怒りはどこに向けられているのか—作家・吉田修一に聞く小説『怒り』の作品世界
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執筆のきっかけは英国人女性殺害事件
2007年、千葉県市川市で英国人女性英会話講師が殺害され、容疑者・市橋達也が整形を重ねながら3年近くにわたり全国をまたにかけて逃走した。この事件は、市橋容疑者の整形前・後で容貌が大きく変わった指名手配写真とともに、世間から大きな注目を集めた。2009年11月に逮捕されるまで、目撃情報が続々寄せられたが、その多くは別人に関するものだった。
ベストセラーとなった『悪人』(2007年)をはじめ、数々の話題作を放ってきた作家・吉田修一氏が、「市橋事件」にインスピレーションを得て作品に結実したのが長編小説『怒り』(中央公論新社)だ。新聞の連載小説として掲載、2014年に単行本で刊行されたこの作品は、ある殺人事件を巡る生々しい人間模様を描き、読み手の心を強く揺さぶる。
夏の暑い盛りに、八王子で若い夫婦が惨殺され、現場には「怒」の血文字が残されていた。その1年後、東京、千葉、沖縄に素性の知れない3人の男が現れる。指名手配写真にどこか似ている3人。このうちの誰かが犯人なのか。『怒り』は、犯人の心理や逃亡劇に焦点を当てるのではなく、それぞれの男たちと関わり合いになった人間たちの複雑な思い、行動を描いていく。自分が愛する男、信頼する男は殺人鬼なのか。
これまで『悪人』をはじめ、多くの作品が映画化されてきたが、9月に渡辺謙主演の映画『怒り』(李相日監督)が公開されるのを機に、原作者の吉田氏に創作の背景について聞いた。
まず舞台となる場所を決める
1997年に『最後の息子』でデビュー、2002年『パーク・ライフ』で芥川賞を受賞した吉田氏は、恋愛小説から犯罪小説、「純文学」からエンターテインメントまで、さまざまなジャンルの作品を書いてきた。だが、特に『悪人』を書いていた37歳の頃から、自分自身のものの見方に変化を感じ、作品世界が広がったという。
「次にこういうものを書きたい、世界を広げたいと思っても、小説は思い通りにはいかない。自分の中の世界が広がらないと書けない。焦りやじれったさはありました。例えば、マラソンで早く走りたいと思えばトレーニング方法があり、それを着実に毎日続けていけば、4時間台、3時間台で走れるかもしれない。小説の場合は、日々生きていく、書いていくしかない。『悪人』から急に(自分が)変わったという意識はなかったですが、描く世界が広くなったことは間違いない。デビューして5年後、10年後ぐらいに『悪人』を書いたとき、こういう作品を書ける “からだ” になっていたということです」
どの作品でも、まず思い浮かぶのは舞台となる場所であり、その場所にふさわしい人々を考える。そして彼らについて知りたいという興味で書き進めるのだそうだ。選ぶ場所は、自分が旅で訪れた土地が多い。『怒り』の舞台となったのは、千葉の房総、東京の新宿周辺、沖縄の孤島だ。
映画化された自分の作品を見て実感するのは、舞台とした場所が美しいということだ。映画『悪人』のときは、舞台とした九州北部の「ごつごつとした」冬の景色を改めて美しいと実感した。今回印象的だった景色は、千葉の漁港の後ろに広がる山々、沖縄の海の美しさ、東京の夜景だ。「すごく美しい場所、その中で人間のいろいろな感情が動いている。だからこそ書きたくなるのだと思う」
千葉、沖縄、東京のエピソードを交互に描きながら、今、日本のどこかで起きている事象、事件は決して自分と無関係ではない、全ての人が同じ状況に置かれ得るのだということを突きつける。人はどこまで他人に踏み込めるのか。そして、愛を、友情を信じられるのか。登場人物たちはそれぞれに試される。
書くべきことは殺人の動機ではない
当初、素性の知れない3人の青年のうち、誰が逃亡中の犯人、山神一也なのか、自分でも決めずに書き進めていた。「最初は山神の動機を探すために、誰が山神なら納得できるのかずっと考え、必死に書いていた」と吉田氏は言う。だが、ある時点で「なんでこの人は人を殺したのか、小説としての流れはそちらではないと感じた。(作者の自分も)結局、彼が何で殺したのかわからなかった。もちろん、分かったふりをするのは簡単だが、それはやめようと思った。(動機が)分からないという事件もある」
「新聞連載のときは山神の両親、友達の証言などを書いていた。単行本にしたときに、その部分を削りました。『怒り』という作品の中では、最終的にそこはいらないと思った」
「怒」と血で殴り書きをした山神の心の闇は計り知れない。だが、この小説は、殺人者の怒りの根元を探るのではなく、むしろ、3人の青年に関わる人々の怒りが描かれていると言える。大切な人を信じたいのに信じられない自分への怒り、また信じたのに裏切った相手への怒り。そして作品全体に、人が人を容易には信じられない現代社会の閉塞感、不安感が漂う。
「昔なら、例えばお隣に引っ越してきた人に、最初からコミュニケーションを取ろうとして積極的に近づくことが多かったかもしれない。その人が、自分と同類だと思って接するから安心して踏み込めるのです。ところが、社会環境が変わり、例えば隣に外国人が来たら、一歩引く。それはうまく付き合いたいと思うからでもある。世界が大きくなっていくほど、逆に前に出ていけないということはあるでしょう。デリカシーの問題はありますが、難しいところですね」
『オーシャンズ11』のような “ドリームキャスト”
映画『怒り』を監督した李相日監督は、『悪人』の映画化(2010年公開)で吉田氏(『悪人』では脚本も監督と共同で担当)と仕事をしている。李監督は、「人が人を信じることが難しい今の時代の中で、吉田さんは小説という形で、一人で格闘している。そのバトンを映画という形で受け継いで世に出して行く必要があると感じた」と語った(7月11日完成報告会見)。
「僕は小説家ですし、李さんは映画監督なので、(世の中の在り方に)何かを言いたいと思っても、結局作品で表現するしかない。李監督のように、僕が書いたものをちゃんと受け取ってくれる人が1人でもいれば、書いたかいがある。今回の映画を見てくれた人に、(自分が伝えたいことが)伝われば、まさに本望です」
信頼している李監督に、『悪人』につながる要素があると自らが感じていた『怒り』の単行本の見本を送って感想を求めたところ、李監督から『怒り』を映画化したいと打診があったそうだ。吉田氏は、映画化するならハリウッド映画『オーシャンズ11』のような「オールスターキャスト」にしてほしいと希望したという。「『怒り』という小説を映画にするのは『悪人』の時よりもはるかに難しいという直観があったんです。何が(映画としての)武器になるかと考えたとき、オールスターキャストだと思った。それから、(千葉、東京、沖縄)それぞれの地点(場所)で “マイノリティー” の人たちを描くわけですが、そういう人たちを超メジャーな俳優たちが演じることに意味があるのでは、と思いました」
映画『怒り』で、国際的スターの渡辺謙は、正体不明の男と付き合う娘の身を案じて苦悩する千葉の漁協職員・槙洋平を演じる。その他、ゲイの恋人同士を演じる妻夫木聡、綾野剛をはじめ、宮﨑あおい、松山ケンイチ、森山未來、広瀬すずといった主役級の俳優たちが、これまでのイメージを打ち破る役柄で素晴らしい存在感を見せる。テーマ音楽は坂本龍一だ。邦画、洋画、アクションとジャンルを問わず映画をよく見るという吉田氏だが、「原作者としてではなく、一映画ファンとしてこの映画を見て、これまで見たことのない日本映画だというのが第一印象でした。過去に見たどんな映画のタイプにも、当てはまらなかった」
海外で読まれるということ
世界で最も知られている日本人作家は、その作品が各国で翻訳されている村上春樹氏だが、吉田氏の作品も多くが海外で翻訳されている。自らの作品が海外の読者に読まれることをどう感じているだろうか。
「この10年ほど、韓国、台湾、中国では日本で新作を刊行すると、そのたびにすぐに翻訳されます。それで(海外読者のことを)多少意識をするようになった。例えば、かつては“中国人”と普通に書いていました。今は、これは中国の人が読むんだ、と思う。それまで、自分がいかに何も考えずに(国籍などを)記号として使っていたのか、すごく意識するようになりましたね」
初めて英訳された作品は『悪人』だった。ウォールストリート・ジャーナル(電子版)で紹介され、スウェーデンのミステリー作家で『ミレニアム』が世界的ベストセラーとなったスティーグ・ラーソンと比較されたときは、嬉しかったという。
『怒り』は『悪人』に連なる系列の作品で、心理サスペンス、ミステリーの要素も強い。英語で刊行されても多くの読者を獲得するだろうし、ハリウッドが映画をリメイクして世界配給することも十分あり得るのではないか、と聞いてみた。
「今、この作品に限らず、どこの国が舞台になっていても(世界で共通に)成立します。例えば、ソウルの話を東京に持ってきても違和感がないでしょう。アメリカにしても、ヨーロッパにしても(そこで生きる人間の)状況、やっていることはほぼ共通している。この前ニューヨークに行ってスターバックスでコーヒーを飲みながら感じたのは、ニューヨークでもやっていることは東京と変わらないじゃないか、ということ。どこにいても、(今を生きる人間が)そこで感じることは実はあまり変わらない」
現代の日本社会、日本人を描くことが普遍性を持つ、そんな信念からか、自然体で気負いを全く感じさせなかった。
インタビュー・文=板倉 君枝(ニッポンドットコム編集部) 撮影=花井 智子