ロシア文学翻訳の現在—古典新訳からソローキンまで
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日本では明治大正期からロシア文学の翻訳は根強い人気を誇ってきた。1892年に内田魯庵が『罪と罰』の翻訳(英語からの重訳)を発表して以来、『罪と罰』だけで無数の邦訳が生み出され、日本文学にも大きな影響を与えてきた。近年は明治大正期の翻訳についても研究が盛んになりつつあるが(加藤百合『明治期露西亜文学翻訳論攷』、蓜島亘『ロシア文学翻訳者列伝』など)、本稿では21世紀、とくにここ10年間におけるロシア文学の日本での読まれ方について見てゆくことにしたい。
亀山訳『カラマーゾフの兄弟』のヒット
21世紀におけるロシア文学の読まれ方=受容を考えるうえではずせないのが、亀山郁夫訳による光文社古典新訳文庫版『カラマーゾフの兄弟』ブームだろう。
亀山郁夫による『カラマーゾフの兄弟』の第一巻が、光文社古典新訳文庫の創刊第一弾として2006年に刊行されると、キャッチフレーズ「いま、息をしている言葉で。」とともに話題になり、翻訳書としては異例のヒットになった。この新訳は累計で100万部を突破したとされ(2008年9月の発表)、ロシア本国でもメディアにとりあげられるほどだった。
「古典新訳ブーム」を再考する
『カラマーゾフの兄弟』のヒットは、不振にあえいでいた翻訳小説の販売にとっては久々の福音になった。普段、翻訳小説など手にとらない学生やビジネスマンをも振り向かせた光文社の功績は計り知れない。ただし、何事も過大に見積もらず、客観的に評価するべきだ。たとえば、『カラマーゾフの兄弟』新訳の「100万部突破」とされる部数だが、これはあくまでも『カラマーゾフの兄弟』全五巻の総部数であって、各巻ごとの部数ではない。単純に均してしまえば各20万部程度になってしまう。これでももちろんベストセラーと呼ぶことはできるが、出版年鑑のベストセラーリストにならぶ『ハリーポッター』シリーズや『金持ち父さん』などのほかの翻訳書と比べると単巻では見劣りする(実際は第一巻だけ読んで投げ出してしまう読者も多いだろうから、巻ごとの部数は偏りがあるだろう)。
また『カラマーゾフの兄弟』新訳のヒットをもって、「ロシア文学古典新訳ルネサンス」が21世紀日本に訪れた、と結論するのは早計だ。ひとつの疑問は、「新訳」がどれだけ読者層の拡大に結びついたのかはわからない点だ。
「古典新訳ブーム」の裏側
新訳ブームは、一方で誤訳論争もまきおこした。亀山訳『カラマーゾフの兄弟』について、個人のウェブサイト上でドストエフスキーの専門家による誤訳の指摘がかなり早い段階からおこなわれた(亀山自身は狭義の意味での「ドストエフスキーの専門家」ではなかった)。これは亀山訳『カラマーゾフの兄弟』にかぎった話ではなく、ほかの古典新訳文庫、たとえば野崎歓訳『赤と黒』などについても同種のことがおき、メディアにもとりあげられ、出版社側も指摘に回答した。
他方で、訳文と売れ行きのあいだにはあまり相関性がないのではないかという意見も存在する。札幌大学の佐藤美希は、Amazonのレヴューなどを分析することで、一般読者のほとんどは、翻訳者や訳文のクオリティにさほど興味ももっていないと推定している。これは私自身の実感とも一致する。経験上、外国文学について訳者の名前を知っていて、訳文の質を気にする「通」は本当のコアでしかなく、翻訳者・編集者・研究者(およびその予備軍)をふくめ、日本全体で2000人から3000人といったところだろう。100万部も売れれば、それこそ今まで一度も翻訳書を手にとったことがない読者もいただろう。一般読者の翻訳に対するリテラシーは専門家が考えるよりもはるかに低いのだ。
おそらく大多数の一般読者は訳文を見比べて新訳を選んだのではなく、広告や「みんな読んでいるから」という理由で購入したに過ぎない。こうしてみると、光文社の成功の原因は「古典+手にとりやすいパッケージ」という、ビジネスモデルを構築したことだったと言える。出版社側としては「古典」の再販は、(作者が死後五十年経過していれば)著作権料を支払わなくてよいというメリットがある。海外の作品を翻訳出版する場合、翻訳料と著作権料を払わねばならず、交渉もエージェントを介するので、必然的にコストがかさむ。著作権が切れた「古典」新訳なら、訳者への支払いのみでいいからだ。
ドストエフスキー=ドラクエ
実際問題として、本当に「古典新訳ブーム」がおこっていたのなら、古典新訳の分野で『カラマーゾフ』以降も次々とベストセラーがあらわれてもよさそうなものだ。古典新訳文庫はその後も、ロシア文学の分野で望月哲男訳によるトルストイ『アンナ・カレーニナ』など、ロシア文学国際翻訳者センターが主催する2010年度のコンクールで最優秀翻訳賞を受賞するような、世評の高い翻訳をプロデュースしたが、『カラマーゾフの兄弟』ほどの部数に至ったという話は聞かない。企画自体は他社による後追いが可能だったにもかかわらず、いくつかのより小規模な例をのぞいて本格化しなかったのも、もともと翻訳文学のマーケットがここ30年で縮小しきっていたせいもあるだろう。
よく言われるように、ネットの普及とともに消費者の趣向が多様化したことで、出版業界やエンターテイメント業界は方向転換を余儀なくされた。たとえば、ゲームソフトや、映画などの分野でも完全新作は減少し、一度ヒットした作品をリバイバル・リメイクしたり、シリーズ化して販売することが「安全策」になった。「ドラゴンクエストIII」が、メディア――新ハード、スマートフォン――に応じてなんども移植され、それでも技術的にははるかに進んだ完全新作よりも売り上げを伸ばすように、ドストエフスキーもその「ブランド名」のもとになんども新しいフォーマットで作りなおされる。他ジャンルにおけるリメイク作品、シリーズもの作品の増加の流れに、「古典」の新訳も位置づけることができる。翻訳はじつはゲームにおける「移植」だったのだ。
こうしてみると、「古典新訳」が注目された背景には、「同時代の作品」(ここでは版権が切れていない作品、作者の死後50年が経過していない作品のことを大づかみでそう呼んでおくが)の翻訳の販売が営業的には苦戦しているという背景があるのではないか。『カラマーゾフの兄弟』が100万部売れると聞くと、さぞや日本人はロシアに興味をもっているものと考えたくなるが、現実的には現代ロシア文学の翻訳は出版点数も、部数もあまり伸びていない。日本人はおそらく「ドストエフスキー」という名前が醸しだす一種のオーラに興味はあっても、現代のロシアでどのようなものが読まれているか、現代のロシア人がなにを考えているかといったことにはあまり関心がないのだろう。また、多少の関心はあっても、1000円札の1枚、2枚を出資するモチベーションとしては薄いのだ。
実際、講談社や集英社といった大手出版社は(「新潮クレスト・ブックス」という翻訳シリーズを創刊した新潮社をのぞき)、後に述べるような採算の都合から、英語圏以外の同時代文学の紹介からはほぼ手を引いてしまった。かといって小規模の出版社にとっては、著作権の生きている作品を翻訳出版するのは、版権エージェントに支払う手数料や原著者に支払う著作権料が大きな負担になってくる。
現代の翻訳出版のマーケティング戦略
上記のような理由で、大手出版社や小規模の出版社が二の足を踏む中、同時代文学の翻訳紹介は白水社や河出書房新社のような中規模の出版社に委ねられるようになった。現代ロシア文学にかぎれば、ここ数年のあいだでは河出書房新社が果たす役割が相対的に大きくなっている。
河出書房新社のプロデュースした、現代ロシア文学の分野における近年のスマッシュヒットとしては、ウラジーミル・ソローキンの『青い脂』(2012年、望月哲男、松本隆志訳)と『親衛隊士の日』(2013年、松本隆志訳)、サーシャ・ソコロフの『馬鹿たちの学校』(2010年、東海晃久訳)と『犬と狼のはざまで』(2012年、東海晃久訳)があげられる。ただし、ソローキンもソコロフも新進作家というわけではなく、ロシア本国ではすでに文名を確立した作家であり、日本でも研究者の間ではよく知られていた。
それが近頃になってブレイクしたのは、出版社の販売戦略によるところが大きい。まずカバー・装丁に凝った、スタイリッシュなデザインを用いて、読者の目を惹きつける工夫を凝らした。さらに訳者として、原作の凝った文体にも対応できる新進の翻訳者を起用した(とくに東海晃久はソコロフ以外にも精力的に翻訳活動を展開している)。
注目すべきは、帯の推薦文に、岸本佐知子、中原昌也、円城塔、金井美恵子といった作家、翻訳者を起用したことだ。彼らはみな、海外文学愛好者の間でカリスマ的な影響力をもつ人物である。ソローキンとソコロフが日本の読書人のあいだで知られるようになったのは、彼らが寄せた熱っぽい推薦文があったからだ。このようなメディア戦略の結果として、ソローキン『青い脂』はTwitterユーザーが選ぶTwitter文学賞にも輝いた(第三回、2012年)。
河出書房新社は、池澤夏樹個人編集による『世界文学全集』(2007年―2011年)をヒットさせた実績を持っている。21世紀にあえて時代遅れとも見える『世界文学全集』を出版するという「賭け」にでることで、マスコミに大きくとりあげられ、話題性を呼んで販売実績を伸ばした成功例がある。翻訳文学におけるパッケージの重要性や、作家を用いたマーケティングなどの広告戦略のノウハウを熟知していたと言える。
文芸翻訳出版の未来
もちろん河出書房新社以外にも、現代ロシア文学の紹介に奮闘している出版社はある。とりわけ長年にわたって現代ロシア文学の紹介をほとんど一手に引き受けてきた群像社の存在を忘れることはできない。訳者としては、現代ロシア文学の紹介を精力的に続けてきた沼野恭子のようなベテラン翻訳家もいる。
ただし、10年前は3000部と呼ばれ、それでも嘆かれていた翻訳書の初版部数の低下はさらに進行し、出版社によっては初版1500部前後になることも少なくなくなった。たとえば、200頁で2000円の書籍を1500部販売したとして、通常8パーセント以下が相場と言われる訳者の印税がいくらになるのかを考えてみてほしい。しかし、200頁の文芸翻訳を相応の完成度で仕上げようとすれば、訳者の練度、作品の質にもよるだろうが、一日8時間、ほかにまったく仕事を受けずにひたすら打ちこんでも最低2か月はかかる(私ならもっとかかってしまうだろう)。残念ながら、純粋なビジネスとしては成立しにくい状況がある。一部の出版社では、すでに一部の翻訳にたいしては「初版訳者印税なし」にしているとの話も聞こえてきている。増刷されることなど99.9パーセントありえないから、訳者はただ働きを強いられることになる。これでは訳者が育つはずなどない。
現況、文学作品の翻訳は、訳者の個人的な愛情・情熱に負っている部分が大きい。それはある意味ですばらしいことなのだろうが、さらに部数の下降が続き、商業出版として成り立たなくなった場合にどうするのか。紙媒体を愛好する昔ながらの読者が翻訳文学愛好者に多いことはわかっているが、今後、文芸翻訳の分野こそ、電子出版を目標にしたクラウドファウンディングのようなかたちも視野にいれるべきではないのか。対象とする文芸書の翻訳に1200円支払ってもよいという読者が800人集まれば、十分成立するだろう。
聞き覚えのない声を求めて
古典文学の新訳ももちろん大歓迎だが、繰り返しの翻訳に耐えるような古典の数にも限りがあるし、旧訳がかならずしもすべて時代遅れになってしまったわけではない。原著者に印税を払えない(払いたくない)という理由で、現代文学が翻訳される機会が減るとすれば、それは重要な文化的損失だ。文化的な生産物にたいして、その製造に携わった作者にも(そして訳者にも)それなりの対価が支払われてこそ、健全な関係だと言える。
ある文化の総体を理解するには、古典だけでなく、同時代の文学(かならずしも純文学とはかぎらないが)について知ることも重要であることは言うまでもない。たとえば、日本が『源氏物語』やハイクを通してのみ海外で理解されていたらどうだろうか。古典作品と同時代作品、両方が揃ってこそ、お互いの適切な理解を促進できる。
最後に、翻訳者の端くれとしての個人的な意見を述べさせてもらうなら、やはり新しいもの、日本語になっていない作品の翻訳は常に魅力的だ。評価の定まった古典も重要だが、まったく未知なるものの最初の紹介者になることにこそ、翻訳の醍醐味のひとつがあるのだから。内田魯庵がはじめて英語から『罪と罰』を訳したとき、当然ながら日本でドストエフスキーの名前を知るものはほとんどいなかった。現代のマーケティングの常識に照らした場合、魯庵の試みにはだれも出資するものがなかったかもしれない。それはひとつの賭けだった――だが、魯庵は大いなる予感と自信をもってこの作品を訳出したに違いない。
いつの時代にも、耳慣れぬ声、未知なるものへの憧れと好奇心こそ、翻訳者たちの原動力でありつづけてきたのだ。
タイトル写真=ペテルブルグのドストエフスキー文学記念博物館