ロシア文学と共に30年—群像社 島田進矢氏に聞く
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ノーベル賞騒動
——群像社は2015年にノーベル文学賞を受賞したベラルーシの作家スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチの本を3冊出版していたことで、メディアに注目されました。しかし、契約上の問題で、増刷はおろか在庫の販売もできないということになり、そのことについては、群像社のウェブサイトでオフィシャルな声明も出されて収拾をはかられたという経緯があります。それがまずtwitterなどのソーシャルメディアで拡散されて注目され、結果として複数の全国紙でもとりあげられました。
島田進矢 今でも注文の電話やFAXがかかってくるんですが、群像社での販売はできない旨説明しています。アレクシエーヴィチの既刊は別の出版社から刊行されることになると思います。(※1) もともと、アレクシエーヴィチの本は訳者の三浦みどりさん(故人)の個人的熱意によるところが大きく、最初の『ボタン穴から見た戦争』の翻訳権の取得は作家から直接おこなっていました。
ソヴィエトでは著作権に対する意識がほかの国と異なっていた事情もあり、群像社ではロシアの作家と個人的に連絡をとって作品を刊行してきました。エージェントを通さないことで手数料を抑え、群像社が支払える限度の翻訳権料で交渉を行うためでもあります。
しかし、今ではロシアの作家もある程度有名になるとエージェントがつき、エージェントを通して交渉することになります。ロシアの場合、国内ではエージェントの制度がまだ浸透していないせいか、国外のエージェントがつくことが多いですね。エージェントの役割は作者の代理人として、利益を最大化することですから、出版社と利害が対立することもあります。ヴィクトル・ペレーヴィンなども、群像社が日本では他社にさきがけて出版してきましたが、現在はおそらく翻訳権料も高騰していて群像社では手が出ないかもしれないです。アレクシエーヴィチの件は、途中からエージェントがついて、こちらの熱意だけではどうにもならず、単純にお金の問題になったかな、という感じです。
——これは私(秋草)の私見ですが、難しいのは、エージェントが日本の出版事情にかならずしも通じていないところです。ノーベル賞をとったとはいえ、すぐ忘れられてしまいますし、そもそも現在、翻訳文学の市場が縮小しきっていることを考えると、時間をおいて大手が刊行したところで、そこまでの販売部数を見こめるのか疑問です。実際、アレクシエーヴィチの著作のうち一冊『アフガン帰還兵の証言』を刊行していた日本経済新聞社はノーベル賞決定後も復刊・増刷を見送っています。そう考えると、群像社に少し高めの更新料を支払わせてでも、この1、2か月の「ブーム」の間にできるだけさばいたほうが結果的によかったということになるかもしれません。
群像社設立の歴史
——島田さんの入社前になりますが、群像社が1980年に設立されたときの経緯、その後の歴史について簡単にお話しいただけませんか。
島田 前社長の宮澤俊一ほか2名が社を設立した当時は、ソ連の文化・文学を紹介する目的でソヴィエト政府が支援をしていた『ソヴェート文学』の刊行を、引き継いでおこなっていました。かならずしもソ連側の要求通りに作ったわけではないですが、目次の骨格は先方から送られてくるものだったようです。
——自国の文学の翻訳に対して援助するというのは、ソヴィエトに限った話ではなく、日本をふくめ、多くの国がやっていることだと思います。
島田 ただ群像社の場合、設立当初は「商社」の顔も持っていた、という事情があります。ソヴィエトは「友好商社」に対して優先的に貿易の割り当てをおこなっていたと聞いています。群像社は友好商社としてその割り当てをもらい、それを別の総合商社にまわして手数料を得ていました。ソ連が崩壊すると、当然こういった友好商社も廃止されましたから、社会の下部構造までさまざまな影響があったわけです。
他方で、援助を受けずにシリーズ「現代のロシア文学」を独自に立ちあげ、同時代のロシア文学を紹介していくことになりました。これはむしろ、ソ連にも社会主義リアリズムどっぷりの作品だけでなく、おもしろい文学があるということを紹介する目的で作ったのです。
その後、ソ連が崩壊したため、群像社も一時存続があやぶまれましたが、宮澤前社長のもとで新しいロシア文学の紹介を続けてきました。その中で1995年に私が立ちあげたのが、20世紀のロシア文学を紹介するシリーズ「群像社ライブラリー」です。時代の流れを考え、ソフトカバーで判型も小さくし、持ち歩いて読めるようなロシア文学にしようと考えました。ブーニンやブロツキイ、シニャーフスキイといった、過去にはできなかった、亡命作家の紹介も行うようになりました。
読者の変化
——島田さんが群像社に入社されたのが1988年、宮澤前社長が2000年に亡くなられてからはひとりで出版社の全業務を担当されてきました。この28年間で群像社の本の読まれ方や読者の変化について、感じられていることはありますか?
島田 1980年代は自分の政治的立ち位置で、読むものがある程度決まっていたところがあります。当時は今よりもアメリカの文化的影響が甚大でしたし、群像社の本を読む人は、政治的に先鋭的というほどではないけれども、非主流派で、なんとなくロシア・ソ連文化にシンパシーやノスタルジーを感じていた層が多かった気がします。
現在はそのような政治的すみわけはなくなり、趣味が多様化しました。いま群像社の本を読む若い人は少し変わった世界、自分の身のまわりにはないような奇妙な感覚を求めているひとが多いかもしれません。
——たしかに私が最初に群像社の本を読んだのは大学生のことでしたが、ロシアのものというよりはなにかおもしろいものを探していて読みました。「群像社ライブラリー」は表紙のデザインも、シンプルさのなかに洒脱な雰囲気があって魅力的でしたし、学生も買うことのできる価格です。政治的スタンスや国別の専門性とは離れた個人的な嗜好で本を選ぶ、一種「オタク」的な世代の最初のほうだったのかしれません。
趣味の多様化が本が売れなくなった要因のひとつでもあると思うのですが、逆に小回りの利く小出版社に有利な面も出てきました。大手が外国文学の翻訳から撤退する中で、初版1000部から2000部で本をつくって、少し時間はかかっても売り切っていければいいと考えています。また、現代ロシア文学だけでなく、古典を紹介する「ロシア名作ライブラリー」もはじめました。これも背景には翻訳権の高騰があります。多様なニーズに対応するため、色々と手を広げながら、利潤が出れば現代ロシア文学のまだ注目されていないような作家の翻訳権を買って、出しつづけていきたいと考えています。
——私も今年、群像社から現代ロシア文学の訳書をださせていただきましたが(ドミトリイ・バーキン『出身国』)、全国紙で紹介されたり、評判自体は悪くなかったにもかかわらず、発売半年で実際に売れたのは400部ぐらいとうかがいました。訳者もそうですが、現代の外国文学の翻訳を出版して会社を経営していくのは、かなり厳しいと実感いたしました。
群像社の未来
——最後に今後の群像社の予定をうかがってもよろしいでしょうか。また、「ひとり出版社」ということで、「やめどき」のようなものは考えておられるのでしょうか。
島田 これからの予定として、編集中なのが現代音楽の作曲家シュニトケのインタヴュー集です。ほかにも訳者の方にずっとお願いしているレスコフの短編集をなんとかだしたいと思っています。極端に「変なもの」は売るのもたいへんですが、ちょうどいいくらいの「変なもの」なら、それはある意味ではロシアならではのもの、ということになるのでしょうが、そういう本ならある程度は売れるという感覚はありますから。
今年、やはりロシア関係の書籍を多くてがけていた東洋書店が倒産しました。東洋書店が発行していた「ユーラシア・ブックレット」をひきつぎ、スタートすることになったのが、「群像社新書」とでも言うべき「ユーラシア文庫」です。年末より、年10冊、順次刊行していきます(宮崎信之『バイカルアザラシを追って』、クリメント北原史門『正教会の祭と暦』が刊行中)。
「やめどき」についてですが、世の中から必要のない出版社だと思われたらそれが「やめどき」と思ったこともありましたが、いまはできるだけ長くつづけていきたいと思っています。出版社が社会的存在だとすれば、経営者が死んで会社が終わるのは不健全だとも思いますので、後を継いでくれる人が出てくるのは幸福なことですが、まだその段階ではないですね。とりあえず自分の目が見えているあいだは続けるつもりです。——今日は貴重なお話をありがとうございました。今後も末永く「変なもの」をだしつづけてもらえるよう読者として、研究者・訳者として願っております。
(インタビューは2015年12月3日に行われた。聞き手:東京大学教養学部講師・秋草 俊一郎 インタビュー写真:大谷 清英)(※1) ^ インタビュー後に、アレクシエービッチの『戦争は女の顔をしていない』『ボタン穴から見た戦争』が、2016年2月に岩波現代文庫から刊行されることが発表された。