伝統美のモダニズム “Cool Traditions”

カール・ベンクス:古民家や集落をよみがえらせる建築デザイナー

文化 暮らし

存亡の危機にあった新潟県の山奥にある集落を、ひとりのドイツ人建築デザイナーが救った。老朽化した民家を次々に再生し、村人に田舎暮らしの醍醐味(だいごみ)を、身をもって伝授。やがて村は、「古民家村」として有名になり、移住者も増えた。そんな奇跡を起こしたカール・ベンクスに会いに、人里離れた竹所(たけところ)集落にある自宅を訪ねた。

カール・ベンクス Karl BENGS

建築デザイナー。1942年ベルリン生まれ。1966年に空手留学のため初来日し、木造建築に魅せられる。日独で古民家の再生・移築ビジネスを展開しながら、1993年新潟県の限界集落(十日町市竹所)に、現在の自宅となる古民家を購入・再生させる。全国で再生した古民家数は50軒。老舗旅館を改修した建物の2階に事務所を構え、古民家再生を通じた里山の魅力を全国に発信している。2017年「ふるさとづくり大賞(内閣総理大臣賞)」を夫人とともに受賞。 karl-bengs.jp

古民家は宝石の原石

新潟県の越後湯沢駅からローカル線で揺られること40分。無人駅「まつだい」で降りて、閑散とした商店街を10分ほど歩くと、ひときわ目をひくカール・ベンクスの事務所が現れた。廃業した老舗旅館を改修し、1階をカフェ兼イベントスペースに、2階を事務所にした建物だ。

築100年を越す老舗旅館を事務所兼多目的スペースに再生させた。1階のカフェの名は「澁い」。ベンクスの大好きな言葉で、日本に移住する前、ドイツで設立した会社のロゴにも利用していた

そこからベンクスの運転する車で、山道を走ること約20分。「ここが竹所(たけところ)の入り口です」と、自身が描いた集落地図の看板を示してくれた。知らなければ、数分で通り抜けてしまうほどの小さな集落。曲がりくねった細い道沿いには、彼が手掛けたカラフルな木組みの家が点在する。さらに奥に進むと山林をバックに、風格ある茅葺(かやぶ)き屋根をいただくベンクス邸が佇(たたず)んでいた。

日本の原風景を思わせる、新潟県の竹所(たけところ)集落の自邸

「古民家は、宝石の原石です。磨けば、光り輝きます」というベンクスの言葉通り、24年前には取り壊し寸前だったあばら家は、いまや堂々たる威容を示している。外壁は、淡いピンク色に塗られ、窓は極寒に耐えうるドイツ製のペアガラスがはめられている。重厚な玄関扉を開けると、仕切りのない、太い無垢(むく)の柱や梁(はり)を張り巡らした吹き抜けの大空間が広がっていた。

冬の豪雪にも負けないように組まれた家の骨組みを、「いったん解体し、全て元通りに組み直し」、その木組みのスケルトンをあえて隠さず露(あらわ)にしたという。インテリアは、古材を利用した和家具と外国製のものが、違和感なく共存している。

オフィス天井の太い柱や梁(はり)は残し、壁には断熱材を入れて淡いピンクに塗り替えた

「昔の日本は、一代限りの家ではなく、末代に残る家を建てていました。この国の棟梁(とうりょう)の技術は、世界一だと思います。壊して捨ててしまうのは、もったいない。しかし、古民家をそのまま修繕しても、今の人たちは住まないでしょう。だからと言って、モダンな材料しか使わない家は、健康によくないです。バイオロジーとエコロジーをミックスさせる。日欧の融合は必然とも言えるでしょう」とベンクスは言う。

以前、ルフトハンザ航空の客室乗務員をしていたクリスティーナ夫人も、ドイツ製のシンクの位置が高いキッチンに立ちながら、「茅葺き屋根の下で寝ることが、こんなにも安眠できるとは思いもかけませんでした」と、住み心地の良さを力説する。

ガーデニングが趣味のクリスティーナ夫人と自邸前で

村おこしにも一役

ベンクスが竹所集落で蘇(よみがえ)らせた古民家は8棟だ。自邸となる古民家の再生後も、「私と同じように、この村を気に入る人が絶対にいるはず」という信念から、施主も決まらぬ内から次々に廃屋を再生した。すると買い手はすぐに見つかり、大都市から移住してきた人もいる。それだけでなく、全国各地から、再生された古民家を見学にくる人が後をたたないという。

「ベンクスさんが来る前は、古民家に価値があるなんて誰も考えなかった」と語るのは、地元で生まれ育った五十嵐富夫(とみお)だ。昨年まで集落区長を務め、現在はベンクスが村で手掛けた2棟目の再生民家(通称:イエローハウス)で、週末にカフェを手伝い、ベンクス作品を見に来る人たちに彼の哲学を伝えている。

「ベンクスさんは古いものをとても大切にします。例えば、深さ8メートルの井戸も埋めずに、下まで降りて行って掃除をする。その上にガラスを張ってライトアップさせたので、イエローハウスの床からは、今でも真っ青な水の流れが見られます」

ベンクスに触発された五十嵐は、「村人が何もしないのでは立つ瀬がない」と、ベンクスが長年提案してきた「竹所夢プラン」の実現に奔走。例えば、ハウジングアンドコミュニティ財団から助成金を得て、ボロボロだった牛小屋の外装を落ち着いたオレンジ色の外壁に付柱を貼ることで「ベンクススタイル」に生まれ変わらせた。毎年冬の到来前には、ベンクス邸の茅葺き屋根に防雪シートをかけたり、村ぐるみの伝統行事や小旅行の企画、インターンを受け入れたりもしている。

こうした努力が実り、竹所集落の人口は、一時期9世帯19人まで落ち込んだが、現在は11世帯34人。地元の住人よりも移住者の数が多い希有(けう)な村となった。8歳以下の子供が5人もいる。昨年4月には、ベンクスが手がけたシェアハウスも竣工(しゅんこう)し、農業をはじめとする地域おこしを手伝う若者など6人が入居しており、満室だ。

国からも、「日本の伝統的建築文化の維持や、過疎で衰退した村を復活させた」ことが評価され、ベンクス夫妻は、2016年度の「ふるさとづくり大賞(内閣総理大臣賞)」を受賞した。「とても励みになりますし、もっと竹所の住民を増やしたい」と語る。

骨董屋で見つけた2階の窓柵を階段の手すり(写真右)に利用したり、床の間(中央)を設けるなど、和の要素を取り入れながら、ドイツ製のペアガラスやキッチン(左)なども導入した、和洋をほどよく融合させた自邸

日本との出会いは空手

ベンクス邸を後にして、まつだい市内にある事務所に戻ると、1階の広いカフェの棚に、ドイツの建築家で日本の建築美を高く評価したことで知られるブルーノ・タウトの本を額装して大切に飾ってあった。ベンクスの父が所蔵していたものだ。フレスコ画の修復職人だった父は、第二次世界大戦中に戦死した。その1カ月後に、ベンクスは東ベルリンで生まれた。父の遺品の書物や、刀、浮世絵、根付けなどを眺めて育ち、日本への憧憬(しょうけい)を募らせたという。

ブルーノ・タウト著『日本の家屋と生涯』は、ベンクスが誕生する前に戦死した父の蔵書。日本を知るきっかけになった大切な本だけに、額装して1階のカフェに展示している。

初来日は、1966年。パリでインテリアの仕事をする傍ら、日本大学の空手部OBと出会い、勧められるままに日大に空手留学した。日本の伝統建築美を目の当たりにし、木造建築に強く惹かれた彼は、その後、日本とドイツを行き来しながら、デュッセルドルフに日本家屋を移築するビジネスを中心に活躍。日本でも、尊敬する建築家アントニン・レーモンドの東京事務所の顧問設計士として、関東のゴルフ場に茅葺きの茶屋を作った。

竹所集落との出会いは、ちょうどドイツの顧客から古民家移築の依頼を受けていた93年秋のこと。知り合いの東京の大工が、隣村に米を買いに来るのに同行し、竹所に「一目ぼれ」したという。クリスティーナ夫人にも相談せずに即、村の空き家を購入し、再生に着手したという。

その後、竹所に移住し、古民家再生マイスターとして評判がたつと、同じ新潟県内で、レーモンドが設計した新発田(しばた)教会のすぐそばで、「光栄な偶然」にも、民家を再生する機会に恵まれた。県外でも、東京都や長野、埼玉、栃木、山梨の各県から依頼が舞い込み、すでに50軒もの古民家を蘇らせている。

「古い家のない町は、思い出のない人間と同じです」。これは、ベンクスがドイツで会ったこともある日本人画家の東山魁夷の言葉で、座右の銘にしている。日本の伝統建築美を、日本人以上に理解しているドイツ生まれの建築家のベンクス。これからも竹所を拠点に、「木造建築の良さを残しつつ、そこに現代のシステムもうまく導入することで、次世代に継承できる家を、もっと作っていきたい」と話してくれた。

取材・文=川勝 美樹
撮影=羽鳥 宏史

(文中敬称略)

バナー写真=オフィスの入り口に飾っている総ヒノキ造りの神棚の下で

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