ターニングポイント1995年から20年、日本はどう変わったのか

「安全神話」は国を滅ぼす-「宗教」という日本の陥穽

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オウム地下鉄サリン事件があったにもかかわらず、驚くことにカルト団体の監督者は文部科学省。治安当局は宗教団体である限り指一本触れることができない。日本に国民を守る「国家」は甦るのか。

BC戦に備えなし

2015年はオウム真理教の地下鉄サリン事件の発生からも20年となるが、生物化学兵器を使ったテロに対する危機管理はどうなっているかというと、これも、ほとんど進んでいない。一番の問題は「化学兵器戦、細菌戦などというものはあってはならない」という前提でいまだに物事が動いているからだ。これも原子力安全神話と同じ構造である。 

しかし、自殺志願者、殉教者、ジハードなどで、生物・化学兵器が使われる可能性は、オウム真理教の事件が現実に起きた以上、今後も想定し、備えておかなければならないことなのである。

例えば、今、アフリカで猖獗を極めているエボラ出血熱のように、特効薬がなく現在の医学では対応できない感染病に感染させて、48時間の潜伏期間の間に入国して、大都市の地下鉄で広範に動き回ったとする。そのときに起こる被害はとんでもないものになってしまう。

日本の場合、いわゆる難病指定の感染症対策に、あまり真剣になっていない。今、恐ろしいのは、このような細菌戦術を取られたときに、それに備えた特効薬がない。かつ予防薬もない。

オウム事件の教訓は生きているのか

確かにイスラムテロなど外国からのテロというのは、日本の場合、欧米に比べれば可能性が低いかもしれない。しかし、矛先がこちらに向く可能性がわずかでもあるなら、それに対する備えが必要になる。また、オウム真理教のように、国内でテロの企てが起きる可能性も無視してはいけない。

振り返ってみると、オウム真理教の地下鉄サリン事件というのは、その前段の松本サリン事件が起きたときに、刑事部に担当させたという警察の判断が、まず間違っていた。つまり、単なる殺人・致死事件であるとしてしまった。これは警備案件も警備案件、アメリカなどでは、カルトはFBIの捜査の対象になりつつあった。しかし、日本では全くそういうことにならなかった。その理由は、憲法の信仰の自由と「宗教法人法」だ。

日本の法律というものは普通、「この法律の趣旨は」という内容が頭に来るのだが、「宗教法人法」はマッカーサー司令部がつくったから、日本の法律のつくり方は全く無視をした。だから何のための法律だかよく分からなくなっている。つまり宗教とは何であるかの規定が曖昧になっている。宗教の目的というのは書いておらず、宗教の自由だけが認められている。そのため、誰でも宗教法人をつくれるようになっている。宗旨があって、教祖がいて、礼拝場があって、信者がいれば、それで宗教と認める。だから、「宗教法人法」のおかげで、日本には今20万団体ある。必ずしもすべてがカルトだというわけではないが、これだけあれば、いろいろな性格の集団の隠れ蓑になる。

文部科学省がカルトを監督する国などほかにない

現在の「国家行政組織法」によると驚くなかれ、カルトの問題は文部科学省の管轄になっている。宗教法人が文部科学省所管であるということで、宗教法人の認可をとった団体に対しては、警察も、法務省、検察庁も手を出せない。だからそのような団体の組織員で虞犯者と見られる者が、保釈になった場合の監視は、警察、法務省がやると「宗教法人法」違反になってしまう。

オウム真理教については、「無差別大量殺人を行った団体の規制に関する法律(団体規制法)」を設けて、公安調査庁の監視下に置いてあるが、それ以外の団体で問題が起きても、事件になるまで公安当局は手を出せない。

現在、中東、アフリカ、そして欧米では、イスラムテロの拡大が深刻な問題になっている。これが、全世界に広がって日本もその対象になるという事態だって考えられる。しかし、宗教という衣装をまとっている以上、現状では日本の警察は手を出すことができない。

日本ははたして国家なのか

私の考えでは、戦後、マッカーサーがつくった日本は、基本的に国家本来の任務であるところの警察、治安、防衛、外交、危機管理、これが全部抜けてしまっていた。社会はあるけれども国家はない、人民がいるけれども国民がいないという状況だった。

それが今、国家意識が目覚めてきた。もう一度国家になろうとしているという動きが起きていると思う。国家の本来的な任務は、ドイツの国家学者フェルディナンド・ラッサールの『夜警国家論』にあるように、ナイトウォッチ、夜警であるべきであると思う。国民が安心して夜眠れるように夜回りする役目である。治安、防衛、外交、危機管理、非常事態対処、これが国家の任務。その『夜警国家論』をどこでどうお読みになったかは知らないけれど、小泉純一郎元首相と、安倍晋三首相には、どうもその考えが流れているようだ。

小泉元首相は、郵政民営化にばかに力を入れていた。確かに、ラッサールによれば、郵便配達だとか、学校の先生とかは国家の仕事ではない。それは、地方政府にやらせておいてもいいし、あるいは、民間にやらせてもいい。極端なことをいえば、外国人にやらせてもいいと。

「夜警」をやるのが国家なのだ。戦後の日本というのは、確かに治安、防衛、外交、危機管理は、全部アメリカ任せで、その結果、社会はあったけれど国家はなかった、社会人はいたけれど、市民はいるけれど、国民はいないという状況になっていた。長い間、治安、防衛、外交はずっと無視していた。それが、国防の問題を、特に海防を、これほど問題意識を持った時期は、戦後、これまでなかった。

危機が集中した1995年から20年たって、これまでに述べたように日本の危機管理は全くと言っていいほど進歩しなかった。「安全神話」はどの分野でも根強く、責任者であるべき人々までこの神話に逃げ込んで、見たくない現実を見ようとしてこなかった。しかし、近年ようやく、国家というものがどういう役割を果たすべきかについて、自覚が芽生え始めたと思う。「安全神話」の霧がなるべく早く晴れることを願ってやまない。

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