日本人と日本文化

社会 文化

我々はある国について語るとき、まずその国の人口、GDP(全体、1人当たり)、国土の広さから始める。それらは客観的な数字で表すことができるので、他の国と比較したり、世界の中での位置づけを行ったりするのが容易だからである。

“生活の質”を問う国際比較

しかしこれらの情報は、その国の生活の質について満足な答えを与えてはくれない。こうした反省から、最近さまざまな指標による国際比較がなされるようになった。UNDP(国連開発計画)のHDI(人間開発指数)は、1人当たりのGDP、平均寿命、教育を合わせた指標で、その国の厚生の度合いを示すものとされている。OECD(経済協力開発機構)の「より良い暮らし指標」(Better-Life Index) は11項目のデータを総合して、各国の福祉(Well being)を測っている。また民間もいろいろな調査をしており、ニューズウィーク誌の「世界最高の国」(World’s Best Countries、2010)、エコノミスト誌の「1人当たりの包括的冨」(Inclusive wealth per person、2012【IMF、国連、世界銀行などの資料を基に作成】)などがある。

さらに、その国の国民がどのような人たちか、行ってみたい国かどうかなど、人の趣向などから見た、やや主観的ではあるが有益な調査もある。事柄の性格上、これらは世論調査などの形式をとることが多い。科学性は劣るが、かえって一般の関心にはよく応えてくれるランキングである。例えば、リーダーズダイジェスト誌の「最も住みやすい都市」(Most Livable Cities)や、ある国の世界への影響力を測るBBCの「世界によい影響を与えている指標」(Views of Different Countries’ Influence)、サイモン・アンホールトの「国家ブランド指数」(Nation Brands Index)がある。

数値になりにくい分野で高い評価

こうしたランキングのどれ一つとして、その国の価値を100%表したり、ある人の関心事に100%満足に応えられたりするものはない。しかし、いくつかの指標を総合することで、ある程度の結果が得られるのではないだろうか。こうした観点から、日本のランキングを7種類以下に並べ、経済規模で日本を上回る米国や中国と比較してみる(一部の統計では中国は対象になっていない)。

指標日本米国中国
人間開発指数(2009) 10位 13位
より良い暮らし指標(2012) 21位 3位
世界最高の国(2010) 9位 11位 59位
一人あたりの包括的冨 (2012) 1位 2位
最も住みやすい都市(2005-06) 12位 23位 84位
世界によい影響を与えている指標(2009) 2位 7位 8位
国家ブランド指数(2009) 5位 1位 22位

これらの資料を見ると、日本は数字に表れやすい経済指標や、メディアで報道されるイメージ(政治停滞や社会問題)に比べ、安全、清潔さ、社会の連帯や思いやり、教育・技能などの人的資本、文化面での創造性など、それらに必ずしも表れてこない分野でかなりの高い得点や、国際世論の好印象を得ていると推測される。

従ってここでは、こうしたプラスの評価を生んでいる要素のひとつであると思われる日本人の「国民性」について若干の考察を展開し、批判を仰ぎたい。

独特の自然観が育んだ日本文化

日本人の発想で特徴的なものを一つ挙げれば、それは自然観である。欧米では、人間はひとり一人が理性を有するがゆえに尊いと考える。そしてその理性の高い評価が二元論的発想を生んで、人間は機械に過ぎない自然を征服できるという発想がその文明の根底につくられた。しかし日本人は人間といえども所詮(しょせん)自然の一部であり、自然を征服するなどおこがましい、自然と同じレベルで、それと一体となって暮らすべきと考えている。

欧米のアプローチは科学技術を生んで文明に貢献したが、科学への過信と人間の思い上がりを生んで、それが回りまわって人間に災いをもたらすリスクを常に抱えるようになった。大量破壊兵器の管理や地球温暖化が、人間のコントロールを超えない保証はない。資源の乱開発は生態系を破壊する可能性がある。一旦破壊されたら人為的な介入で挽回できるものではない。善悪二元論は国家間、民族間で果てしない憎悪の連鎖を生みつつある。人間の思い上がりの危険を訴えるバベルの塔は聖書の中だけで起こることではないのだ。

これに対し日本人は、自然を怖(おそ)れ、科学技術によって自然を切り刻むことには一定の抑制が働く。自然には複雑な生態系に代表される節理があり、とうてい人間の理解できるところではないと考える。それが科学技術の発達において欧米に出遅れる原因となった。しかしこれほど科学が発達しても、いまだに自ら細胞一つ作れるわけではない人間の能力の限界を悟っている。迂闊(うかつ)な実験はフランケンシュタインを生むだけであるとの、自然への畏敬の念がある。

日本人が自然、特に季節の移ろいに敏感で、それと一体となることに喜びを感じることもよく知られている。手紙の書き出しには必ずその季節に相応(ふさわ)しいフレーズが使われる。同じ雨でも降る季節によって異なる名前がある。庶民に親しまれている魚の呼び方も、季節によって異なる。だからどの名前を使っているかで季節が分かる。五月雨や初ガツオは5月、名残ハモは9月というように。和食の盛り付けには必ず季節を表す葉や花びらを添える。

日本人は古来、動物はもちろん植物や、時には無機物にまで魂があると信じ、尊重してきた。動物が人間に化けて世話になった恩返しをするという話は多くの伝説やおとぎ話に出てくるが、動物が人間同様の恩や感情をもつことに何の違和感ももたない。使い古した針への感謝を表す「針供養」の習慣もある。これは原始宗教としてのアニミズムではない。現代ももたれている世界観である。

自然を畏敬し、自らはその一部にすぎないとの謙虚さをもつ結果、他人に対しても謙虚になる。全体のために自分を抑えることを厭(いと)わない。それによって全体が改善すれば自分もその恩恵に預かれる。我欲を出せば皆がこれに続き、混乱して皆が損をする。そのことを知っている。これは「3.11」直後の東北の被災者の行動に見事に表れた。耐え難い苦難をもたらした自然の猛威に徒に怒りを表すことなく、「仕方ない」ことと受け止めた。これは決して運命論者であること(fatalism)を意味しない。非建設的なことに無駄なエネルギーを費やすことなく、家族や仲間と手をとりあって、自然が次に与えてくれる恵みを待つという極めて現実的な知恵なのだ。

創作を支援する海外からの短期滞在型プログラム

外国人芸術家によるワークショップ。写真提供:アーカスプロジェクト実行委員会(茨城県守谷市)。

恐らくは相次ぐ自然災害と、季節毎(ごと)の海の幸、山の幸の恵みの歴史が、日本人にこのような哲学を生ませたのであろう。しかしこうしたアプローチは、限られた地球上で、人間が欲望のなすがままに自然を破壊し続けていくことができないことがはっきりしている今、そして善悪二元論によるテロ対策と報復の連鎖が悪化の一途を辿っている今、世界全体に共有されてもいいのではないか。そしてそれを薄々感じている人が多いからこそ、こうしたメッセージを秘めた日本のさまざまな文化が今人気を博しているのであろう。

漫画やアニメの多くは、単なるエンターテイメントではない。ディズニーアニメが勧善懲悪、アメリカンドリームを流布するように、日本のアニメには、意図しているか否かは別にして、日本的思想がメッセージとして込められている。宮崎駿のアニメはその典型だ。自然を尊び、人間の傲慢さを戒めるメッセージが言語ではなく、感性を通じて世界のファンに伝わっている。それが、上述のように日本のイメージを数字や言語に表れるもの以上に押し上げているのではないか。

言葉で説明しにくいものを言葉にしようという私の努力はこれくらいに留めておこう。読者の皆さん、ぜひ日本に来て、しばらく滞在してほしい。文化庁は2011年からアーティスト、クリエーター、研究者などの創作活動を支援する短期滞在型のプログラム「アーティスト・イン・レジデンス」への財政的支援を始めた。文科省や民間には留学生を招くプログラムもいろいろある。それらを使って来日し、そして私の仮説が正しいか否か、皆さんの鋭い感性で検証して頂きたい。

(2013年1月17日 記)