
赤いソバの花が咲く里へ
Guideto Japan
文化- English
- 日本語
- 简体字
- 繁體字
- Français
- Español
- العربية
- Русский
世界中で愛される穀物としてのソバ
日本におけるソバの歴史は古く、平安時代初期に編さんされた『続日本紀』(797年完成)に栽培方法が記録されている。そのためか、日本固有の食べ物だと思っている日本人は少なくない。
しかし、ソバは世界各地で栽培されている穀物。その調理法も、中国の韃靼(だったん)そば「苦蕎麦 (クゥ チャオ マイ)」や韓国の「冷麺」、イタリアのそば粉パスタ「ピッツォッケリ」のように、日本同様に麺として食べる国は多い。他にも、フランスのそば粉クレープ「ガレット」、ネパールのそばがき「ディロ」などがあり、ソバの消費量が世界一のロシアでは、ソバの実のおかゆ「カーシャ」が日常的に食べられている。
世界中でソバが食されている背景には、栽培の容易さがある 。乾燥した土地を好み、痩せた土壌でも生育するため、栽培可能な地域は広い。また、種をまいてから70〜80日程度で収穫できるとあって、小麦や米と比べて収穫が早いことも重宝される大きな理由だ。
箕輪町の道端に野生していたソバの花。左側が赤ソバの花で、右側が普通の白いソバの花。
ヒマラヤ生まれ、日本育ちの「高嶺ルビー」
ソバの原産地をたどると、中国雲南省からヒマラヤであるとされている。箕輪町の赤ソバもヒマラヤで生まれ、日本で改良された「高嶺ルビー」という品種だ。
強い紫外線が降り注ぐ標高3800メートルで咲くソバのうわさを聞きつけて、蕎麦研究家で当時信州大学教授を務めていた氏原暉男(うじはら・あきお)氏がヒマラヤを訪れたのは1987年のこと。そのソバは、過酷な環境下で成長するためにアントシアニンという赤色のポリフェノールを蓄え、赤い花を咲かせる。美しい姿に魅了された氏原教授は、数年かけて赤ソバを研究し、日本の気候でも花開く高嶺ルビーを作り上げた。
この時、共同で開発を行ったのが、伊那郡宮田村に拠点を置き、健康福祉機器や健康食品などの開発生産を行う「タカノ株式会社」。同社では、その後20年にわたって研究を続け、高嶺ルビーよりも色が濃く、日本の開花時期に訪れる台風に負けないように背を低くした「高嶺ルビー2011」を生み出した。現在、箕輪町で見られる赤ソバはこの品種だ。
背が低く改良された高嶺ルビー2011は、見下ろすように鑑賞ができるので、一面に広がるルビー色の絨毯のようだ
赤そばを守り続ける人々
赤そばの里 は、もともと50枚を越す段々畑で、ソバを含め、桑やとうもろこし、麦などの耕作が行われていたが、鳥獣被害により休耕地に。農地を活用するため、1997年から「中箕輪そば組合」によって高嶺ルビーが栽培されることになった。活動は8年間続けられたが、その後「土地を地主に返したい」との申し出があったという。
「赤ソバを楽しみにしている人がいるのに、やめてしまってはもったいない」と思って町に協力を求めたのが、当時上古田区長を務めていた唐沢さんだった。その考えに共鳴した人たちが集まり、2006年に「古田の里 赤そばの会」が結成された。そして、町から赤ソバの種を提供してもらい収穫できた種を町に返すという、委託耕作のような形で運営を始めた。
「赤ソバの花の見頃は、例年台風シーズン。花が満開になるか、お客さんが来てくれるかは天候に左右されるので、毎年一喜一憂を余儀なくされています」(唐沢さん)
入場料は無料だが、里の入り口に設置した協力金の募金箱にお金を入れてくれる人が増えているという。最近はそのカンパと、そば処や地元農産物の直売所の売り上げを合わせて、ギリギリで運営費が賄えるようになってきた。
「ホームページも私が自分で作っているんですよ。最近は、中国や韓国、台湾のお客さんが増えています。外国人が利用しやすいようにホームページの一部は英語に翻訳していますが、それも友人の女性に手伝ってもらっているんです」
唐沢さんは73歳とは思えない活力で、仲間と共に「赤そばの里」を守っている。今では国内外から多くの見物客が訪れる、箕輪町が誇る観光地になった。今後も、台風や天候不良に負けず、この美しい景色を守るために活動を続けていくという。
満開時期には大勢の見物客が訪れる(写真提供:古田の里 赤そばの会)
【施設データ】
「赤そばの里」- 花の見頃:例年9月中旬から10月上旬
- 長野県上伊那郡箕輪町上古田区金原地籍
- アクセス:自動車で東京方面からは、中央自動車道「伊北インターチェンジ」(新宿から約3時間)より15分。名古屋から約3時間、大阪から約5時間の「伊那インターチェンジ」より20分。一般駐車場とバス有料駐車場から赤そば畑まで徒歩約7分
- 入場料:無料
- 古田の里 赤そばの会
写真=三輪 憲亮