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忍者のリアルに迫る

文化

映画やアニメに登場するなど、日本のみならず世界中で高い人気を誇る忍者。ところが、その実態は謎に包まれていた。近年の研究でようやくベールが剥がれてきた、忍者の真の姿を紹介する。

つくられた忍者のイメージ

忍者はいまや、小説やアニメ、映画などを通じて、日本のみならず、世界中の人々を魅了する人気者だ。黒装束に身を包み、超人的な身体能力で高い塀を乗り越え、敵が来れば手裏剣を打って闘い、どろんと消える。忍者と聞けば、このような姿を思い浮かべるのではないだろうか。

しかし、こうした忍者のイメージは、後世になってつくられたものだ。「忍者」という呼び名も、時代小説や漫画、映画が人気を博した1950年代後半以降に定着した。古くは「らっぱ」「すっぱ」など多くの呼び名があったが、一般的には「忍び」と呼ばれていたようだ。秘術を使い隠密行動をするのが忍者の務めのため、当然史料は豊富ではなく、謎に包まれていた。近年、研究が進み、ようやく実態の一部が明らかになってきている。

「伊賀流忍者博物館」に飾られる1960年代に大ヒットした映画「忍びの者」シリーズのポスター

忍者研究とは伊賀と甲賀を探ること

忍者の里として有名なのは、伊賀(三重県伊賀市)と甲賀(滋賀県甲賀市)だ。伊賀は三重県の北西部、甲賀は滋賀県の南端に位置し、山を隔てて隣接している。二つの地域間は直線で約20~30km、歩いて半日ほどの距離だ。

伊賀市の東側に隣接する津市にある国立三重大学では、「伊賀における『忍者文化』に着目した地域活性化の取り組み」として、2012年から本格的な忍者研究をスタート。人文学部教授の山田雄司さんを中心に、歴史学の視点から忍者の実態を解き明かそうとしている。

「忍者を知る手掛かりになる 忍術書が残っているのは、伊賀と甲賀がほとんどです。ですから、忍者を知るにはこの2つの里を探ることが欠かせません」(山田教授)

「甲賀流忍術屋敷」に展示されている忍術書

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ライバルではなく友好関係だった

戦国時代、合戦の際に現地の人々を雇ったのが忍者の始まりだと、一般的には考えられている。しかし、甲賀の忍者は、荘園制度に抵抗した住民たちが一揆を結び、自治組織を作ったのが始まりだという。伊賀の忍者も、荘園を巡る争いから生まれた悪党がルーツと考えられている。

2つの里は京都から近く、都の最新情報が入りやすかった。地形的には周囲を山に囲まれているため、逆に内部情報は漏れにくく、諜報(ちょうほう)活動に適していた。山の中での厳しい生活は、忍者としての身体を鍛えるのに良い環境だった。また、地域の大名の支配力が弱かったこともあり、自治組織がどんどん強固になった。

小説や漫画ではライバルのように語られる両者だが、実は「甲伊一国」と呼ばれ、密につながっていた。婚姻関係もあり、頻繁に情報交換を行っていた。1579年、織田信長の息子・信勝が伊賀の国を攻撃した「天正伊賀の乱」が起き、忍者は火術や夜討ちで抵抗した。「その戦いでは、もちろん甲賀の忍者も一緒に戦っています」と山田さんは説明する。

82年、「本能寺の変」の急報を堺で受けた徳川家康は、伊賀や甲賀の忍者に守られて、伊賀の山を越えて本拠地の三河に無事帰国した。家康は彼らの働きを高く評価し、引き続き召し抱え、江戸城の警護などに充てた。そうした活躍が広く知られるようになると、他の大名もガードマンとして忍者を雇うようになった。日本各地に伊賀や甲賀ゆかりの地名が数多く残っているのはそのためだ。

「甲賀の里 忍術村」では、石垣登りが体験できる

忍者は戦わない

「伊賀や甲賀の人は、午前中は農作業などの家業に従事していました。午後になると集まり、任務に備て鍛錬を積んでいたようです」(山田教授)

忍者の最大の使命は、敵方の情報を集め、主君に知らせることだ。そのためには、極力戦いを避け、なんとしても生き抜いて戻ってこなければならない。敵地に赴けば、いつ敵に襲われるか、何が起こるか分からない。日ごろの訓練では、敵を倒す攻撃力ではなく、敵から逃れる守備力を上げるための技を中心に磨いた。

筋力や持久力を向上させるだけでなく、運動能力を最大限に高めるための体の使い方や呼吸の仕方を徹底的に追究した。そして、危険な任務を遂行する忍者たちは心の強さも備えていた。日々の鍛錬により、どんな状況にも動じない不動心や臨機応変に対応する柔軟な精神力を身に付けた。

実戦ではほとんど使われなかったという手裏剣(「甲賀の里 忍術村」手裏剣道場)

忍者の行動を支えたのは創意工夫と科学への探求心だという。技を極めるとともに、多くの情報を集め、知恵を付けた。そうして編み出された忍術は、サバイバル術ともいえる。その中には、人の心理を巧みに利用し、盲点を突いているものが多い。隠形術(おんぎょうじゅつ)も、心理的な盲点を突く姿勢をとることで、相手の視界から消えるノウハウだ。

「伊賀や甲賀の忍者は、火薬や薬などの知識が豊富でした。京都に近いため、鉄砲などの知識を得やすいことに加え、山伏からは薬の知恵を得ました。さらに、仏教書を調べるなど、本当に向学心旺盛だったようです。彼らは火薬の配合や材料の違いで異なる効果があることを知った上で、何度も実験を繰り返していたと思われます。その結果、風に強いたいまつや、まっすぐに上がる狼煙(のろし)など、科学の理にかなった道具を生み出しました」(山田教授)

機能性にあふれている忍者の装束や道具(「伊賀流忍者博物館」展示)

忍者の精神を現代にいかす

主君に情報を伝えるという使命を果たすまでは、なんとしても生き延びなければならなかった忍者。超人的な強さを誇るスーパーヒーローではなく、「生きる力に長(た)けている人、あるいは、生き延びるために鍛錬した人」だったと山田教授は言う。これが、研究から明らかになった忍者の実像である。

「今、世の中が便利過ぎて、人間はこのままでは何もできなくなってしまうかもしれません。勤勉で、逆境に耐え忍び、どんなときでも生き抜こうとする忍者本来の姿に、生命力が弱っている現代人が見習うべきところがたくさんあると思います」(山田教授)

「伊賀流忍者博物館」にて

取材・文=佐藤 成美
撮影=大島 拓也

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