台湾を変えた日本人シリーズ:蓬莱米をもたらし、「台湾農業の父」となった日本人——磯永吉

文化

台湾に磯永吉あり

総督府農業部種芸科科長を務めるとともに中央研究所の技師を兼任した磯は、研究室に閉じこもることなく台湾全島に足を伸ばし、蓬莱米の普及に勢力を注いだ。

また、磯は蓬莱米だけでなく輪作作物の研究にも力を入れ、「台中小麦3号」をはじめとする小麦の品種改良や大麦、甘藷(かんしょ)、亜麻、トウモロコシ、タバコなど裏作物の改良や育種にも尽力した。まさに台湾農業を一大変革した日本人であり、「台湾農業の父」と言っても過言ではない。そのうえ、現地の農民の悩みを聞き指導もするため、「台湾の農民で磯永吉を知らない者はいない」とまで言われ、「蓬莱米の父」として農業関係者に高く評価された。

28に「台湾稲の育種学的研究」と題する学位論文で北海道帝国大学の農学博士号を取得し、設立されたばかりの台北帝国大学理農学部の助教授に就任。2年後には理農学部農学科の教授として多くの教え子を世に送り出した。「台湾全土が研究室である」と台湾中に足を運び、「大地が教室である」と現場を大事にした。学生は「磯のおやじ」と親しみを込めて呼んだ。

45年日本はポツダム宣言を受け入れ、台湾を放棄した。日本人が台湾を去っていく中で、中華民国政府の要請により、農林庁顧問として台湾の農業指導を続けた。磯の教え子である徐慶鐘、黃栄華、詹丁枝、陳烱崧等は、戦後の台湾農業になくてはならない人材として活躍し、台湾農業に大きく寄与した。

54年には「Rice and Crops in its Rotation in Subtropical Zones」を英文で発表、台湾だけでなく、東南アジアの米作りに大きな影響を与えた。帰国後も日本各地で農業指導を実施し、後輩の育成にも尽力した。61年5月には日本学士院賞を、66年には勲二等旭日章を受けたが、翌年入院し72年1月21日、85歳で亡くなった。米寿にあと3年足りなかったが、台湾と世界の農業に大きな財産を残した生涯だった。

バナー写真=磯永吉(右から一人目)と大島金太郎博士(右二人目)、末永仁(右から三人目)(提供:古川 勝三)

この記事につけられたキーワード

台湾

このシリーズの他の記事