香西宏昭:ドイツでも活躍、車いすバスケットボールの日本代表エース
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漫画『リアル』でも注目の車いすバスケ
まさに電光石火――。車いすを操作していた手が瞬時にボールをキャッチ、すかさずゴール目掛けてボールを放つ。車いすバスケットを一度でも見れば、そのスピード感に誰もが圧倒されるはずだ。試合中には接触や転倒が頻繁に起こり、タイヤの焦げたようなにおいが観客席に漂う。
バスケットボール漫画の金字塔『スラムダンク』の作者・井上雄彦が、車いすバスケをテーマにした漫画『リアル』を『週刊ヤングジャンプ』に連載中ということもあり、競技への注目度は高い。
その人気をけん引するのが、日本代表のエースで2013年からドイツ1部リーグ・ブンデスリーガで活躍する香西宏昭選手だ。
上半身で車いすを動かしボールも操るため、胸板の厚さや腕の太さはトップラグビー選手並みに発達している。
2020年への布石=「トランジションバスケ」への転換
2年前、パラリンピック出場3回目となるリオ大会に出場した香西は、メダル獲得に燃えていた。公私ともに尊敬する及川晋平が代表監督に就任し、周りからはベテランの藤本玲央(れお)と共にダブルエースと期待されていた。ブンデスリーガでプロとして活躍しているという自負もあった。
「北京とロンドンではチーム最年少で、自分自身の技術がどれほどのものか、とにかく思い切り力を出し切りたいという意識の方が強く、日本を代表することの重みが分かっていなかったのかもしれません。リオでは2020年東京への前哨戦という意味合いもあったので、勝ち進みたかった。でも、結果が得られなかった。それで、これまでの積み上げではなく、根本から僕もチームも変わらなければならないと実感しました」
それまではただスキルのレベルアップに多くの時間を費やしてきたが、リオ大会後はメンタルトレーナー、フィジカルトレーナーなどの分野のプロにも教えを仰ぎ、戦術は攻守の切り替えの速さを追求する「トランジション」を採用。加えて香西は4年間所属したハンブルクからトップチームのランディルに移籍した。全て2020年への布石だった。
こうした取り組みが実り、日本代表は今年6月に東京で開催された「三菱電機ワールドチャレンジカップ」4カ国対抗では、格上のオーストラリア、カナダ、ドイツを相手に優勝をもぎ取った。2年後に向けて、順調な船出を切ったかに見えた。
ところが、その2カ月後の世界選手権(ドイツ)では、日本は9位に沈む。2012年ロンドン、14年世界選手権、16年リオに続く4度目の「9位」だ。香西は無念さを隠さない。
「目標にしていたベスト4には入れなかったが、リオで負けたトルコや強豪のイタリアには勝つことができたので、チームのレベルが上がっていることは確か。負け試合は全て僅差だった。要するにチームにはまだ波があるし、逆転するしぶとさ、逃げ勝つしたたかさが足りない」
車いすバスケのルールは、車いすを使う以外は一般のバスケとほぼ変わらない。圧倒的な強さを誇るのは米国だ。香西が留学したイリノイ大学を筆頭に大学が車いすバスケに組織立って取り組み、「インカレ」(大学バスケットボール選手権)の実施などパラアスリートにとって素晴らしい環境が整っている。米国と並び車いすバスケの発祥の地とされる英国もトップレベル。サッカーのプレミアリーグと同様に各都市にチームがある。海外からのプロ契約選手が多く存在するドイツ、スペイン、イタリア、そして車いすバスケのアカデミーを有するカナダも常に優勝候補に挙げられる。それら強豪国の一角に日本はどう分け入るのか。
「世界選手権では結果が出せなかったが、僕らが追及しているトランジションバスケが間違いではないことは分かった。攻守の素早い切り替えは、器用で俊敏な日本人が得意とするところ。個々がさらに体を強化し、メンタルを整えて行けば2020年には必ずメダルにたどり着くと思います」
12歳で車いすバスケットの世界へ
千葉市出身の香西は、先天性両下肢欠損で生まれた時から膝から下がない。だが学生時代にバスケット選手だった父の影響もあってスポーツ好きな少年だった。ちなみに香西の背番号「55」は子どもの頃から大ファンだったプロ野球選手の松井秀喜にあやかったもの。
12歳の時、地元のフリーペーパーで車いすバスケ体験会の告知を見た母に勧められ、父と参加した。
「普段の車いすより扱いやすいしスピードもあり、ターンもできる。それが面白かった」
主催したのは千葉ホークス。この体験会で香西は当時の主将で現在は日本代表のアシスタントコーチを務める京谷和幸に出会い、「一緒にやってみないか」と誘われる。ちなみに京谷は、元Jリーガーの車いすバスケ選手としても有名だ。そして現日本代表ヘッドコーチの及川が香西少年の練習メニューを組むようになる。香西の生真面目さはその頃から発揮され、及川が「腕立て伏せ、腹筋、背筋を毎日1回ずつ増やして、回数をメールするように」と告げると、香西は忠実に守った。当の及川はその約束を失念し、ある時とんでもない数字になっていることに気付き、慌てふためいたという。
「人生の師」と出会い、イリノイ大学に留学
中学1年の時に及川らが主宰するJキャンプに参加。そこで人生の師ともいえる車いすバスケの世界的な名コーチ、マイク・フログリーに出会った。このキャンプでフログリーから『10年後が楽しみで賞』を授与された香西は、車いすバスケにのめり込んだ。
高校1年でジュニア日本代表に選抜され、世界遠征に出向くようになると、世界が急に身近になった。
「中学の頃から、マイクさんにアメリカに来ないかと誘われていたのですが、あまりピンと来なくて…。でも高校生になってアメリカの大学を意識するようになったんです」
父は息子のそんな心の内を読んでいた。高1のある日、父にこうただされた。
「お前はアメリカの大学に行きたいのか?はっきりしてくれないとお金の算段がある。留学費用は即座に出せる金額ではないからね」
香西は悩んだ末に「行きたい」と宣言。高校卒業後の米国行きは取りも直さず、フログリーがバスケットボールを指導するイリノイ大学への進学を意味した。
出発1週間前になると不安と恐怖で食事がのどを通らなくなった。英語もろくに話せない自分が米国で一人暮らせるのか。車いすバスケの実力が通用するのか。考えることすべてが不安だらけだった。
「出発する日は大泣き。しゃくり上げて泣きじゃくりました」
「文武両道」で結果を出し、ドイツで技を磨く
渡米後、香西の生真面目さと真摯(しんし)な態度は、言葉の壁を打ち破る。まずイリノイ大学のコミュニテイーカレッジに通いながら英語を学び、大学でマイクの指導を仰ぎバスケの腕を磨いた。2年半後にイリノイ大学の編入試験に合格、スポーツマネジメントを専攻する。車いすバスケの仲間たちが、自分のこと以上に喜んでくれた。
「マイクは文武両道を求めたので、バスケと勉強で毎日必死でした。1日の時間割をこなすのに精いっぱいで、米国にいた6年間、つらいとか苦しいなんて思う感情すら湧きませんでした」
大学では主将を務め、大学選手権では2度のシーズンMVPに輝いた。だが、香西は車いすバスケでの栄光より、大学を無事卒業した時に初めて「自分を褒めたくなった」と言う。
「オレ、ついにやり遂げたんだなあって…」
卒業後は米国にとどまるか日本に帰国する選択肢もあったが、あえて環境の異なるドイツ・ブンデスリーガでプロとしてプレーする道を選んだ。世界トップレベルの選手が集まる厳しい環境にプロとして身を置くことでさらに自分を鍛え、実力を磨けると考えたからだ。さらなる進化を求めて移籍した強豪ランディルでのシーズンを終え、今後はパラリンピック東京大会に照準を合わせてドイツでの経験を日本代表チームの中で生かし、伝えることも意識している。
世界を知る香西は、自らを含めた日本代表チームのレベルアップを信じている。日本人の器用さや俊敏さを生かしたメイドインジャパンの「トランジションバスケ」の精度を高めれば、きっと黄金の扉をこじ開けられるはずだと。 (文中敬称略)
インタビュー撮影:花井 智子
(撮影協力:オリエンタルホテル東京ベイ)