長崎の光と影

聖フランシスコ・ザビエルの足跡と平戸でのキリスト教の芽生え

政治・外交 社会

長崎県北西部に位置する平戸は、1550年にフランシスコ・ザビエルが訪れて以来、日本のキリスト教の歴史に関わって来た。現在、百年以上の歴史を誇るものなど多数の教会があり、ポルトガルやスペインの宣教師達の足跡をみることができる。ザビエル布教活動を振り返りながら、重要な教会群を訪ねた。

平戸での2年3か月の布教活動

長崎県の北西部に位置する平戸の歴史は、イエズス会宣教師、聖フランシスコ・ザビエル(ハビエル、1506 - 1552年)が1550年夏に平戸に上陸したことによって大きな歴史的な転機を迎えた。日本ではあまりにも有名なスペイン人ザビエルは1549年、鹿児島に上陸し、やがて平戸を拠点に、日本国内での布教活動を展開した。ザビエルの日本での布教活動は条件付ながら2年3か月に及んだ。

ザビエルは鹿児島で約100人の日本人をキリスト教に改宗させ、キリストの教えと仏教の考え方に共通するものがあることを見出していたと言われている。しかし、1550年6月に平戸にポルトガル船が寄港したと聞いたザビエルは、同年9月にはコスメ・デ・トーレス神父と宣教師フアン・フェルナンデスとともに平戸に移住した。

このため、鹿児島での布教活動は日本初のキリシタンとなったアンジロウ(ヤジロウ、後にはパオロ・デ・サンタフェとしても知られる)に委ねられた。実は、ザビエルの日本上陸のきっけとなったのが、アンジロウだった。ザビエルとアンジロウは、当時の国際交易の重要な要塞都市であったマラッカ(マレーシア)で出会った。アンジロウの生涯について信頼できる資料や証拠はないが、薩摩(鹿児島)で殺人を犯してポルトガル船で海外に逃亡していたと言われている。マラッカでザビエルと出会った後、1549年に鹿児島に戻った。

平戸カトリック教会にある聖フランシスコ・ザビエル記念像(平戸ザビエル記念教会

山口で500人以上を改宗させたザビエル

ザビエルは平戸でのわずか20日間の布教活動で、鹿児島における1年間の布教活動より多くの信者を獲得した。1551年1月には平戸に日本初の教会が建築されたが、その遺構は現在、復元された「オランダ商館」に近い平戸崎方公園に残されている。

さらに、ザビエルは1550年10月、天皇への謁見を願い出て、日本全土での布教活動の許可を求めるために京都に向かった。そのことは、ザビエルの布教活動がうまくいっていたことを示している。ザビエルは宣教師のフェルナンデス、ベルナルドとともに山口経由で京都に入ったが、戦国時代の混乱と戦禍で京都は荒廃、天皇の権威も失墜しており、失望して山口に戻った。この間、平戸での布教活動はコスメ・デ・トーレス神父に任された。

ザビエルは、山口で“空き寺”を与えられ、数か月間の布教活動を許された。歴史資料によれば、1551年3月から半年間で、500人以上の日本人をキリスト教に改宗させたという。この間、ザビエルは同年4月に3度目となる平戸を訪問しているが、それは日本で最初の教会の建設と関連してのことだった。

インドから中国へ、最後は中国で病死

しかし、ザビエルは1551年9月、豊後(大分県)にポルトガル船が寄港すると、インドにおけるイエズス会の布教活動について情報を得るために豊後に向かった。ザビエルは報告を聞くと、「インドの方が日本よりも自分の存在を必要としている」と知り、そのままポルトガル船でインドに渡ってしまう。

ザビエルの日本滞在はそれで終わるが、インド入りしたザビエルは、「中国文化が日本に大きな影響を与えている」として、今度はインドから中国での布教を決意する。しかし、ザビエルは1552年9月に中国の上川島に到着したものの、中国への入境は思うようにいかず、体力、精神ともに消耗し、同年12月3日、上川島で病気のため死去した。46歳だった。

ザビエルとともに日本に来た宣教師らの何人かはその後も日本での普及活動を続けたが、ほどなくしてポルトガル人、スペイン人、キリシタン日本人への迫害、処刑というカトリック教徒の殉教の歴史が始まる。

平戸での殉死した日本初の司祭「セバスティアン・キムラ」

しかし、日本では仏教の影響力が強く、キリスト教の布教活動は壁に突き当たる。やがて、危険な宗教として敵視され、キリシタン信者は迫害された。日本における最初の殉教者は「マリアお仙」という平戸の女性キリシタンである。彼女は、十字架を拝んではいけないという夫の命に従わず、1559年に処刑された。

平戸の殉教者で最もよく知られているのは、日本初の司祭(パードレ)になったセバスティアン・キムラ(1565-1622年)だ。木村家は、ザビエルが1550年に平戸に上陸したとき、時の領主である松浦隆信の命令により自宅でザビエルの面倒を見ている。ザビエルは、鹿児島にいた当時に翻訳した聖書(抜粋)によって、木村家の当主に強い影響を与えた。ザビエルが平戸で洗礼したキリシタン100人の中でも最も早く洗礼を受けのが木村であり、アントニオという洗礼名を授かった。

アントニオ・キムラの子孫は、その後、長崎におけるキリシタンの歴史と密接に関係して行く。アントニオの孫のセバスティアンは1565年生まれで早くして洗礼を受け、12歳で仏教の小僧と同様の仕事をするカトリック司祭の助手になった。

イエズス会は布教を開始した当初、日本人を司祭に任命することに“後ろ向き”であった。しかし、1580年頃から、布教活動に現地人を加えることの重要性を理解した。セバスティアン・キムラは1585年に、19歳でイエズス会に入会した。

豊臣秀吉がバテレン追放令

しかし、豊臣秀吉は1587年7月24日に『伴天連追放令』を発令した。このため、日本におけるキリスト教普及活動は困難に直面し、京都などにいた多くのイエズス会宣教師は、平戸やインドに移らざるを得なかった。長崎にはキリシタン信者が圧倒的に多く、当地の権力者もキリシタン大名となるなど寛容だったことから、長崎や、平戸では追放令の実施を何年か遅らせることができた。

平戸殉教者顕彰慰霊之碑。

そうした環境の中で、セバスティアン・キムラは宣教師たちが避難した島原、天草などで勉学を続け、1595年に日本人として初めてマカオにあるイエズス会修道所で哲学、神学を学ぶことになった。

1600年、天下分け目の関ケ原の戦いで徳川家康が勝利すると、セバスティアン・キムラは平和が戻ったとしてマカオから長崎に戻った。その後、主に天草や豊後で活躍し、1年後の1601年9月、36歳の時に司祭に任命された。

逮捕のきっかけは女中の密告

彼の司祭としての最初の任地はまさに平戸の河内浦であった。しかし、1614年にはキリスト教の迫害が激しくなり多くの宣教師が国外に追放された。日本人信者により秘密裏に布教活動は続けられたが、1621年6月29日、セバスティアンは朝鮮から奴隷として連れて来られた女中に裏切られた。密告すれば自由が得られると思い込んだ女中がセバスティアンを取締り当局に訴えた。セバスチャン・キムラは他の信者とともに捕えられ、彼らは1622年9月西坂の丘で打ち首や生きたまま焼かれて殉死した。

日本の隠れキリシタンは1865年3月にフランス人司教・ベルナール・プティジャンに再発見されたが、日本で再びキリスト教が布教するのは1871年 まで待たなくてはならなかった。

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