ターニングポイント1995年から20年、日本はどう変わったのか

為替政策では何も解決できない時代

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行天 豊雄 【Profile】

長年にわたり、日本経済を疲弊させたのは「円高」であるとされてきた。確かに、1995年をピークにした「超円高」は、製造業の海外移転を始め、強烈な産業空洞化をもたらした。しかし、はたして為替は原因だったのであろうか。国際収支のインバランス、先進国の慢性的成長率下落といった構造的問題の結果ではなかったのだろうか。そして、この根本問題に対する解決策を、現在われわれは持ち合わせているのだろうか。大蔵省国際金融局長、財務官としてプラザ合意、ルーブル合意を取り仕切った「通貨マフィア」である著者が激変の30年を振り返る。

各国経済を歪ませ続ける国際収支不均衡

先進各国による為替相場への協調介入によって、主要通貨の相場をコントロールするというプラザ合意が成立して30年になる。おそらくあの段階で現在の世界経済の状況を予測できたものは誰もいなかったはずだ。

30年前の関係者にとっての最大の課題というのは国際収支の不均衡だった。国際収支が赤字になると、その国は、国内的に景気刺激策が取りにくくなる。従ってその状況を脱しようとすると、為替相場を操作し、自国通貨の価値を相対的に低めに誘導する運用で、国際収支の赤字を脱すべきだという論理が、当然、赤字国の中で高まっていた。

あの当時、80年代は、アメリカがまさにその巨額の国際収支の赤字を抱えていた。さらに財政赤字も重なり「双子の赤字」状態だった。一方、日本とドイツは黒字を抱えていた。アメリカにとっては、その状態をいかに脱却するかということが最大の課題であった。そしてその手段としては、金融政策の相関の中から、ドル高を是正するということに焦点が当たっていた。当時はこのようなアメリカの状況に対して、関係国間では国際的な問題であるという認識があった。だからこそプラザ合意という、国家間の協調が可能になったのである。

特にあの時はアメリカの相手の黒字国というのが日本とドイツだった。はっきり言って日本は、戦後世界では政策的にはアメリカに依存関係がきわめて強く、従来から協調的な姿勢を取っていた。だから、日本が非常に熱心で、一方、ヨーロッパの国はそれほどでもなかった。けれども、結果的には皆、協調に参加をするという格好で事が進んだ。

その後の世界情勢を考えると、80年代にはプラザ合意の結果による相場の調整が効果がなかったわけではないけれども、それで何か問題が片付いたということではなかった。

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行天 豊雄GYOHTEN Toyoo経歴・執筆一覧を見る

公益財団法人国際通貨研究所理事長。1931年生まれ。1955年東京大学経済学部卒業後、大蔵省に入省。国際金融局長、財務官などを歴任。1989年に大蔵省退官後、ハーバード大学、プリンストン大学、サン・ガレン大学の客員教授を経て、1992年から1996年まで東京銀行会長。1995年から現職。著書に『富の興亡-円とドルの歴史』(ポール・ボルカー元FRB議長との共著、1992年、東洋経済新報社)、『世界経済は通貨が動かす』(編著、2011年、PHP研究所)など。

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