菅義偉の調整力—第2次安倍政権・内閣官房長官の役割
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安倍内閣の政治基盤としての、官房長官の安定感
2012年12月に第2次安倍晋三内閣が発足して、二度目の通常国会が終了した。安倍政権は、「アベノミクス」を掲げてデフレからの脱却に努めるとともに、2013年の参議院選挙に勝利して、衆参両院で過半数議席を獲得して安定的な政治基盤を築いて、政局を運営するかのように見えた。しかし、特定秘密保護法、集団的自衛権の解釈変更で、その真意に対して国民の疑念が強まり、高い内閣支持率を確保しつつも、重要法案の決定の度にその支持率を下落させている。
それでも2014年7月末現在まで、政権の発足以降内閣支持率は40%を下らない。前回の第1次安倍内閣が1年で劇的に支持率を下降させて崩壊したのとは全く異なる。その理由としては、内閣の人的結束が強いこと、政策的にも大きな破綻がなく、おおむね整合性が取れていることなどに求められる。そして、これを一身に体現しているのが、菅義偉(すが・よしひで)内閣官房長官である。
一行政事務総括から重要閣僚ポストへ、次第に変化する官房長官の役割
そもそも内閣官房長官は、戦前まで内閣を補佐するポストとして存在した内閣書記官長を起源としており、元来閣僚ではなく内閣事務を統括する官僚のポストであった。戦後も長らく軽量政治家が就任することが通例であったが、佐藤栄作内閣(1964~72年)時代に、党の長老クラスの政治家であった保利茂を起用するなど、次第に重要閣僚をここに起用する内閣が登場した。中曽根康弘内閣(1982~87年)の後藤田正晴はその典型である。
さらに2001年の省庁再編以降は、内閣官房が定員を大幅に増やし、ここで各省横断的な政策を本格的に立案するようになる。その結果、これを全体として統括する内閣官房長官の役割が増大したのである。
しかしながら、自民党が長期にわたって政権を担った時代とは異なり、現在の安倍内閣は、2009年から12年までの野党時代を経て、再度政権に復帰した自民党が公明党と連立を組んだ内閣である。そこでは、内閣は、同一与党内での前内閣の継承ではなく、反対党が組織した前内閣を否定し、それを刷新する新しい政権を組織しなければならない。
そのため、内閣官房長官の役割も、従来のように重要閣僚として首相の信頼を受けつつ、省庁横断的な政策決定について最終的に責任をとる現状維持的な役割にとどまるものではない。むしろ前内閣を否定しつつ、過去の遺産を継承するという役割を担わなければならないのである。
菅に突きつけられた三つの難問
現在の安倍内閣の場合、菅官房長官が直面する課題は次の三つである。第一に、2006~07年の第1次安倍内閣の惨憺たる結果を是が非でも乗り越えなければならないことである。2012年の総選挙で、国民は民主党政権の混乱した政権運営を拒否して自民党を選択したが、それは消極的な選択にすぎなかった。第1次政権の安倍首相の未成熟な政権運営と同じ失敗を繰り返すのではないかと、政権に対して冷ややかな視線を送っているのである。
第二に、自民党政権として、政調会、総務会などの自民党機関の機能、そして自民党の伝統的な人事慣行を十分踏まえた政策決定が求められることである。現在でも党機関は政権に対して、かつてほど強力ではないにせよ、しばしば異論を唱えている。また、かつての長期政権時代と同様に、衆議院で当選5回以上、参議院で当選3回以上という入閣適齢に達した議員が入閣を待望している。こうした党内事情を適切に踏まえた振る舞いが求められるのである。
第三に、安倍が総裁に就任したのは総選挙の直前であり、自民党は野党時代の3年をかけて総裁中心に公約を練り上げたわけではなかった。自民党にとって、野党から政権に復帰するのは、1994年に新生党中心の羽田孜内閣から、社会党・新党さきがけとともに政権を奪取したとき以来であるが、当時の自民党は社会党の村山富市委員長に首班をゆだね、自ら内閣の組織化に対し責任を担おうとはしなかった、その点で、2012年の自民党は結党以来初めて、野党から与党へ変わるところで内閣を組織する責任を果たさなければならなかった。公約の準備が十分でない中で、どう内閣の統合を図るかが試されたのである。
幾多の苦労が鍛え上げたセルフ・メイド・マン
そこへ起用された菅官房長官は、気分的な上下が明らかに見て取れる安倍首相を支え、政権運営を安定化させてきた。菅自身はもともと秋田県出身で、高卒で上京し夜学によって法政大学を卒業し、政治家との係累がない中で、横浜市議会議員を経て1996年に衆議院議員となった。近年の自民党政治家には珍しいセルフ・メイド・マンである。閣僚経験としては、第1次安倍内閣で、有力閣僚である総務大臣に就任した経験を持っている。精神的なタフさと、1年ではあるが重要閣僚の経験が、内閣官房長官となる前の菅の全政治資源であった。
しかし、こうしたたたき上げの政治的経歴の故であろうが、菅は、そのときどきで担ぐ政治家を変えている。1998年の総裁選挙では、所属派閥の小渕派の方針に反して梶山静六を支持し、2000年の「加藤の乱」では、(当時)衆議院議員・加藤紘一とともに森喜朗内閣への不信任案採決に欠席し反乱側に加担、2006年の自民党総裁選挙では安倍を支持する再チャレンジ支援議員連盟に参画して安倍の側近と目される。
だが、安倍が2007年に首相を退くと、麻生太郎の側近として内閣を支えた。さらに2009年の自民党総裁選では河野太郎の推薦人として強力に彼を支持したのである。2012年の総裁選挙で再び安倍を支持するまで、さまざまな政治勢力に加担した菅は、特定派閥への帰属意識も、特定個人への忠誠も持っていない。特筆すべき資質の一つとして挙げられるその能力とは、状況に対応して、変化を呼び起こす勢力を結集しようとする組織力なのである。
人事介入が菅の持ち味
その間の菅の特長は人事への関心である。麻生内閣下(2008~09年)の国家公務員制度改革のさなか、人事院の実質的廃止構想は、谷公士(たに・まさひと)人事院総裁(当時)の公然たる反対を招いた。改革が進まず膠着する状況で、公務員制度改革担当大臣を援護射撃するため、菅義偉は「こんな総裁には辞めてもらわなければならない」と講演で叫んだという。公務員制度改革への関心と、組織の長の馘首(かくしゅ)への強い賛同こそ、その後の菅の下地となった。
その後の動きを見ても、菅が特に何か特定の政策分野のスペシャリストとなったとは言えない。現在の菅のホームページを見ると、「政策」の項目は自民党の政策を列挙しており、政治家・菅義偉の政策上の原点とは言い得ない。やはり変化を起こすための制度改革と人事介入こそが菅の持ち味であった。
したがって、第2次安倍内閣で内閣官房長官に就任した後の菅は、まず人事に着手した。日銀総裁の白川方明(しらかわ・まさあき)を退任させて、財務省では国際金融畑であり、アジア開発銀行総裁であった黒田東彦(くろだ・はるひこ)を抜擢した。また民主党政権下で郵政公社社長に就任した斉藤次郎が同じ大蔵省出身の坂篤郎(さか・あつお)を後任社長に据えると、これに猛反対して坂を更迭した。さらに、内閣法制局長官について、法制次長が昇格する従来の慣行を排して、当時駐仏大使だった故・小松一郎を据えて、集団的自衛権の憲法解釈変更へのレールを敷いたのである。
内閣人事局による各省への無言の圧力
第1次安倍内閣では、人事で大きく失敗した。その大きな理由は、官邸の意向を無理に貫徹しようとして、ポストに適任ではない人材を配置したからである。それと比べると、菅官房長官の下で行われた人事には、従来の慣行に縛られない抜擢ではあったが、決定的に不適任とは言えず、ある面では適任ですらあった。
もっとも組織と対立したのは、小松・元法制局長官であったが、報じられるところによれば、憲法解釈変更に柔軟な小松は、変更に対して強く反対する法制局官僚たちとギリギリの変更可能性を探ったという。こうした努力によって、政権の求める変化の方向性と、各組織の慣行との調停が図られたのである。
こうした状況は、国家公務員制度改革にも当てはまる。2014年4月、国会で国家公務員制度改革関連法が成立したことによって、内閣人事局が設置された。従来の公務員制度改革案には人事院の権限を強引に奪い取ろうとする傾向があったのに対して、最終案はかなりの程度人事院の意向をふまえた案となった。菅の関心は、人事院との対決よりは、各省幹部人事に官邸が正面から関与できる態勢を構築することであった。すでに2013年の夏の人事で、厚生労働事務次官に村木厚子を抜擢するなど内閣による各省幹部人事への介入が話題となっていたが、それと比べると、2014年夏の人事では、財務省主計局長に安倍首相の元秘書官・田中一穂が主税局長から就任したことが話題を呼んだものの、おおむね各省の人事構想に沿った人事であった。当初は無理な人事を主張せず、折を見て各省に介入しようとするのが菅の意図であろう。
失言には「叱責」で、難局には「一喝」で対処
菅のコントロールは政治家にも及んでいる。第1次安倍内閣は閣僚の失言も多かった。これに対して、菅は、失言が生じるたびに早めに官邸としての修正を心がけた。衛藤晟一(えとう・せいいち)首相補佐官は、アメリカ政府が2013年12月の安倍首相の靖国参拝に対して「失望した」と声明を発表した際に、「むしろわれわれの方が失望した」という挑発的なコメントを発した。このとき菅は、衛藤を強く叱責したという。こうした軌道修正は、菅の危機管理能力の高さでもある。
第2次安倍内閣発足当初の最初の試練は、2013年1月のアルジェリア人質事件であった。このとき菅は、「首相の指示で全体会合を開いて、私のところに全部、集約して判断する。そういう仕組みを作ること」に成功したという。また邦人を帰国させる政府専用機を出す際に事務方から様々な反対があったため、「関係閣僚で調整して『飛ばす』と、指示を出しました。そういうことで閣僚が一つになり、(官僚も)みな納得しました」と述べている(読売新聞5月31日インタビュー)。つまりはこの事件への対応を通じて、官房長官が情報を一元的にコントロールする体制を作り上げ、当初は一体性が十分でなかった閣僚も「一つになり」、官僚に対する政治の優位も確立したと述べているのである。
こうして、菅は、閣僚と各省、関係機関を「人事」と「叱責」を通じて押さえ込んでいる。現内閣では他にこうした調整を進められる人物や組織は、党・官僚機構を通じてもなかなか見当たらない。したがって、今や菅に集中的に情報が流入し、これを菅がさばいている状況である。特定の政策に強い関心を持たないことで、逆に情報の出入が停滞しないというのが、この体制の特徴である。さらに、閣議情報が公開され、関連する政府の政策会議の情報公開が進んでいる。
また、菅は自身のブログで、要所で政権の方向性についての説明を試みている。特定の政策にコミットせず、多方面から情報を吸い上げ、人事によってコントロールを効かせつつ、最終的にはおおむねバランスのとれた判断をするのが、菅によって調整された現内閣の姿である。
波乱要因は安倍首相の安定度と内閣改造
これまでのところ安定感を誇る菅の調整力ではあるものの、波乱要因が三つほどあげられる。
一つ目は、安倍首相である。安倍は菅とは正反対に、特定の政策にコミットし、好き嫌いが激しく情報流入経路がしばしば狭まるタイプの政治家である。そのため、菅のコントロールする内閣の枠外に飛び出しがちである。2013年12月の安倍首相の靖国神社参拝はその一例であろう。二つ目は、2014年秋に行われる内閣改造がどうなるかである。菅自身の人事を含め、菅のコントロールが及びにくい長老政治家が入閣すれば、状況は不安定化するであろう。三つ目は、菅自身がどの程度長期間、こうした負荷の強い役割に耐えられるかである。もっとも菅の経歴は、十分に耐性のあるタフさを菅に与えたと見ることもできるであろう。
この三つの要因を乗り越えることができれば、菅による調整力を基盤に、安倍内閣は当分安定的に政策決定を推進できるのではないだろうか。
(2014年7月22日 記)
タイトル写真:安倍首相不在の閣議前写真撮影にて、首相臨時代理として総理席に座る菅官房長官(写真中央)=2014年8月1日(時事)