ニッポン偉人伝

安藤百福:世界の食文化を変えたミスターヌードル

文化

お湯を注ぎ、数分待つだけで食べられるインスタントラーメン。いまや世界中で愛されるこの食品を開発した元祖が、日清食品創業者の安藤百福(あんどう・ももふく)だ。2018年秋放送予定のNHK連続テレビ小説『まんぷく』のモデルともなる彼の波乱万丈の人生と、独創的なアイデアを紹介する。

早熟な実業家、遅咲きの発明家

「ミスターヌードル」と呼ばれた安藤百福(1910~2007)。彼が1958年に発明したインスタントラーメンは、いまや日本で年55億食、世界で約1000億食が消費される“世界食”となった。安藤が創業した日清食品もまた、グループ年商4900億円(2017年度)を超える大企業へと成長した。

日清食品が生産する商品の変遷を展示する「インスタントラーメン・トンネル」=大阪府池田市のカップヌードルミュージアム大阪池田

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しかし、安藤の生涯は決して順風満帆なものではなかった。若くから実業家として活躍したが、一度は全財産を失っている。世界初のインスタントラーメン「チキンラーメン」発売時には、すでに48歳を迎えていた。

安藤はこんな言葉を残している。

「人生に遅すぎることはない。この発明にたどりつくために、私には48年の歳月が必要だった」

カップヌードルミュージアムの敷地内に立つ安藤百福像

40代で無一文に。起死回生のラーメン開発

1930年代の安藤。高校卒業後、図書館司書を経て起業した

安藤は1910年3月5日、日本統治下の台湾で生まれた。幼い頃に両親を亡くしたため、兄2人と妹と共に、台南市で呉服店を営む祖父母に育てられた。間近で祖父母の働く姿を見ていたため、「商売は面白いなあ」と感じながら成長したという。

日本製メリヤスを台湾で販売する会社を、22歳の若さで設立。事業はすぐに軌道に乗り、翌年には大阪に進出し、青年実業家として関西で頭角を現す。第2次世界大戦の影響で多くの事業を失ったが、そのベンチャー精神やバイタリティーが衰えることはなく、戦後はバラック住宅の製造や製塩事業、学校設立などに力を注いだ。

安藤は2度収監されている。戦前には軍事用物資の横流し、戦後には脱税の疑いをかけられたのだが、いずれも無罪放免となっている。台湾生まれの資産家ということであらぬ罪を着せられた面があり、戦争で混沌(こんとん)とした時代に人一倍苦労した。妻の仁子(まさこ)とは戦時中に出会い、結婚。激動の人生を、夫人は温かくサポートし続けた。

仲睦まじい様子がしのばれる晩年の安藤と妻・仁子さん

実業家として活躍していた40代半ばで、人生最大の窮地に追い込まれる。理事長を務めていた信用組合が57年に破綻。大阪府池田市の借家を残し、一夜にして全ての財産を失った。知人の依頼で引き受けた仕事だったが、不得手な金融業に手を出したことを「身を焦がすような後悔」と後に振り返っている。

しかし、安藤は「失ったのは財産だけ。経験は血や肉となって身についた」と割り切り、自らを再び奮起させた。ここから、インスタントラーメンの父としての歴史が始まる。自宅の裏庭に簡素な小屋を建て、たった一人で商品開発に挑戦し始める。

自宅裏に建てた研究小屋を原寸大で再現した展示

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