世界の流れに逆行するものであると批判する。また学力の低下は科学技術立国日本の基盤の崩壊になるという。
話題は、大学から、小学校と中学校の義務教育へ、高校へと移っていく。首都圏や大都市では私立中高一貫校や中学受験の進学塾が大キャンペーンを展開し、「ゆとり」教育の影響を直接受ける公立校に通学する子どもたちの保護者らの不安をかき立てた。
この論争では教育学者は中心ではなかった。その例外の1人が教育社会学者の苅谷剛彦(当時、東京大学教育学部教授)だ。彼は、従来タブーだった教育と社会階層との関連をあばきだしていたが、この論争でも、中高生の学習時間の減少を示す調査結果から子どもの学習離れを示し、「ゆとり」教育の柱である「教育の多様性」や「自己責任」が階層間の格差を拡大する可能性を指摘する。
一方、この論争が盛り上がった理由は文科省の側にもある。「ゆとり」教育を推進し、業者テストを追放して有名になった「ミスター偏差値」寺脇研が、当時は文科省の政策課長として「ゆとり」教育の擁護に尽力した。寺脇は従来の官僚答弁ではなく、率直に直截に、文科省の考えを語った。そこで明らかになったことは多い。中でも「学習指導要領はミニマム(最低線)」との発言は教育現場を騒然とさせた。しかもそれは建前であって、「実質上は最高規則(上限基準)として機能していた」ことも認めている。本来は対等なはずの文科省と各地の教育委員会に、上意下達のシステムの問題があったことが見えた。また、この「学習指導要領はミニマム」との考えが、「公立校は低学力の子ども、エリート教育は私学が担う」という分業論を、私学側がアピールする根拠になっていた。
文科省の敗北宣言と「ゆとり」からの転換
論争は2000年には大きな盛り上がりを迎えた。当初の論争の論点は多岐にわたっていたが、学力低下は事実だということにされ、その原因を80年代以降進められてきた「ゆとり」教育に求める意見が大勢になった。
02年4月から、問題の学習指導要領が予定通り実施された。しかしその直前に文科省は緊急アピール「学びのすすめ」を出した。「確かな学力」「学力向上」が強くうたわれ、もはや「ゆとり」の言葉は見られない。これは事実上の文科省の敗北宣言であり、その政策転換だった。これによって論争に一応の決着はついたことになり、論争も終息していく。12年度から実施される新たな学習指導要領では授業時間数を増やし、前回に削減された教育内容の多くが復活した。
しかし、この論争では「学力」の定義や実態については最後まであいまいであり、その低下を示す確定的なデータは出ていないように思う。OECDの学習到達度調査(PISA)では03年、06年とやや低下傾向にはあったが、07年には上昇している。国際数学・理科教育調査(TIMSS)でも、03年にはやや下がったが、07年には下げ止まっている。
さて、この論争を大きく振り返ってみよう。今回の論争の特色は、論争が事実データから始まったところである。従来の左右対立の図式が壊れ、イデオロギー対立のもとで隠されてきた現実を露わにし、リアルな議論を志向する傾向が生まれていた。さらには格差社会、グローバル化における国際競争力といった、当時小泉純一郎内閣で進められていた新自由主義、新保守主義の是非をめぐる対立など、日本社会の抱えるあらゆる問題が議論された。
戦後、これほど広く、国民的な議論になった教育論争は存在しない。これは単なる教育論争などではなく、時代の大きな転換期に起こる、時代そのもの、社会そのものを問うような論争だったのだ。
しかし、その一大論争で、なぜ「学力」と「ゆとり」教育が焦点になったのだろうか。それを考えるには、日本の敗戦後の復興と経済成長の歴史を振り返らざるを得ない。
「高度経済成長」と「受験地獄」
日本は1945年の敗戦ですべてを失ったが、米国の陣営に組み込まれてからの復興は早く、かつ急激だった。55年からの約20年にわたって、前年比約10%の成長を続けることができた。これを「高度成長期」という。73年、79年のオイルショックはあったものの、75年から80年代のバブルまでは前年比約5%の成長を続けることができた。こうして、日本はGDPで米国に次いで世界第2位の地位にまで上り詰め、「豊かな」社会を実現することができた。
こうした背景には、明治維新以来の日本の高い教育力がある。「読み、書き、そろばん」は国民のすべてができる。こうした基礎学力は、工業化と経済成長によって米国や西欧に追いつくキャッチアップの段階では大きな役割を果たした。敗戦後も、時代の発展に応じて教育内容を増やし、経済発展を支えた。効率の良い「知識の詰め込み」的教育がその威力を発揮した。
そうした一方で、経済発展によって日本の教育事情も大きく変化する。高校進学率、大学進学率が急上昇したのだ。高校進学率は実に98%、大学にも約半数が、専門学校を含めれば約8割が進学するようになる。良い大学を卒業すれば、良い会社に入れ、安定した幸せな人生が保障される。その前提には終身雇用、年功序列の制度があった。これが日本の「学歴社会」である。
こうして大学受験がヒートアップし、大学入試が教育全体を支配するようになる。高校教育は大学受験の準備教育と化し、多くの子どもたちが夜遅くまで塾や予備校通いをするようになる。これが悪名高い「受験地獄」「受験戦争」である。それは、高校進学の段階にも波及し、大学進学実績の良い高校に受験者が集中して、受験戦争を引き起こした。首都圏や大都市部では、60年代末から70年代にかけて、高校進学時の競争が激化するのを防ぐため、一部の進学校に高学力の生徒が偏らないように公立高校の入学者の学力を均等化する制度が実施されたが、これにより階層の高い親たちを中心に公立校への不安が広がり、私立の中高一貫校の人気が高まっていく。この結果、首都圏や大都市部では中学進学の段階でも受験戦争が起こることになった。
落ちこぼれと学校の荒廃
こうした過熱する受験戦争の一方で、「落ちこぼれ」が問題になった。「7・5・3」という隠語が生まれる。授業の内容を理解している生徒は、小学校では7割、中学校では5割、高校では3割という意味だ。また、校内暴力、いじめ、不登校など「学校の荒れ」が問題として浮かび上がってくる。
こうした問題の原因としては、学歴社会や受験地獄があげられ、「知識の詰め込み」教育が問題とされた。この問題を解決することが、70年代、80年代の教育論争、教育改革の中心におかれた。「ゆとり」教育は、こうした対策から生まれたのである。教育内容の精選、削減で生徒たちの生活にゆとりを持たせ、落ちこぼれを減らし、「学校の荒れ」を解決しようとしたのだ。大学入試の在り方も変え、高校の多様化、選択教科を増やすなどのカリキュラムの弾力化を進めた。
ただし、80年代の教育改革にはもう1つの側面があった。それは時代の変化への対応だ。21世紀の情報化社会を見据えて、そこで必要な学力の変化、そこで求められる学力への対応が問題とされたのだ。それは、キャッチアップの際に必要とされた従来の「画一的」で「詰め込み」型の教育で獲得できる能力ではなく、「体験学習」や「問題解決」型の教育によって養成される「生きる力」(「自ら学び、自ら考える力」)であるとされた。これが「新学力観」といわれるものだ。80年代に当時の中曽根康弘首相が主導した臨時教育審議会からこうした議論が盛んになった。こうした対策の総体が「ゆとり」教育といわれるものだ。
「知識詰め込み」教育 | 「ゆとり」教育 |
---|---|
知識偏重 | 「生きる力」(自ら学び、自ら考える) |
基礎・基本重視、系統的学習 | 体験学習 |
画一的で詰め込み | 問題解決型、個性、多様性、選択 |
受験地獄で学歴社会 | 目標なく勉強せず |
平等、教育の機会均一 | 不平等、教育の機会均一が崩れる、階層の格差拡大 |
規制、中央集権、全国一律 | 規制緩和・撤廃、地方分権、地域の格差拡大 |
戦前の複線型から単線型に | 複線型に一部復帰か |
工業社会に対応、高度経済成長を支えた | 情報社会、国際化社会に対応 |
しかし、当時の「荒れる学校」への対策と、こうした「新学力観」がどう関係するのかはあいまいだった。「新学力」と従来の学力の関係もあいまいだった。そして、結局は「個性」重視、「選択」する力、「多様性」、「生きる力」といった言葉でごまかされてきた。それらが何であり、どう教育するのかも不明だし、教育現場では混乱が起こった。
こうした「ゆとり」教育に含まれていた問題が真正面から問われ、問い直されたのが、90年代末に始まった「学力低下」論争だった。
勉強しない子どもへの大人の不安
1990年代に入って、子どもたちに大きな変化、変質が起こった。端的に言って、勉強をしなくなった。彼らには将来像がない。進路・進学意識が弱い。フリーターやニートが急増した。一方で、「学級崩壊」が起こるようになる。生徒が教室内で勝手な行動をして教師の指導に従わず、授業が成立しない学級が増え始めたのだ。
子どもたちが勉強をしなくなった背景には、学歴社会の崩壊がある。長期の不況でリストラが進み、終身雇用、年功序列制度が瓦解した。良い大学を卒業しても、安定した幸せな人生が保障されるわけではない。少子化で大学全入時代を迎えたこともある。
こうして、従来は見えなかった学歴社会、受験地獄の時代のプラス面が見えてきた。そこでは、「高い学歴」「より良い大学」への合格が動機、目的となって、みなが勉強をした。そのために、全体としては世界トップクラスの基礎学力を確保し、キャッチアップに成功し、世界第2位のGDPに到達し、米国や西欧並みの豊かさを手に入れることができた。
単に豊かになっただけではない。それが「総中流社会」の実現になったことが重要だった。GDPの急上昇、パイの拡大が続いたゆえに、みながその分け前にあずかることができた。高校、大学への高い進学率で、国民の各階層が、それぞれのレベルで学力を高めることになった。その結果、国民の間に大きな格差が開くことなく、みながそこそこの豊かさを獲得し、国民の多くが自分を「中流」と思い、ある程度の平等意識を持てるような「総中流社会」が実現できた。この平等意識があったがゆえに、国民全体の「一体感」を維持し、「みな」で頑張ることができたのだ。当時は「人並み」(になりたい)が合言葉だった。「みな」と同じであることに価値があった。
今やそれは失われた。低いGDPの成長率。パイは小さくなり、その限られたパイの争奪戦が激化する。以前のような総中流の社会構造は壊れ、格差は拡大している。そうした中で、子どもたちは勉強をしなくなり、将来像を失った。「学級崩壊」、不登校児、ニートやフリーターが急増する。かつての「荒れ」や「非行」のように社会へのフラストレーションを外へと発散させるのではなく、それを内攻させた姿だ。それは実は大人たち自身の姿でもある。大人の社会には「うつ病」の広がりが見られる。
子どもたちの学力低下への不安には、大人たち自身の不安が反映されているのだ。それが、論争にヒステリーじみた調子や「憂国」の響きをもたらした。不安が社会全体に蔓延しているがゆえに、その論争が国民全体を巻き込むだけの力を持ったのだ。
そうしたときには、昔の時代に「戻せばいい」という主張が力を増す。過去の時代への郷愁が広がる。時代の転換期に、常に生まれてくる意識だ。
しかし、それは不可能である。以前の学歴や大学合格を動機とする方法は、「貧しさ」ゆえに有効だったのだ。それは工業化を推し進め、米国や西欧へのキャッチアップに必要な「低レベル」の基礎・基本の学力(能力)獲得には役立ったが、今求められるのは、キャッチアップを終えた果ての、より高い能力や生き方である。
確かに、学歴社会や受験地獄のプラス面は、今でこそしっかりと理解できる。しかし、それはその時代が完全に終わり、過去のものになったからなのだ。もはやそこには戻れない。
「失われた20年」と大人たちの“低学力”
以上をふまえて、私たちは、やっと「学力低下」論争と、そこで問われた「学力」と「ゆとり」教育について考えることができる。
今問題なのは、子どもたちの学力低下などではなく、子どもたちに起きているより大きく根源的な変化なのであり、その原因は文科省の「ゆとり」教育などではなく、もっと大きな世界と日本全体の変化なのである。むしろ「ゆとり」教育は、その変化に対応するためのものだったのだから、その方向性はあくまでも正しかったのだ。しかし、それが有効に機能することはなかった。そこにこそ、「ゆとり」教育の問題がある。
それは、第1に、キャッチアップの時代に必要な学力と、それを達成した後に必要な学力とを対置するだけで、その正しい関係(後者には前者が含まれ、前提とされる)を示せなかったこと。
また、第2には、学力とは能力であり、以前の低いレベルを超えた、はるかに高い能力が求められているのであり、それには厳しい修業が必要であることを言えなかったこと。さらには、それは単に能力を高めるだけではなく、考え方や生き方そのものを変えることを迫られることまでを理解できないでいたこと。
第3に、そうした生き方までを含めて考えるときに、それを教育できるような教師や大人が圧倒的に少なかったこと。それを予測すらできなかったこと。
つまり、問題は、子どもたちの学力低下ではなく、私たち大人自身の能力不足、生き方の低さだったのだ。子どもの学力や生き方は、大人の「低学力」の反映でしかない。
今の日本社会の問題は、「豊かさ」の達成の後に目標を見失い、目指す社会像が見えないことだ。そこで問われる能力とは、次の目標を提示し、それを目指して先に進む力だ。新しい価値観をつくり、新たな社会目標と、その組織原理、個人の生き方を生みだす力だ。しかし、私たち大人は、そうした生き方ができず、そうした覚悟も能力も不足している。
「学力低下」論争が終息して10年が過ぎたが、その後、私たちの社会はいまだに、その未来像を見いだせず、新たな社会像、目標を見いだせずにいる。90年代とこの21世紀の10年を含めて、「失われた20年」ともいわれている。この漂流し続ける日本に活を入れるように、昨年3月11日に東日本大震災が発生し、原発事故による膨大な被害を受けた。私たち日本の大人たちは、これによって生まれ変わることができるだろうか。
(注)文部省は2001年から省庁再編で文部科学省となった。本稿では、すべて文部科学省(文科省)で統一した。