銭湯で日常の「旅」を楽しむ

銭湯絵師という仕事-田中みずき

文化 暮らし

銭湯にある大きなペンキ絵を描く絵師は、全国でわずか3人。唯一の若手として伝統を将来につなげる役割を担うのは、大学で美術史を専攻してこの世界に魅せられた女性だ。

田中 みずき TANAKA Mizuki

1983年大阪生まれの東京育ち。明治学院大学で美術史を専攻。在学中の2004年に銭湯ペンキ絵師の中島盛夫さんに弟子入りして修行を始め、2013年に独立。同年、便利屋を営む駒村佳和さんと結婚。現場では、駒村さんに足場を組んでもらうなど2人で協力して仕事をする。現在は銭湯をはじめ、個人宅、店舗や介護施設など全国各地のさまざまな場所でペンキ絵を制作。銭湯の魅力を伝える活動にも力を入れている。ブログ「銭湯ペンキ絵師見習い日記」を逐次更新中。

富士山から『シン・ゴジラ』まで

何と言っても一番苦心するのは富士山で、稜線の描き方に気を使う。「葛飾北斎のように、富士山を描くときには傾斜が急な険しい山にしている場合が多いですが、実際は、あそこまで急ではありません。描くときは、見ていて気持ちのいいなだらかな富士山を描くことを心がけます」

参考にするのは、絵はがき、旅行会社のパンフレットだ。「一般の人にとっての富士山はどう見えるのかを探る作業です。皆にとっての記憶の中の富士山の集積と言えるかもしれません」。目指すのは、誰にとってもどこか懐かしい富士山だ。銭湯のペンキ絵には桜や紅葉など季節を限定する風物は描かない。夕日もだめで、常に明るい昼の光景にするのが習わしだ。

田中さんによると、銭湯絵に富士山が多いのは東京や神奈川、埼玉県を中心とする関東圏。明治時代、浅草では巨大な富士山型の見晴台、神田錦町では汽車から眺めた富士山を描いたパノラマ絵の見世物が人気を呼ぶなど、「大きな富士山模型をみんなで楽しむ風習」があり、銭湯の富士山もそのなごりではないかと言う。関東以外の地域ではペンキ絵がなく、モザイクタイルや白塗りの木の壁だけという銭湯も多いそうだ。

独り立ちしたのは2013年。職人としてはまだまだ課題が多いと言う。「細かく描いてしまう性格なので…。ベテランの職人は力を入れるところは入れ、抜くところは抜いて、手早く描きます。もっと早く仕上げるようにしないと」

最近では、さまざまな宣伝目的で新たに銭湯絵を活用する動きも出てきた。大田区西蒲田にある「大田黒湯温泉第二日の出湯」では昨年、4カ月間の限定で田中さんが描いたゴジラのペンキ絵が登場。大ヒットした映画『シン・ゴジラ』がモチーフだった。

「蒲田で大規模なロケが行われたので、これを機会に地域をアピールしたいと、大田区から頼まれた」と言う。絵の左側には蒲田駅前の商店街、駅前ビルの観覧車や池上本門寺、右側には羽田空港と多摩川、その向こうに富士山を望むという構図だった。プロモーション期間が終わると、田中さんはこの絵の上に新たに富士山の絵を描いた。

「大田黒湯温泉第二日の出湯」の「ゴジラ 湯」。2016年7月から11月初旬までの期間限定で、壁面に田中さんが描いたゴジラが登場した TM&©TOHO CO.,LTD.

情報発信で銭湯の未来を開く

銭湯はまだしばらく淘汰(とうた)が続くだろうが、田中さんは、「銭湯が滅びることはない」と断言する。銭湯を愛する事業主や文化人が、その魅力を広めるためにさまざまなイベントを実施するようになった。田中さんも子どもたちと銭湯で絵を描くワークショップやライブペインティングのイベントを通して、広報活動に一役買っている。

20代の若者の間でも、銭湯は「古くさい場所」のイメージから「レトロで雰囲気のある場所」として再評価されつつあり、SNSで銭湯関連のイベントの情報を共有する動きもあるそうだ。2015 年には30代の銭湯好きのウェブ制作デザイナーが若い人に向けた情報発信のための「東京銭湯 – TOKYO SENTO -」を立ち上げ、順調に閲覧を伸ばしている。また、同サイトの運営だけではなく、昨年4月には1950年代から営業していた埼玉県川口市の「喜楽湯」の経営を引き継いだ。現場では20代の若い「番頭」が接客をしている。

こうした新たな動きはあるが、銭湯に興味を持ってもらうための情報発信はまだ十分ではないと田中さんは言う。海外からの観光客にも、銭湯の魅力を伝えたい。外国人には銭湯の入り方を多言語で説明したポスターや「指さし案内マニュアル」、動画による入り方ガイドなど、さまざまな試みはあるが、多言語サイトでの情報発信や銭湯訪問を組み込んだツアーなど、さらなる工夫ができるはずだ。「日本に来たら銭湯に行こう、と外国の方が思ってくれるようにしたいですね」

取材・文=板倉 君枝(ニッポンドットコム編集部)
撮影=大久保 惠造

この記事につけられたキーワード

観光 温泉 富士山 銭湯 風呂

このシリーズの他の記事