日本のウイスキー

世界が認めた「ジャパニーズ・ウイスキー」:蒸留所の舞台裏を訪ねて

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ヨーロッパで生まれ、スコットランドで「世界の酒」に発展したウイスキー。90年前に製造が始まったジャパニーズ・ウイスキーは、いまや品質で本場と肩を並べ、愛好家の注目を集める存在になった。

国産ウイスキーを生んだ鳥井と竹鶴

竹鶴政孝(右)と妻のリタ

日本のウイスキー製造の歴史は、摂津酒造の技師だった竹鶴が社命でスコットランドに派遣された1918(大正7)年に始まる。当時の国産“ウイスキー”は、中性アルコールに味と香りをつけただけの模造品だった。

竹鶴はグラスゴー大学の応用化学科で学んだほか、ロングモーン・グレンリベット蒸留所(スペイサイド)やヘーゼルバーン蒸留所(キャンベルタウン)で実習経験を積んだ。だが、1920年に帰国した際、摂津酒造は本格的なウイスキー製造開始に二の足を踏む。第一次世界大戦後の恐慌で、日本は不景気の真っただ中にあった。

竹鶴が持つ技術と経験を認め、彼をスカウトしてウイスキーの製造に乗り出したのが寿屋創業者の鳥井信治郎(1879-1962)。鳥井は当時、輸入ぶどう酒を日本人向けに飲みやすくした『赤玉ポートワイン』をヒットさせ、その勢いを駆って新事業への投資を決断した。

鳥井と竹鶴が生み出した国産初のウイスキー、『サントリー白札』が世に出たのは1929(昭和4)年。だが、その5年後に竹鶴は鳥井と袂(たもと)を分かち独立する。

鳥井は1937年、現在も主力商品であるロングセラー『角瓶』を発売。竹鶴も1940年に最初の製品『ニッカウヰスキー』を発売するが、まもなくウイスキーも戦時統制品に指定される。業界にとって不幸中の幸いだったのは、軍納入品として原料調達には何ら支障がなく、戦時下でもモルト原酒の生産を続けることができたことだった。

(左)日本初のウイスキー、サントリー白札(中)発売当初のサントリー角瓶(右)第1号のニッカウヰスキー

日本のウイスキーをめぐる主な歴史

1853 ペリー率いる米艦隊が日本人に初めてウイスキーをふるまう?
1870ごろ 日本人用のウイスキーの輸入始まる
1902 日英同盟締結。この後に輸入洋酒でウイスキーの比率が高まる
1918 摂津酒造の技師、竹鶴政孝がスコットランドにわたりウイスキーの製造を実習(1920年帰国)
1923 寿屋(現サントリー)の鳥井信治郎が国産ウイスキー製造を計画。竹鶴が寿屋入社
1924 寿屋の山崎蒸留所が竣工
1929 国産ウイスキーの第1号、『サントリー白札』発売
1934 竹鶴が寿屋を退社。大日本果汁(現ニッカウヰスキー)を北海道・余市で設立
1937 現在の『サントリー角瓶』が発売
1940 ニッカが最初のウイスキーを発売
1955ごろ 大都市にトリスバーが次々に開店し、ハイボールが人気に
1964 ニッカと関連の深いアサヒビールの子会社が日本で初めて本格的なグレーンウイスキー生産を開始
1969 ニッカが同社2つ目となる宮城峡蒸留所を設立
1971 洋酒の輸入完全自由化
1973 サントリーが同社2つ目となる白州蒸留所を設立
キリン・シーグラム(現キリンディスティラリー)が富士御殿場蒸留所を設立。翌年『ロバートブラウン』を発売
1983 上昇基調だったウイスキー市場がピークに。以降、2008年までほぼ一貫してダウン
1989 サントリーが『響』発売
2000 ニッカが『竹鶴』発売

戦後の洋酒ブームで生産設備増強

山梨県北杜市にあるサントリー白州蒸留所=同社提供

第2次世界大戦後、日本社会の復興が軌道に乗り始めた1955年ごろから洋酒ブームが到来。これまで圧倒的なシェアを誇ってきた日本酒に代わり、都市部を中心にビールやウイスキーの需要が増大する。高度成長期の1964年には、ブレンデッドウイスキーに欠かせないグレーン原酒(とうもろこしなどを原料とし、連続式蒸留器でつくられるウイスキー)が日本でもようやくつくられるようになったほか、ニッカが宮城峡(1969年)、サントリーが白州(1973年)に相次いで自社2つ目のモルト原酒蒸留所を開設した。

スコットランドにはモルト蒸留所が100以上もあり、それぞれが個性豊かな原酒を生産。蒸留所間では自社と違うタイプの原酒を確保する目的で、原酒の交換や売買が日常的に行われる。ジョニー・ウォーカー、バランタインといったスコッチのブレンデッドウイスキーは、それらの原酒を場合によっては40種類以上も組み合わせて複雑な味と香りを引き立たせている。

日本に同様のシステムはなく、各メーカーは自社だけで多種多様なタイプのモルト原酒をつくりだしていかねばならない。原酒の増産という目的のみならず、ウイスキーの質の向上という面でも「第2の蒸留所」建設は必要不可欠なものだった。

逆に言えば、戦後復興・高度成長の過程でこれほどウイスキーの需要が伸びなかったとしたら、サントリーもニッカも蒸留所増設という「攻めの経営判断」は出来ず、日本のウイスキーは世界水準に達していなかったかもしれない。

ニッカのチーフブレンダー、佐久間正はこう話す。「宮城峡蒸留所(仙台市青葉区)は周囲の環境、気候から製造に使う設備、機器にいたるまで、すべからく余市とは違うようにつくられている。意図は明らかで、力強い余市と対照的な、柔らかで華やかな原酒をつくりたいからです」。

サントリーが持つ2つの蒸留所の立地の違いも対照的。山崎が大都市・大阪に近い名水の地にあるのに対し、白州(山梨県北杜市)は南アルプスに隣接する標高700メートルの森の中にある。同社は原料の構成や製造工程を細かく変えることなどにより、両蒸留所合わせて100タイプ以上の個性を持つ原酒をつくり分けている。

1980年代から国内市場は低迷

経営的には順風満帆だった日本のウイスキーメーカーにも、やがて転機が訪れる。ウイスキーの課税数量は1983年に379,000キロリットルでピークに達した後、2008年までほぼ毎年のように減少。市場は25年間で、全盛期の5分の1にまで縮小した。

1984年のウイスキー増税に加え、甲類焼酎を炭酸で割った「チューハイ」ブームの影響、嗜好の多様化によるワイン需要の伸びなどが原因として挙げられる。輸入ウイスキーの関税も大幅に下がった。国産メーカーの中には、メルシャン軽井沢のように閉鎖された蒸留所も出た。

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