
黄金伝説を生み、日本を支え続けた佐渡金銀山
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平安時代から「金の島」だった佐渡
佐渡島は、古くから「金の島」として知られていた。平安時代末期(12世紀前半)に編まれたとされる説話集『今昔物語集』には、能登の国司に仕えた鉱夫が佐渡に派遣され、千両ほどの金を持ち帰ったという話がある。能の大成者である世阿弥は、流刑地の佐渡でつづった小謡(こうたい)集に『金島書(きんとうしょ)』(1434年作)と名付けた。
左が西三川(にしみかわ)砂金山の虎丸山(とらまるやま)。右が鶴子(つるし)銀山の坑道跡が残る大滝間歩(おおたきまぶ)
佐渡最古の砂金山といわれる西三川砂金山の操業が1460年頃。そのため、当時は主に砂金を採集していたと考えられる。1542年に鶴子銀山が発見されたことで、鉱山の採掘技術と運営方法が佐渡で蓄積されていく。そして、1601年に鶴子銀山の山師によって相川金銀山が発見されると、それまでに集積した鉱山技術によって一気に開発は進み、「金の島 佐渡」としての歴史が本格的に動き出す。
相川金銀山のシンボル的存在「道遊(どうゆう)の割戸」。巨大な金鉱を掘り進むうちに、山がVの字に割れた。山頂部の割れ目は幅およそ30メートル、深さは74メートルにも及ぶ
ゴールドラッシュで町の風景が一変
相川金銀山の発見から1年後の1602年、初代佐渡代官になった田中清六から徳川家康のもとに1万貫の銀が送られた。金に換算すると17万両(現在の価値で推定200億円)ほどの価値になるという。現在の相川金銀山は一般に「佐渡金山」と呼ばれているが、17世紀初頭は銀の採掘量の方が多く、当時世界一と言われたボリビアのポトシ銀山に次ぐ銀の山でもあった。最盛期には年間400キログラムの金とともに、40トンに及ぶ銀が採掘されていたという。
「史跡 佐渡金山」に向かう途中にある、忠実に復元された「佐渡奉行所跡」
金銀山を重視した家康は、江戸幕府を開いた03年に佐渡を直轄地の天領とする。鉱山経営に通じていた側近の大久保長安を佐渡代官として送り込み、佐渡金銀山だけでなく、相川の町の改革にも当たらせた。
それまで20軒足らずの寒村にすぎなかった相川は、17世紀前半には人口5万人という巨大な鉱山町へと変貌する。5万人といえば、17世紀後半に商人でにぎわった長崎とほぼ同じ人口である。相川の広さは約4キロメートル四方で、人が住める市街区域はその半分程度しかなかった。そのため、当時としては珍しい3階建ての家屋があったという。当時の殷賑(いんしん)ぶりは、「市蔵建て続き、都をうつせるが如しとして、今も其の所を京町と申せり」(『佐渡風土記』)と記録されている。
「史跡 佐渡金山」の展示史料館には、江戸時代の相川のジオラマがある
働いていたのは罪人ばかりではなかった
佐渡は世阿弥以外にも、順徳上皇や日蓮聖人といった歴史上の人物が流された地だ。そのせいもあり、佐渡金銀山といえば罪人が働かされていたというイメージが根強い。だが、相川金銀山の遺構を展示する施設「史跡 佐渡金山」で広報を務める名畑翔(なばた・しょう)さんは、それは誤解だと指摘する。
「江戸時代の佐渡金山では『山師』と呼ばれる職人の他に、『無宿人』と呼ばれる人々も働いていました。江戸時代中期に入ると各地で天災や飢饉(ききん)が多発し、家や職を失った無宿人が大挙して江戸に流入してきます。無宿人は罪人ではありませんが、犯罪予備軍とも考えられ、その対策に幕府は苦慮していたのです」
江戸時代の坑道「宗太夫坑」内にあった休息所を再現。こうした山師たちは高給取りだった
同時期、佐渡金山では人手不足が深刻になっていた。開山当初は比較的地面に近い場所での露天掘りだったが、90年後には坑道が海面下にまで伸び、採掘作業は湧き水との戦いになった。坑道の底にたまった水を外部に排出する労働者を水替人足という。
最初は近隣農家の次男三男が、そうした仕事を担っていた。重労働だったが、高い賃金が支払われたために周辺の町村は潤ったという。しかし、坑道が深くなるにつれて危険度も高くなり、人手が足らずに採鉱作業に支障が出てきた。そこで、当時江戸で増加していた無宿人が佐渡に送られたのだ。
「佐渡金山というと入れ墨者が酷使されていたという印象がありますが、そうではなかったのです。江戸時代を通して、佐渡金山で働いた無宿人の数は1874名。最盛期の相川が5万人を有する鉱山都市であったという記録からみても、金山に関わる労働者のほとんどは罪人ではなく、技術を持った職人や町民であったことが分かります」(名畑さん)