宝塚歌劇団の100年 Part 1
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「宝塚歌劇団」は、兵庫県宝塚市を拠点に、華やかなミュージカルやレビューを上演する劇団だ。出演者はすべて未婚の女性。彼女たちは粋なイメージからパリジェンヌをもじって「タカラジェンヌ」とも呼ばれ、中でも独特のメイクや衣装で男性に扮した「男役スター」が高い人気を誇る。
現在は約420人が所属し、全5組(花組、月組、雪組、星組、宙=そら=組)と、組に所属しない専科で構成。宝塚と東京都内の専用劇場では年間を通じて公演があり、夢とロマンあふれる舞台を繰り広げている。
今年4月、創立100周年を迎えた。新たな一歩に立ち会う絶好の機会だ。
温泉地の余興として始まった少女歌劇
記念すべき第1回公演は1914年4月1日、温泉地の余興として実施された。創設したのは、阪急東宝グループの創業者・小林一三(1873―1957)。優れた実業家であるとともに、茶の湯や美術・演劇を愛し、「逸翁」の号を持つ文化人でもあった。
小林は1911年5月、経営していた箕面有馬電気軌道(現在の阪急電鉄)の旅客誘致のため、大阪中心部とつながった終点の地・宝塚に娯楽施設「宝塚新温泉」をオープンした。そのアトラクションとして思いついたのが、少女だけの唱歌隊だった。
1913年、第1期生として10代半ばの少女16人を採用。翌年には「宝塚少女歌劇」として、日本の民話「桃太郎」を題材とした歌劇「ドンブラコ」など3作品を上演した。付属施設の室内プールを改造した劇場での無料公演だったが、観光客の好評を呼んだことから、年間4公演を行うようになった。1918年には権威ある東京帝国劇場でも公演。1924年に約4000人収容の宝塚大劇場、1934年には東京宝塚劇場をオープンするなど短期間に躍進を遂げた。
根底には、小林の「新しい国民劇を創る」という理想があった。歌舞伎などの日本文化に西洋音楽を取り入れ、心の糧を大衆に広く提供する。その理念が宝塚歌劇のスタイルにつながった。
レビューで「ラインダンス」「大階段」が登場
宝塚歌劇を代表する作品様式「レビュー」が黄金時代を築いたのもこの時期だ。1927年、フランスを中心に流行していた歌と踊りの華やかなショースタイルを日本初のレビュー「モン・パリ(吾が巴里よ)」(作・岸田辰彌)として上演。今も宝塚の舞台に欠かせないラインダンスや大階段がここで登場する。
さらに1930年には〝レビューの王様〟と称された演出家・白井鐵造による傑作「パリゼット」が大ヒット。欧米視察で目にした本格的なダンス、彩り豊かな衣装や舞台装置を盛り込み、シャンソンをもとにした主題歌「すみれの花咲く頃」は今も歌劇団の愛唱歌となっている。
その後も「ブーケ・ダムール」(1932年)や「花詩集」(1933年)などのヒットが続いた。「岸田辰彌によって紹介されたレビューは白井鐵造によって成就された」と絶賛され、レビュー黄金時代を築いた。
戦争で一時劇場閉鎖、終戦後も連合軍が接収
しかし、歌劇団にも「十五年戦争」(1931年から1945年まで足かけ15年間にわたる日本の対外戦争)が影を落とした。日中戦争が本格化した1937年から軍国調の作品が登場し始め、次第に片仮名のタイトルがなくなるなど、戦時色が濃厚になる。
生徒たちは軍需工場や病院、北京や満州などの戦地を慰問のため、巡演させられた。1941年に太平洋戦争が勃発。1944年には決戦非常措置で宝塚大劇場と東京宝塚劇場が閉鎖され、軍に接収された。
終戦後も連合軍に接収された大劇場がようやく返還されたのは1946年。春日野八千代を組長とする雪組が「春のをどり・愛の夢」などで再開の舞台を飾り、焼け野原で敗戦を迎えた人々に夢を与えた。
「ベルばら」大ヒットで宝塚人気の礎築く
戦後の宝塚は、その端正な美しさから〝白ばらのプリンス〟と称された春日野八千代を抜きには語れない。映画界への転身などでスターの退団が相次ぐ中、春日野は白井鐵造演出の「虞美人」(1951年)の項羽、「源氏物語」(1952年)の光源氏などで絶大な人気を誇った。戦前からの美意識を継承し、現代に続く男役の様式を確立したとされる。2012年に96歳で亡くなるまで専科に籍を置き、生涯現役を貫いた〝永遠の二枚目〟だった。
そして1974年、歌劇団史上最大の大ヒット作「ベルサイユのばら」が誕生する。今の宝塚人気の礎を築いたとされ、現在も再演を重ねる代名詞的作品だ。フランス革命を背景に、男装の麗人オスカルと幼なじみのアンドレ、王妃マリー・アントワネットとスウェーデン貴族フェルゼンの愛と人生を描く物語。少女雑誌に連載されていた池田理代子の人気漫画を、宝塚きっての演出家・植田紳爾(うえだ しんじ)が忠実に舞台化した。
男装の麗人という宝塚にぴったりのヒロインや、乙女心をうつ悲恋、原作ファンも納得させるロマンチックなロココ調の舞台は熱狂的ブームを巻き起こし、組やバージョンを変えながら再演に次ぐ再演を重ねた。2年間で上演560回、観客数140万人という驚異的な数字をたたき出し、〝ベルばら四天王〟と呼ばれた榛名由梨、安奈淳、汀夏子、鳳蘭らスターも生まれた。
大震災で休演、2カ月半後には再開
さらに、直後の1977年に初演された「風と共に去りぬ」も大ヒット。歌劇団の人気を盤石なものとした。
戦後最大の危機が襲ったのが、1995年1月17日の阪神・淡路大震災だ。大劇場は損壊し、公演は休止。近隣に暮らすタカラジェンヌやスタッフも被災する中、目指したのは一日も早い再開だった。稽古場を大阪などに移し、2カ月半後の3月31日に「国境のない地図」で大劇場公演を復活させた。被災地の人々の心に灯をともした。宝塚歌劇関係年表
年月 | 出来事 |
---|---|
1910年3月 | 箕面有馬電気軌道(現阪急電鉄)開通(梅田-宝塚)。 |
1911年5月 | 「宝塚新温泉」開業。 |
1913年7月 | 「宝塚唱歌隊」創立。第1期生16人を採用。12月に「宝塚少女歌劇養成会」に改称 |
1914年4月 | 新温泉内のパラダイス劇場で歌劇「ドンブラコ」などを初上演 |
1919年1月 | 宝塚音楽歌劇学校を創立。養成会を解散し「宝塚少女歌劇団」に |
1921年10月 | 花組、月組が誕生 |
1924年7月 | 雪組が誕生。定員4000人収容の宝塚大劇場オープン |
1927年9月 | 日本初のレビュー「モン・パリ」上演。ラインダンスと「大階段」も初登場 |
1930年8月 | レビュー「パリゼット」大ヒット。愛唱歌「すみれの花咲く頃」披露 |
1933年7月 | 星組誕生 |
1934年1月 | 東京宝塚劇場オープン |
1938~39年 | 初の海外公演(ドイツ、ポーランド、イタリア、クロアチア) |
1940年10月 | 宝塚少女歌劇団を「宝塚歌劇団」に改称 |
1944年3月 | 太平洋戦争の戦況悪化で公演打ち切りに |
1946年4月 | 宝塚大劇場で公演再開(東京宝塚劇場の再開は55年) |
1974年8月 | 「ベルサイユのばら」初演。大ブームに |
1993年1月 | 新・宝塚大劇場がオープン |
1995年1月 | 阪神・淡路大震災で公演は休止 |
1996年2月 | ウィーン発のミュージカル「エリザベート」上演。新代表作に |
1998年1月 | 宙組誕生。現在の5組体制に |
2001年1月 | 東京宝塚劇場が新装開場 |
2013年4月 | 初の海外自主興行として台湾で公演 |
2014年4月 | 宝塚大劇場で100周年記念式典(5日) |
*nippon.com編集部作成
取材・文=神谷 千晶(神戸新聞社文化生活部記者)写真提供=神戸新聞社
バナー写真=100周年記念式典でのレビュー「TAKARAZUKA花詩集100!!」で披露された100人のラインダンス(4月5日、宝塚大劇場)
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