「五代目」歌舞伎座が銀座にお目見え
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「歌舞伎の殿堂」「歌舞伎の本拠地」として名をはせる東京・銀座の歌舞伎座が約3年をかけて建て替えられ、2013年4月2日に再び開場した。「初代」の第一期歌舞伎座が開場したのは1889年(明治22年)のこと。120年以上にわたる歴史と伝統を受け継ぎながら、どのように歌舞伎座は生まれ変わったのか。
新しい建物の話に入る前に、建物の歴史を簡単に振り返ってみよう。第一期歌舞伎座は外観が西洋風、内部は日本風ひのき造りの3階建ての建物であった。1911年(明治44年)には外観も純日本式の宮殿風に大改築され、第二期歌舞伎座が誕生。
第二期が1921年(大正10年)に漏電で焼失した後には、岡田信一郎(1883~1932)の設計で、破風(はふ)(※1)の大屋根をもつ桃山様式風の第三期の建物(鉄筋鉄骨コンクリート造)の建設が進められたが、途中で関東大震災(1923年[大正12年])に遭遇した。地震時の火災で内装材が焼け、工事は一時中断したものの、翌年に落成し、歌舞伎座は黄金時代を迎える。
しかしそれも、第二次世界大戦末期に受けた大空襲(1945年[昭和20年])により、大部分が焼失してしまう。第四期は、戦後で建設物資も乏しい中、数寄屋建築再生の大家として活躍した吉田五十八(1894~1974)の設計により、第三期の姿を踏襲しながら1951年(昭和26年)に再建を果たす。以来、約60年にわたり多くの人が訪れ、愛されてきた第四期歌舞伎座だが、老朽化などを理由に、このたびのリニューアルとなった。
伝統を受け継ぐ第五期のディテール
第五期の設計は、建築家の隈研吾氏(隈研吾建築都市設計事務所)と三菱地所設計の協働によるものだ。隈氏は「3.11の後、第三期、第四期と同様に日本が大変な危機の中から立ち上がるシンボルとして第五期歌舞伎座ができた。不思議な因縁を感じて感慨深い」と語る。
建物の意匠は、外観・室内ともに第四期の歌舞伎座の特長を生かしつつ、第三期から続く桃山様式を踏襲。晴海通りに立って正面を仰ぐと、ダイナミックな玄関の唐破風(からはふ)と左右対称の破風大屋根をもつ姿は、以前とほとんど変わりがないように感じられる。ただし、隈氏は「普通の建物を設計するときの3倍以上は手間がかかっている」という。素材や造作など細かいディテールに配慮して元の姿やイメージを継承しながらも、災害や地震に強い建物にし、100年先の使用を見据えた環境づくりをする必要があったためだ。
外観のディテールの配慮では、例えば屋根回りがある。第四期は鉄筋コンクリートでできていたのに対し、今回は鉄骨によって屋根の反りなどで以前と同様のラインを出している。垂木(たるき)はコンクリートで作られていたものを、軽量化のためにアルミで製作。江戸時代からの金工技術を引き継ぐ富山県のメーカーに依頼し、1本ごとに形が異なる垂木ができた。アルミ材に汚れ防止のためにフッ素樹脂の粉体塗料を施したところ漆喰のような柔らかい質感が出ることが分かり、採用したという。唐破風は雨漏りを避けるために下に銅板を葺(ふ)いたうえで、愛知県産の三州瓦で仕上げて優美さと重厚感を出した。
元の姿の継承という点では、各人が思い描くかつての歌舞伎座の姿は異なるし、昔の姿を忠実に復元するとなると、どの時点を採用するかで議論が起こる。隈氏は今回、歴史を踏まえて「時間を継承する」ことを意識したという。
「外壁の白でも、原寸の壁を工場の中に立てて瓦を載せ、実際と同じ高さに設置したうえでさまざまな白を塗って見比べました。第三期は真っ白だったようですが、第四期は何回も塗り替えて最後は黒っぽくなっていたので、いま再び真っ白にすると逆に違和感がある。僕らの心に描いている歌舞伎座に近い色で、多少黄みがかった柔らかいクリーム色としています」(隈研吾氏)
夜間には、照明デザイナーの石井幹子氏と娘の石井リーサ明理氏がデザインしたライトアップが施され、四季によって異なる光が演出される。
なお、新しい歌舞伎座は、地下4階地上29階建て・高さ143mのオフィスビル「歌舞伎座タワー」との複合施設「GINZA KABUKIZA」として計画された。歌舞伎座の背後にそびえる現代的なガラス張りのオフィスタワーとの調和を測るため、劇場正面の晴海通り側のタワー壁面は劇場部分から大きく後退させたうえ、大部分を白い仕上げとした。歌舞伎座と重ならない部分だけガラス張りにし、昭和通り側はオフィスタワーとしての顔をもたせている。
見た目は継承、機能性は刷新
地下鉄の東銀座駅からビル地下2階のスペースへはダイレクトにつながる。切符売り場や店舗が並ぶ「木挽町(こびきちょう)広場」は、非常時には約3000人の帰宅困難者が3日間ほど待機できるだけのスペースと食料などを提供する機能をもつ。
地下から唐破風の正面玄関に至るまでの動線には大きな庇が新設されているので、雨にぬれずに、しかも歌舞伎座の外観を眺めてから入場することができる。
玄関を入ると、真っ赤な色彩の空間に包まれ、フワッとした足元の感触とともに、観劇を前にした高揚感が得られる。「大間」(おおま)と呼ばれるホワイエは、赤い柱の間に西陣織の布で仕上げた壁、足元も赤いじゅうたんで鮮やかに彩られている。これらも、第四期の仕上げを現代の技術で再現したものだ。大間上部の吹き抜けには赤いちょうちんが並ぶ。
劇場内部も、第四期のイメージを再現してある。舞台の寸法は、間口の左右が91尺(27.573m)・高さ21尺(6.363m)、回り舞台の直径は60尺(18.18m)。花道も60尺と、第四期歌舞伎座の長さを踏襲している。舞台機構も前期の寸法を引き継いでいるが、約4.4mであった奈落(※2)は約16.4mまで深くなり、大奈落の横には大道具を置ける場所がつくられている。また、松竹梅と名付けられた従来の3つのセリに大ゼリが加わり、場面転換を素早くできるようになった。
客席は、席数を若干減らし、千鳥の配置から一列に変更。1階席の後方にあった柱を取り除き、見やすさを大きく改善した。客席から舞台がどう見えるかという視線を検証し、どの席からでも舞台や花道が見えるように工夫されている。
座席は、第四期と比べて幅を3cm、前列との間隔を6cm広げ、長時間の観劇でも疲れないように配慮した。歌舞伎座のシンボルである鳳凰の柄の入った張り地は、金糸が織り込まれ、高級感が演出されている。また、座席には、上演演目の見どころやあらすじに加え、長唄や竹本、常磐津、清元など歌舞伎音楽を解説する字幕ガイド(レンタル)を取り付け可能。従来のイヤホンガイドとあわせて初心者も楽しみやすくなった。今後は日本語以外の言語の字幕ガイドも検討されており、外国人も歌舞伎により親しめる環境が整いつつある。
壁や天井には、最新の技術でつくられた素材を使い、音響に配慮した。音響は、10分の1の模型を作ってシミュレーションを繰り返すことで、第四期の歌舞伎座と同じ残響時間を確保している。見た目は以前のものを踏襲しながら、機能や性能は向上させるという難題が、各所でサラリと実現されているのは驚きに値する。
新たな記憶の継承へ
このほか、5階には、観客以外も入場できる「歌舞伎座ギャラリー」が新設される。普段は間近で見ることのない衣装や小道具、貴重な映像などが展示される予定だ。ギャラリー横の広さ約450m2の屋上庭園も見どころ。先人の碑に加え、第四期歌舞伎座の鬼瓦や河竹黙阿弥(江戸時代幕末〜明治時代の歌舞伎作者)所有の石燈籠などが設置されている。銀座や築地を訪れた観光客で賑(にぎ)わう名所となりそうだ。
かつての姿に戻しただけではなく、機能性を高めて新たなステージへと引き上げているのが、新しい歌舞伎座の特徴だ。この建物の再生は、周囲の街並みにも変化を及ぼした。特に、正面向かって右の通り(木挽町通り)の側は、以前は閉ざされていて裏通りのような印象があったが、格子のデザインが採用され、緑が植えられて明るくなった。「郊外から都市に人が帰ってくる時代にあって、祝祭空間としての歌舞伎座の周辺を歩く楽しみを味わえるようにしたかった」と隈氏は語る。
現代のニーズに応じた機能性とともに、大衆的なテイストが巧みに取り込まれ、単なる復元保存や再生にとどまらない姿を見せる第五期歌舞伎座。多くの人々が訪れることでいっそう華やかさを増し、新たな記憶を次の時代へと継承していくことだろう。
文=加藤純写真撮影=川本聖哉
タイトル写真提供=松竹株式会社
取材協力=隈研吾建築都市設計事務所、サントリー美術館、松竹株式会社