日本女性の美意識

白肌こそ美しさの原点

文化

「色白は七難隠す」ということわざにもあるように、日本女性は古くから白い肌を美しいとしてきた。欧米風のメイクが流行する今でも日本女性の「美白」意識は高い。そんな日本女性ならではの美の源流を探ってみよう。

「白肌」は日本女性のたしなみ

いつの世でも女性は「美しくありたい」と願うもの。ことさら日本女性は「美白」への憧れが強く、奈良時代より白粉(おしろい)で顔を白く塗るという化粧を施していた。それが美しさを象徴するものになるのは平安時代で、『紫式部日記』『源氏物語』にも白肌の美しさを称える表現があるなど、肌を白く見せる化粧が上流階級のステイタスとして広がっていった。

七小町吾妻風俗 さうしあらひ/梅蝶楼国貞 安政4(1857)年
遊郭の朝の身支度の風景。左の女性は口に糠袋をくわえている(ポーラ文化研究所所蔵)。

米を成分にした化粧品は今でも使われている(アイム、コーセープロビィジョン提供)

江戸時代になると庶民の間でも白肌文化が広がり、よりナチュラルな素肌感が重視されるようになる。江戸時代後期に出版され100年以上におよぶ超ロングセラーとなったトータルビューティ教本『都風俗化粧伝』では、しっとりとしたナチュラルな肌を「うっきり」と表現。洗顔方法や「みつだそう」という顔料を使ったパックのしかた、薬草によるニキビ治療の方法など、美白のためのノウハウを多数紹介している。

ポーラ文化研究所研究員の富澤洋子さん。

「日本人が目指してきた白肌は、色としての白というよりも“玉のように磨かれた白い肌”という意味合いが強く、特に江戸時代以降は素肌を美しくするための工夫がかなりされています」とは、ポーラ文化研究所研究員の富澤洋子さん。江戸時代の女性たちはかなりの時間をかけて素肌感を強調した化粧をしていたようで、塗る・落とすを何回も繰り返す、頬だけ手ぬぐいでぬぐう、透明感を出すための白粉の塗り方、といったことが『都風俗化粧伝』でも紹介されているという。

女性が化粧をすることは礼儀作法や身だしなみの一つとしてみなされ、起きて寝るまで、入浴中も化粧をしていたほど。しかし化粧をしている姿を見せることは失礼なことだと考えられていた。この「化粧は身だしなみ」という意識は今も日本人の中に根付いており、それが「電車内での化粧はマナー違反」ということにつながっているのではないかと富澤さんは話す。

(左)集女八景 洞庭秋月/五渡亭国貞 江戸後期 白粉で着物が汚れないようにもろ肌を脱いで、化粧をする女性。日本の伝統的な化粧では顔だけでなく、耳や首筋、胸のあたりまで白粉を塗った。古くから女性にとって化粧をすることは、とてもプライベートなのものだった。(右)美艶仙女香・式部刷毛/渓斎英泉 1818~30年頃 美艶仙女香とは江戸時代後期、流行した白粉のひとつ。刷毛で白粉を塗る遊女の姿が描かれている(ポーラ文化研究所所蔵)。

基本色は白・赤・黒

当世見立十六むさし 柳はしおこん 紅をさし/豊原国周 明治4(1871)年(ポーラ文化研究所所蔵)

日本女性特有の黒髪、既婚女性のお歯黒のように、黒も美しさや華やかさを表現する上で大切な色とされてきた。結婚するとお歯黒をして、子どもが生まれると眉を剃り落とすという日本独自の習慣は、表情をあらわにしないことが美徳として考えられてきたために生まれた。そうした慎ましさを表現することが、身だしなみの一つと考えられてきたのだ(公家のお歯黒は西洋人から野蛮な風習に見られないよう1870年に禁止される。民間では昭和まで残っていた)。

このように長らく日本女性は“控えめに”“目立たず”、という慎ましさを表現するための化粧をしてきた。その一方で、大阪や京都、江戸などの都市部では、おしゃれをして歌舞伎や花見などに行く文化が定着。当時のファッションリーダーである歌舞伎役者や遊女たちを見習って、華やかな装いが流行しはじめた。頬紅や口紅、目元、耳などに紅を使ったポイントメイクも登場する。

この「白・赤・黒」は、歌舞伎役者の化粧にも見られる日本化粧の基本。日本女性が様々な色を使ったメイクをするようになるのは、西洋文化が普及し始める明治時代後半になってからのことだ。

欧米化に伴い「肌色」が誕生

その後の化粧文化のなかで一番の変化といえるのが「肌色」という概念が生まれたことだ。明治後期に西洋から “色おしろい”が入ってくると、日本女性たちは「自分の肌色に合った色がある」と知る。さらに、昭和になって、肌色にもバリエーションが生まれて、より自分の肌色に近い色(といってもこの頃はまだ色おしろいという粉)を選べるようになる。

(左)自然な眉化粧が美しい明治時代の美人絵葉書より(右)女性像入り化粧セット/リップスティック、フェイスパウダー、携帯香水、チークルージュ入れ/1920~1930年頃(ポーラ文化研究所所蔵)

撮影=横須賀功光(資生堂提供)

アイシャドウや油脂入りファンデーション、つけまつげやマスカラなどが発売され、西洋風メイクが流行するのは戦後から1960年代にかけて。

「カラーテレビが普及したことも欧米風メイクが流行したことに大きく影響しています。当時の映画は全体にピンクっぽく映っていたため、ピンク色のメイクが流行ったなんていうこともあったそうです」(富澤さん)

さらに1980年代になると、欧米の真似をするだけでなく、化粧でも自分らしさや日本人らしさを求める傾向が出てくる。まっすぐな黒髪と切れ長の目が印象的な山口小夜子さんが世界で活躍したことも、日本女性たちを勇気づけた。

原点回帰する日本の美肌

POLA THE BEAUTY 銀座店(ポーラHD提供)

80年代以降は、日本女性の化粧に対する意識と同様に、化粧品そのものもかなり進化していった。80年代後半の「化粧品が科学を語りはじめた」というキャッチフレーズがあらわすとおり、原材料や肌が美しくなるメカニズムなど、効果効能を明らかにすることが求められるようになる。近年流行の「アンチエイジング」という言葉も、サイエンス情報に基づいた美容という考え方だ。

しかし、どんなに“盛ったメイク”が流行しようとも、整った素肌がもっとも美しいと考える日本人女性の意識は、源氏物語の時代から変わっていないのではないかと富澤さんはいう。

「“ガングロ”(顔黒)メイクや小顔などさまざまな流行はありますが、肌のきめまでこだわり、玉のようにツルツルな素肌でありたいと願う気持ちは昔も今も同じ。特に、美白ブームなどといわれる最近は、むしろ昔の白肌意識に近づいているように思います」

取材・文=牛島 美笛
バナー写真=千代田の大奥 お櫛あげ/楊洲周延 明治27~29(1894~1896)年(ポーラ文化研究所所蔵)

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