タカラヅカ100周年

タカラヅカを創った男・小林一三

文化

現役時代は「清く、正しく、美しく」、退団後は「良妻賢母」となる日本女性の育成を目指したタカラヅカ。今も変わらぬその路線を敷いたのは事業家、小説家、政治家、茶人など多彩な顔を持つ小林一三(1873-1957)だった。

すべては「電車の乗客を増やすため」

宝塚大劇場の正面玄関(4月10日)

大阪の北の玄関口・梅田から阪急電鉄の急行に乗れば、宝塚まで約30分。今でこそ宝塚は宝塚歌劇のメッカとして知られているが、阪急電鉄の前身である箕面有馬電気軌道の開業した1910年当時は村を流れる武庫川の右岸に貧弱な温泉場があるだけだった。現在宝塚大劇場の立地する左岸には数軒の農家が点在するのみで、閑静な松林の続く河原だった。

都会(大阪)と田舎(宝塚)を結ぶ電車は開通したものの、沿線人口が少なく、旅客もまばら。大阪と神戸の大都市間を結ぶ先発の「阪神電気鉄道」(1905年開業)はライバル。乗客を増やすため、事実上の経営トップだった一三が打った手は、以前から構想を温めていた沿線の住宅分譲と大衆娯楽施設の開設だった。

既存温泉場の対岸の埋立地を購入してオープンした「宝塚新温泉」は大理石の浴槽と広壮な施設が人気を呼んだものの、隣に増設した新型レジャーセンター「パラダイス」の室内プールは大失敗。「日光の直射がないから、5分間も泳ぐことのできないほど冷たい。外国の水泳場では水中に鉄管を入れ、そこに蒸気を送って適度に温めていることを知らなかった」(『逸翁自叙伝』)からだ。

阪急宝塚駅と宝塚大劇場を結ぶ「花のみち」(4月10日)

閉鎖されたプールをどうするか。それからがアイデアマン・一三の真骨頂だ。水を抜いて水槽を客席に、脱衣場を舞台として改造し、そこで少女らに唱歌を歌わせ、劇を演じさせた。温泉に入る人なら誰でも無料で見られる少女歌劇は、日を追うごとに評判を呼び、2カ月間の処女公演は連日大入り満員。これがその後、100年続く「宝塚歌劇」の始まりになるのだから、世の中は面白い。

特筆すべきは、素人の少女たちをにわか仕立てで舞台に立たせたのではなかったことだ。歌が好きな良家の少女を募集し、水準以上の俸給を支払った。音楽教育以外に、人間教育やしつけにも責任を持った。

幼少時からの芝居好きが歌劇立ち上げで開花

小林一三の肖像写真(提供=向山建生氏)

少女歌劇誕生のヒントになったのは三越呉服店(現三越)が客寄せの一環で作った少年音楽隊。20~30人のかわいい楽士が洋装に鳥の羽のついた帽子を斜めに被って歌う姿は評判をとっており、「宝塚新温泉もこれをまねて、三越の指導を受け、女子音楽隊を設けることにした」(小林一三『宝塚生い立ちの記』青空文庫)。

一三がすばらしいのは単なる思い付きに終わらせなかったことだ。公演実現に向けた懸命な努力や、人材育成に対する取り組みは単なる経営者の域をはるかに超えている。

なぜ、そこまで入れ込んだのか。その秘密を知るためには一三の幼少時にまでさかのぼらなければならない。一三が生まれたのは富士山の見える山梨県韮崎市。市内在住の小林一三研究家で、山梨大学客員教授の向山建生氏によると、一三の生家は裕福な商家で、小さいころから小学校の近くにあった芝居小屋にしょっちゅう出入りしていた。東京の慶応義塾に入学してからも、ひんぱんに芝居小屋や歌舞伎に足を運び、継続的に見物していた。書くことも好きで、郷里の山梨日日新聞に小説を連載するほどだった。

慶応卒業後は三井銀行(現三井住友銀行)に15年間勤務。銀行マンの仕事が性に合わなかったこともあって、大阪勤務時代にはまたもや小説や芝居にのめり込んだ。大阪の花街や粋人らとの付き合いは逆に深まり、それまでの経験や交流が宝塚歌劇の立ち上げで一気に花開いた。

「女でなければできない雰囲気」

2004年の宝塚歌劇団宙組公演「ファントム」主演の和央ようかさん(左)と花總まりさん=2004年2月24日(時事)

宝塚の舞台に上がれるのは未婚女性に限られる。観客に「夢の世界」を見させることに徹し、「現実の世界」の生活感を舞台に持ち込ませないためだ。それも、「清く、正しく、美しく」をモットーに厳しくしつけられた宝塚音楽学校で2年間の修業を積んだ卒業生にのみ許される。この点は、欧米のオペラやミュージカルのように、その都度オーディションで選ばれた舞台集団とは根本的に異なる。

一三は「うちの歌劇なんか、男をこれだけに育てることは不可能だ。料理にしても、うまいものは男でなくてはならんかもしれないが、家庭ですぐ間に合うものをつくるのは女である。今宝塚はかれこれ400~500人の生徒でやっているが、男だったらこんなことがやれるものではない。年中喧嘩だろう。宝塚には男の世界にない、女でなければできない雰囲気があると思っている」(宝塚生い立ちの記)と指摘している。

純血主義をかたくなに順守

宝塚歌劇団が100年間も存続し得たのはガラパゴス(日本国内で独自かつ高度に進化し、世界標準とかけ離れていること)であることに執着したためではないか。人材供給を宝塚音楽学校を卒業した日本人の未婚女性に限定する純血主義をかたくなに順守し、ブロードウェイのミュージカルのように、卓越した技能を持つ外部人材や演目に応じた最適プロフェッショナル人材には門戸を開放していない。

日本の伝統芸能には、男が女も演じる「男だけの世界」である歌舞伎もあるが、こちらもガラパゴスと言えばガラパゴス。「歌舞伎の女形は不自然だから、女を入れなければいかんというて、ときどき実行するけれども、結局、あれは女形あっての歌舞伎なのだ。女から見た男役というものは男以上のものである。いわゆる男性美を一番よく知っている者は女である。その女が工夫して演ずる男役は、女から見たら実物以上のほれぼれする男性が演じられているわけだ。そこが宝塚の男役の非常に輝くところである」(宝塚生い立ちの記)と一三は論じている。

小林一三が目指したタカラジェンヌのあるべき姿は「清く、正しく、美しく」。日本男性がこよなくあこがれる「やまとなでしこ」(清楚で凛とし、つつましやか。一歩引いて男を立て、男に尽くす甲斐甲斐しい女性)であり、退団後の良妻賢母だ。それを夢想させる姿がタカラヅカの舞台にはあるのではないか。

異彩を放った“プロデューサー的仕事師”

小林一三は電鉄事業を中核に、大衆をターゲットにしたさまざまな事業を興した独創的な起業家だ。線路を引くだけだった鉄道事業に、日本初の住宅ローン制度を導入した沿線宅地開発というビジネスモデルを持ち込んだほか、電鉄ターミナル駅・梅田に大衆デパート「阪急百貨店」をオープンし、最上階の大衆食堂で大衆メニューのカレーライスを提供したのも一三だ。

旧邸の洋館「雅俗山荘」を居住当時の状態に復元した小林一三記念館(大阪府・池田市)

東京電燈(現東京電力)の社長兼務時代には東京に出張してくるビジネスマンを対象としたホテルを構想、1938年に日本初のビジネスホテル「第一ホテル」(現阪急阪神ホテルズ・グループ)を新橋に開業させた。現東京急行電鉄の創業時の経営にも関与し、田園調布の開発にも関わっている。

ただ指示を出すだけの経営者とはまるきり違う。「プロデューサー的仕事師」と言われるゆえんだ。小説も書いたことのある文才をいかんなく発揮。箕面有馬電気軌道の開業が危ぶまれたときには『最も有望なる電車』という宣伝パンフレットを1万部印刷して大阪市内にばらまいた。分譲地販売でも『如何なる土地を選ぶべきか、如何なる家屋に住むべきか(住宅地御案内)』のパンフを作った。

現在のコマーシャル・メッセージを先取りした企業広告のセンスは出色だ。その最高傑作が神戸線を開業した際、ライバルを意識した新聞広告(1920年)。「新しく開通した神戸(又は大阪)ゆき急行電車、綺麗で、早うて、ガラアキで、眺めの素敵によい涼しい電車」。一三は宝塚歌劇のために20以上の作品を執筆したが、彼の文才を知れば、不思議ではない。

パネル展の前で小林一三について語る向山建生氏(3月27日、韮崎市内のふるさと偉人資料館)

政治家としての顔も持っている。1940年には第2次近衛内閣で、民間初の商工大臣を務めた。しかし、後任となる商工官僚の岸信介次官と対立し、1年足らずで辞任。終戦直後の45年にも幣原内閣で国務大臣兼戦災復興院総裁に就任したが、このときは公職追放で辞めている。

小林一三が興した事業は数々あるが、「彼が最もやりたかった事業は生活文化面だった。自分の事業は生活に密着しなければ意味がないと考えていた」と向山氏は指摘する。

中でも一三が一番愛した事業こそが庶民が気軽に足を運べる演劇・タカラヅカだった。高い席もあるけれど、安い席でも十分楽しめる。「野球の外野席とか、相撲の3階席と同じ。年中いける。まじかでなくてもいいんですよ。気軽に文化に親しめる。それが生活の中の文化というものではないですか」(向山氏)。

取材・文・写真=長澤 孝昭(一般財団法人ニッポンドットコムシニアエディター/ジャーナリスト)

バナー写真:宝塚歌劇団100周年記念式典で、総勢460人のタカラジェンヌと宝塚音楽学校の生徒が合唱した=2014年4月5日(宝塚大劇場、提供=神戸新聞社)

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