6000人のユダヤ難民を救った「好ましからざる」男—映画『杉原千畝 スギハラチウネ』チェリン・グラック監督に聞く
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日本人、ポーランド人のキャストを結ぶ日本生まれの米国人
戦時中、ナチス・ドイツの迫害からリトアニアに逃れてきたユダヤ難民に独断で日本通過ヴィザを発行し、6000人もの命を救った外交官・杉原千畝。戦後、外務省から退職勧告を受けて辞職した彼の存在は日本では長らく忘れられていた。1985年、イスラエル政府から戦時中ユダヤ人を守った功績に対する感謝の称号を贈られた千畝は、その翌年86歳の生涯を閉じた。外務省が千畝の外交官としての「名誉回復」を行ったのは、没後5年を経た1991年のことだ。
映画『杉原千畝 スギハラチウネ』(12月5日公開)は、近年「日本のシンドラー」と呼ばれて再評価されている千畝―海外ではSempoと呼ばれた―のヴィザ発給をめぐる静かな闘いを描いた作品だ。リトアニア・カウナスの領事代理だった杉原千畝を演じる唐沢寿明、妻・幸子役の小雪をはじめとする多彩な日本人キャストに加え、第一線で活躍するポーランド人俳優たちの存在感がドラマに厚みを与えている。ポーランドでのオールロケ撮影を指揮したのは、日本生まれの米国人、チェリン・グラック監督だ。
ユダヤ系米国人の父と日系米国人の母の間に生まれたグラック監督の多文化的背景、複眼的視点が、この映画の“隠れた主役”といえるかもしれない。
「スーパーヒーロー」ではない1人の男の静かな決断
グラック監督がこの作品で描きたかったのは、いわゆる「スーパーヒーロー」や「偉大な日本人」の物語ではなく、1人の人間が重要な判断を迫られたときの決断の過程だ。
「 “Extraordinary things happen to ordinary people.” ―というように、普通の人に尋常ではない事態が起こり、それに対応していく過程で初めてヒーローが生まれるのです」と監督は語る。「千畝は、その選択が少なくともその時点で自分としては正しいことだと決断した。誰にも誇示することなく、普通に正しいと思ったことをして、その結果、何千人もの命が救われ、その子孫が何万人にも増えた。その結果ヒーローとなったわけです」。
グラック監督自身は、千畝に関して、特に深く知っていたわけではなかった。何年か前に『河豚(フグ)計画』(The Fugu Plan /1930年代に日本で進められたが実現しなかったユダヤ難民の移住計画)という本の中で、千畝に関する言及があったときも、「これがよくいわれる“日本のシンドラー”という人かと思った」程度だったという。
だが、今では「シンドラーと千畝を比べるべきではない」と力を込める。スティーヴン・スピルバーグ監督の『シンドラーのリスト』(1993年)で世界的に知られるオスカー・シンドラーは、「自分の工場にいる人を救った。身近な人を救ったシンドラーと見知らぬ人たちを救った千畝は違う」と。
「ペルソナ・ノン・グラータ」にこめた意味
その一方で、グラック監督は、「千畝」のような人は世界のいろいろな場所に存在したと指摘もする。「ウイーンにいた中国の領事、マルセイユにいたアメリカの領事も、多くのユダヤ人を救っています」。
監督は映画の英語タイトル「Persona Non Grata(ペルソナ・ノン・グラータ)」(好ましからざる人物)に強いこだわりをみせる。千畝はその諜報活動によって、ソ連側から「Persona Non Grata」の指定を受けて入国を拒否され、在モスクワ日本大使館へ赴任できなくなる。「軽蔑されて締め出された経験」を持たなければ、排外される人間の気持ちはわからない、という思いと、戦時下で千畝のような行動をした人は他にもいたという思いを込めているからだ。
この複眼的視点が、映画のコアな場面で過剰な演出を避けるというグラック監督の基本的スタンスにつながるのかもしれない。また、それは千畝を演じる唐沢の意向でもあった。
1940年、リトアニアはソ連に併合され、各国の大使館・領事館は続々と閉鎖されていた。ユダヤ難民たちは、シベリア鉄道で極東まで進み、日本へ渡って米国などへ脱出するしか逃亡ルートがなかった。そのため、日本の在カウナス領事館へ難民が殺到した。すでに領事館閉鎖の勧告をソ連から受けていた千畝だが、閉鎖までの約1カ月間、そして閉鎖後もリトアニア出国の直前まで、千畝はヴィザを発給し続けた。領事館のスタッフも一緒になって淡々と事務作業を続ける描写は、抑制がきいているからこそ胸に迫る。
10月にはリトアニア・カウナスでワールドプレミア上映を行い、上映後は5分におよぶスタンディングオベーションが起こるほど熱狂的な反応だった。「“どうしてカウナスで撮らなかったの、カウナスに見えない”と(観客の)おばあちゃんに怒られた」と監督は笑うが、映画文化の歴史が根付くポーランドで撮影できて恵まれていた、と語る。「千畝が救ったといわれる大半の難民はポーランド人でした。だからポーランドで撮影してポーランドの素晴らしい役者を使えたことは本当によかった」。
日系人収容所を体験した母の忘れがたい言葉
この映画の底流にはユダヤ人をはじめとするさまざまな人々の苦難の歴史、記憶がある。それらは、グラック監督の両親、監督自身の体験にも深く結びついている。
「父は17歳の時、年齢をいつわって“ドイツ軍をこらしめたい”と海軍にはいり、母は(日系収容所の)Rohwer Arkansasに入れられました。父、母からいろいろと聞いた戦時中の話が僕の中の“データベース”に入っている」。だからこそ、役者の演技に違和感を覚えたときに、真情のこもった演技を引き出すための的確な助言が出せたのだと言う。
監督にとって特に忘れがたいのは、高校生の時に聞いた母親の言葉だった。日系人収容所に入れられたことは不幸だが、「人生では不幸な中から幸運も生まれてくる」という言葉だ。母親によれば、戦時中、日系人の若者が収容所を出る機会は、「徴兵」「周辺の農家の手伝い」、そして「大学進学」だったという。大学に行きたければ、政府が大学に送ってくれた。もちろん合衆国に対する忠誠心が認められることが前提だ。農家の娘で、収容所に入る前はタイピストだった母親は、ニューヨークの大学に進学してドレスデザインを学び、ニューヨークで父親と出会った。「2人が出会わなければ、僕も生まれなかったからね」。
多文化間を橋渡しする日本育ちのアメリカ人として
グラック監督は和歌山県に生まれ、広島、神戸で少年時代を過ごした。戦後、古代ペルシャ専門の考古学者としての道を歩んでいた父親の研究のために、家族はイランでの生活も体験した。日本では「外国人」とみなされ、監督自身も、日本育ちで日本語を流暢に話しても、自分は「アメリカ人」だという意識を強く持っていた。だからこそ、米国の大学に進学したとき、「アジア系アメリカ人」のサークルから誘われたときには、反感さえ覚えたと言う。「アメリカに行くまでは自分がAsian Americanだと思ったこともなかった」。
かつて監督は、生活する国の文化と両親の出身国の文化の橋渡しをする子どもたち、“third culture kids” という言葉が好きで、その自負も持っていた。だが「今では、むしろ “multicultural kids” とか、“global kids” と呼ぶ方がずっといいと思う」。
『杉原千畝 スギハラチウネ』には、アメリカの日系2世部隊がドイツのダッハウ強制収容所の生存者を救う場面がある。これは生存者が後に書き残している実際にあったエピソードだ。敵性外国人として強制収容所に入れられた日系人2世たちで編成された部隊は、合衆国への強い忠誠心を示すために、熾烈な戦いに身を投じ、アメリカ軍の中で最も多くの死傷者を出しながら、最も多くの戦功をあげた。日系人兵士がユダヤ人少年を救い出す短いが印象的な場面には、監督の強い思いが込められている。
グラック監督の背景を知ることで、映画の興味深さも、感動も倍増するはずだ。
(2015年11月24日都内でのインタビューに基づき構成)
タイトル写真=リトアニア領事館でのヴィザ発給の場面/ポーランドロケ現場のチェリン・グラック監督 ©2015「杉原千畝 スギハラチウネ」製作委員会
聞き手:一般財団法人ニッポンドットコム代表理事・原野 城治/文:板倉 君枝(編集部)/インタビュー写真:大谷 清英(制作部)