脳科学の最前線を行く—飛躍的に進む瞑想研究
文化- English
- 日本語
- 简体字
- 繁體字
- Français
- Español
- العربية
- Русский
レオタードから延びた白い足が小気味よく空気を切り裂く。上気した女性たちの細やかな手の動き、トゥシューズの置き方に、一つ一つダメ出しが加わっていく。都内のスタジオでバレエを指導するのは村野こずえさん(仮名、27歳)だ。小柄な彼女がかつて札付きの不良少女であり、精神のバランスを失って過食症に悩んでいたことなど生徒たちには想像もつかないだろう。
瞑想って拷問?
転機は京都で行われた10日間の瞑想(めいそう)合宿。ブッダが悟りを開いた瞑想法を仏教とは関係なく行うもので、母親の知人の勧めで参加した。「沈黙の行」が基本。スマホはもちろん、参加者同士の会話も、目を合わせることも禁止された。起床は朝4時。昼12時以降は食べ物を口にできない。夜9時まで1日約10時間足を組む。最初は拷問かと思った。
「でも、鑑別所の単独寮に比べればみんなと一緒に修行するのは精神的には楽でした」。10日間コースを立て続けに座り、掃除をしたり参加者の食事を作るボランティアに加わったりするようになった。「最初、周りの人は皆いい人を演じているだけかと思ったけど、本当にいい人たちなんでびっくりしました」。気が付いたら過食せずに数カ月が過ぎた。
瞑想でストレスホルモンを抑制
座禅・瞑想がうつ病を始めとする心の病に効果があると実証されたのは最近のことだ。マサチューセッツ医科大学の分子生物学者、ジョン・カバット・ジンの功績が極めて大きい。真摯(しんし)な瞑想実践者でもあったカバット・ジンは、仏教の文脈の中にあった瞑想のテクニックだけを分離し、「マインドフルネス・ストレス低減法」(MBSR)という8週間のプログラムにまとめ、1979年、慢性的な痛みやストレスを抱える患者に適用を始めた。2011年までに1万9000人以上の患者が同プログラムを修了、効果が認められた。世界がこの事実に注目し、ここ10年ほどで瞑想を脳科学の表舞台で扱う研究が飛躍的に進んだ。
マインドフルネスや座禅で集中力が高まり、脳が活性化されると右の背外側前頭前野の機能も活性化。これが心を強くし免疫力を向上させ、記憶力や仕事の効率アップにつながる。うつ病の人はこの部分の機能が低下しているという。逆にうつ状態になると感情を司る扁桃体が活性化し、コルチゾールというストレスホルモンが分泌されやすくなる。その扁桃体も、瞑想によって縮小するという結果が出ている。
禅の本家である日本でも、京都大学や早稲田大学を中心に、禅・瞑想と脳との関係を解き明かそうと試みる若き研究者が登場している。
成人になっても脳は変化する
現在、京大大学院教育学研究科に在籍し、瞑想の脳科学研究で日本の最先端を走る藤野正寛氏(ふじの・まさひろ、日本学術振興会特別研究員)を訪ねた。
「大学卒業後、医療関係の会社に7年間勤めていましたが、まずは自分が健康でないと、世の中の人たちの健康にもきちんと貢献できないのではないかと感じ始めていました」
ちょうどその頃、藤野氏は10日間の瞑想合宿に参加。瞑想が自分自身を健康にすることを体感する。そして自分が感じたことと世の中の瞑想に対するイメージとのギャップに直面し、「働いている場合ではない」と辞表を提出、京大に入り直して瞑想の脳科学研究を本格的に始めた。
「瞑想研究が飛躍的に進んだ背景には、成人になっても脳は変化する性質を持続するという『神経可塑性(かそせい)』の考え方が定着したことがあります。1990年代まで、成人すると脳は変化する性質を失い、固定化するというのが脳科学の世界では定説でした。しかし、fMRI(機能的磁気共鳴画像法)など新たな手法を用いた脳機能計測の研究が進み、成人の脳も変化する性質を持ち続けていることが徐々に明らかになってきました。そんな中、2004年に、瞑想の脳科学研究の第一人者であるリチャード・デヴィッドソンが、成人の脳は瞑想によっても変化することを示したんです」
脳の過剰なアイドリングが心配をつくる
ここでキーワードとなってくるのが「デフォルト・モード・ネットワーク」(DMN:Default Mode Network)。脳は人間が知覚したり活動したりするとき、異なる領域間でネットワークを形成して協同的に活動する。DMNは何もしていないときに働くネットワークで、ぼんやりと過去のことを思いだしたり、未来のことを想像したりすることに関わっている。いわば脳のアイドリングのようなものだ。しかし、このアイドリング時間のおかげで、過去の整理をし、未来の予測をすることができるようになる。ただ、これが過剰になると、うつうつとしたり、不安に捉われたりすることが最近の研究で分かってきた。
藤野氏は、京都大学「こころの未来研究センター」の上田祥行(うえだ・よしゆき)特定助教とともに、センターのMRI(磁気共鳴画像装置)を用いて、瞑想の種類による効果の違いを実証することに取り組んでいる。これまでの研究で、「体の微細な感覚に対し、反応したり判断したりせずに、観察していくような瞑想」(ヴィパッサナー瞑想や洞察瞑想)を行うと、感情や記憶に関わる領域と、DMNとの関係性が低下していく傾向があることが分かってきた。
うつ病や不安神経症では、過去の嫌な経験や将来の不安が過剰に反すうされる。しかし、感情や記憶に関わる領域とDMNとの間の関係性が低下していけば、脳が嫌な経験を反すうしにくくなり、それらが投影する将来の不安からも解放される可能性がある。藤野氏は、この結果が、「今この瞬間の幸福感」につながっていくことに関係しているかもしれないと考え、研究成果を英文国際誌に掲載すべく準備を進めている。
α波優位でもマインドフルではない
同じく、DMNの状況や瞑想の効果に脳波の面からアプローチしているのが早稲田大学だ。
1980~90年代、脳波研究ではα波が盛んにもてはやされた。緊張とリラックスでいえば、リラックスした時にα波が優位となり、α波が健康や仕事の能率アップに役立つとされた。
早大大学院人間科学研究科の髙橋徹氏(たかはし・とおる、日本学術振興会特別研究員)が扱っているのは、これに真っ向から対抗するものだ。髙橋氏の仮説によればα波が強いほど、体の微細な感覚に気付きづらくなり、洞察瞑想がうまくいかなくなる。逆にいえばマインドフルな状態のとき、「α波は弱まり、感覚は研ぎ澄まされ、自分と世界の関係性をクリアに認識できるようになる」という。
スポーツ界などでも、パフォーマンス向上のためにマインドフルネスを取り入れる動きが顕著だ。髙橋氏は、生体信号や脳波を用いてリアルタイムでマインドフルネスや瞑想時の脳の状況をフィードバックすることで、マインドフルネスの習得を促す「ニューロフィードバック」システムを模索中だ。アスリートやレーサーが時々口にする「ゾーン」状況を容易につくり出せる時代も、案外近いのかもしれない。
京大・藤野氏の研究をサポートする京大大学院教育学研究科の野村理朗(のむら・みちお)准教授は、「一般的なリラックスと瞑想は違う。リラックスしていれば脳の疲れが取れるわけではない。むしろ瞑想によってDMNの過剰なアイドリングを鎮めていくことが重要。瞑想は緊張でもリラックスでもない、第三の心的状態なんです」と語る。
ここにきて急速に進化・発展する脳科学。何もせずにボーッとしていることは一見リラックスしているようで、心の健康のためには決していいとは限らないようだ。単なるブームとも見られがちなマインドフルネス。しかし、禅の境地や瞑想、マインドフルネスといった第三の心的状態の重要性に、人々は心の底で気づき始めているのかもしれない。
引用文献
Gotink, R. A., Meijboom, R., Vernooij, M. W., Smits, M., & Hunink, M. M. (2016). 8-week mindfulness based stress reduction induces brain changes similar to traditional long-term meditation practice–a systematic review. Brain and Cognition, 108, 32-41.
取材・文・写真=小山 哲哉(バナー写真:PIXTA)