浮世絵 江戸の最先端を映したメディア
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フランスでは今も、浮世絵の展覧会に多くの入場者が訪れる。19世紀後半の西欧において、日本の絵画芸術は前例のないほどのブームを呼び、ジャポニズムと呼ばれるすぐれた芸術運動を生み出した。日本の絵画、特に浮世絵は、それまで一部の限られた人々だけに知られていたが、万国博覧会が開催され、極東の美術品を扱う専門店が登場するにつれて、愛好家の数が急速に増えていった。
マネ、ドガ、モネ、ゴッホといった画家、版画家のブラックモン、彫刻家ロダン、作家のゴンクール兄弟など、多くの人々が美しく色あざやかな浮世絵に強い関心を寄せ、影響を受けた。1890年代まで、浮世絵は値段も手頃だった。
当時の日本人は、浮世絵が西洋でこれほどの人気を博したことに驚いた。なぜなら、江戸時代の日本人にとって浮世絵は、芸術作品というより、日常生活の一部をなす玩具や教科書であり、広告やニュースのメディアだったからだ。浮世絵が江戸時代に生まれた背景をたどり、日本人の生活にどのような役割を果たしていたのかを見ていこう。
浮世絵の誕生
浮世絵の誕生は、江戸時代の町人文化の形成と切り離せない。参勤交代に伴う出費により大名が商人に多額の借金を負う一方で、金融経済が力をつけ、商業の隆盛が豊かな町人文化を育んだ。浮世絵は、まさにこうした時代を背景に生まれ、社会の要求に合わせて改良を重ね、技術的に進歩していった。
浮世絵という名称は肉筆画も含むが、フランス語で一般に浮世絵を表す「estampe japonaise」を字義通りに訳せば「日本の版画」となる。日本における木版画は、仏典の印刷および挿絵の技術として中国から輸入されたのが始まりだ。その技術が挿絵ではなく、一枚絵として用いられるようになったのは1660年頃。画家の菱川師宣(?-1694)が初めて一枚絵を制作し、これをきっかけに木版画は急激な進歩を遂げた。
初期の木版画は「墨摺絵(すみずりえ)」と呼ばれ、和紙と墨を使った白黒の版画だった。やがて人々が色のついた版画を求めるようになると、硫黄と水銀の化合物である丹を使って筆で着色した版画が登場した。これが「丹絵(たんえ)」である。18世紀には、紅花から採取した染料で着色した「紅絵(べにえ)」、黒い漆をぬった「漆絵(うるしえ)」が現れた。
18世紀も半ばになると、二色刷り、三色刷りで版画を仕上げる職人が登場した。この「紅摺絵(べにずりえ)」の登場は画期的だった。これに続いて画家の鈴木春信(1725-1770)が1765年頃、「錦絵」(にしきえ)と呼ばれる多色刷りの木版画を創始した。
浮世絵は分業制
当初は高価だった錦絵だが、すぐにそば一杯分ほどに値下がりした。浮世絵の制作は共同作業である。まず、版元が自分の選んだ絵師に版下絵(筆と墨で描く)を発注する。版下は版元の組合による検閲を受け、その後は木版を彫る「彫り師」に、そして版画を刷る「摺り師(すりし)」にまわされる。
当時、版元は非常に大きな役割を果たした。高名な版元であった蔦屋重三郎(1750-1797)は、喜多川歌麿(1753-1806)、葛飾北斎(1760-1849)、東洲斎写楽といった当時の最高峰の絵師を発掘して仕事を依頼した。浮世絵の販売に当たったのは「絵草紙屋(えぞうしや)」と呼ばれた専門店や行商人であり、現代のポスターと同じく、筒状に丸めて顧客に手渡された。
軽くてかさばらない浮世絵は、江戸土産として好まれ、その人気は、19世紀に写真が発明されるまで、揺るぐことがなかった。
日用や広告に役立った浮世絵
鈴木春信が制作した最初の多色刷り木版画は、「絵暦(えごよみ)」と呼ばれた暦だった。そこに描かれた中性的できゃしゃな人物のシルエット、「空摺(からずり)」あるいは「きめ出し」と呼ばれる凹凸技法に、当時の人々は感嘆した。
絵暦に続いて、具体的な目的をもつ浮世絵が多数制作されるようになる。江戸時代には商業が栄えたが、特に江戸末期には、飲食店や、百貨店の前身である呉服屋が宣伝に浮世絵を使った。歌川広重(1797-1858)の浮世絵には、呉服屋の大丸(現在の大丸百貨店)が描かれている。
庶民にとって流行病が深刻な脅威だった当時、予防や治療に効果のある食べ物、反対に害になる食べ物を描いた浮世絵が数々出版され、よく売れたという。
さらに、化粧品の宣伝、特に白粉(おしろい)や紅(べに)の宣伝にも浮世絵が使われた。当時、化粧に使われたのは、白粉の白、口紅の赤、眉と既婚女性のお歯黒に使われた黒の三色であったが、遊女をまねて下唇を緑にする化粧も流行した(下図、左参照)。純度の高い高価な紅は、何重にも塗りかさねると玉虫色に輝いたという。
流行の発信を担った浮世絵
遊里の吉原や、その名高い花魁(おいらん)もしばしば浮世絵の題材となった。吉原の遊女は最新の髪型や化粧法の発信源でもあった。しかし、豪奢な着物とは裏腹に、これら遊女の生活は決してうらやむべきものではなく、特に下層の遊女は夭折する者も多かった。
美人画は歌麿の登場により最盛期を迎え、背景に「雲母(きら)」を摺りこみ、女性の顔を大きく描いた「大首絵(おおくびえ)」が流行した。浮世絵師が遊女とともに好んで描いたのは歌舞伎役者である。遊女や役者をまねる風俗も生まれ、役者絵は映画俳優のブロマイドのようなものとして使われた。役者絵で最も有名なのは写楽の作品である。写楽が誰であったかについては多くの仮説があり、現在まで謎の絵師と言われている。
19世紀に入ると旅行や巡礼が盛んに行われるようになり、北斎や広重らの素晴らしい風景画も生まれた。これらの「名所絵」は、各地の名所の格好の宣伝となった。
教育や情報伝達に果たした役割
江戸時代は、教育が普及した時代でもある。武士の子弟が学んだ学校のほかに寺子屋が生まれ、商人、職人、農民の子弟が通うようになった。子どもたちが勉強しながら、泣いたり、笑ったり、遊んだりした姿を描いた浮世絵がたくさん残っている。浮世絵は、読み方の練習用や、鳥や花の名前を覚えるためにも使われた。明治になって日本が開国して英語教育が導入されると、アルファベットや英語の基本単語を刷った浮世絵が登場した。
現代では浮世絵にハサミを入れようとする人はいないが、江戸時代には、着せ替え人形や模型など、切り取って遊ぶための浮世絵も多かった。浮世絵になった双六を大人と子どもが楽しみ、判じ絵や影絵も人気があった。
江戸末期になると外国への興味が高まり、外国人の日常生活を描いた浮世絵が数多く印刷された。浮世絵はまた、新聞がなかった時代にあって、江戸から遠く離れた各地に情報を伝えるのにも役立ち、歌舞伎役者の死去、自然災害、犯罪といった社会ニュースが題材として取りあげられた。高名な武士や、怪談に登場する幽霊、妖怪を描いた浮世絵も人気があった。
芸術に昇華する浮世絵
摺物(すりもの)
浮世絵のうちで真の芸術といえるのは、「摺物」と呼ばれる作品である。摺物は、個人の発注を受けて制作され、売り物ではなく贈り物とされた版画であり、検閲もなかった。最高級の和紙、贅沢な染料、凹凸や「ぼかし」といった最高度の技術、さらに金粉や銀粉を惜しみなく使い、極めて美しい作品が制作された。摺物は、他の版画と同じく両手にとってやや傾け、微妙な色彩や光沢を味わうのがならわしであった。
判型
江戸時代を通じて浮世絵に使われる紙の大きさも変わり、定型化していった。当初は奉書紙が全紙で使われたが、その後、二つ切り、三つ切り、さらに、もっと小さい判型も登場した。特に装飾性の強いのが「柱絵(はしらえ)」と呼ばれる判型である。台紙に貼って、高価な肉筆画の代わりに座敷の床の間に掛けられることが多かった。柱に貼られることもあった。
春画
西洋では、浮世絵と言えば春画をイメージする場合が少なくない。エロティックな版画には二種類あり、一つは「危な絵」と呼ばれる。例えば、着物からのぞく足を描いてそこはかとないエロティシズムを漂わせるタイプのものだ。もう一つは、より露骨な、正真正銘の「春画」である。非常に高名な絵師も春画の制作に携わった。春画の美しさは西洋人を驚かせた。作家のエドモン・ド・ゴンクールは日記の中で、次のように書いている。
「私は先日、日本の猥(わい)画集を購入した。大いに喜び、楽しみ、魅了されている。私は、わいせつ性の外でこれを眺める。わいせつ性はあって、ないようだ。私には見えない。その奔放な空想性の向こうにかき消えてしまうのである」(『ゴンクールの日記 文学生活の手記』)
日本の浮世絵は世界中の芸術家に影響を与えた。そして今も現代人を魅惑しつづけている。浮世絵はすべて手仕事であり、その制作の工程は驚嘆に値するものだ。そこには、最高の技術を持った職人だからこそ到達できた完璧さが存在する。
(原文フランス語。日本語読者向けに一部翻案)
図版提供=山口県立萩美術館・浦上記念館バナー(葛飾北斎『富嶽三十六景 神奈川沖浪裏』部分)=アダチ版画研究所