会津の「変わらない」魅力—東山温泉「向瀧」
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会津若松市は磐梯山、猪苗代湖に近く、戦国時代や幕末の史跡も多い、福島県を代表する観光地だ。福島第一原発からは約100㎞離れており、放射線量も首都圏とほとんど変わらなかった。しかし、深刻な風評被害で客足は遠のいた。
風評被害をはねのけた老舗旅館
そんな中で、東日本大震災直後から旅館としての営業を続け、4月中に前年比60%まで宿泊者数を回復、5月以降は前年比約10%アップと業績を伸ばしている老舗旅館がある。会津若松市の市街地から車で10分ほどの東山温泉の「向瀧(むかいたき)」。
江戸時代は会津藩の保養所として利用され、1873年に旅館として創業。伊藤博文ら明治の元勲から野口英世博士、歌人与謝野晶子、最近では小泉純一郎元首相など、多くの著名人が訪れている。明治の面影を残す木造数寄屋建築は、国の登録有形文化財。いつまでも“変わらない”魅力で、風評被害をはねのけている。
現在の社長は、6代目の平田裕一さん。
「会津は震度6弱でしたが、向瀧はほとんど被害がありませんでした。築100年以上の木造旅館ですが、瓦一枚落ちませんでした。揺れも大きくはなく、皿も一枚も割れなかったんです。あまりに整然としているので、地震の後に到着したお客様も驚かれていました」と2011年3月11日のことを振り返る。
建物や館内の備品にはまったく影響はなかったが、鉄道や道路が寸断されて公共交通機関がストップ。物流が途絶えて、ガソリンや食材が調達できなくなった。翌12日そして15日には、東京電力福島第一原発で水素爆発が起こり、放射能汚染に対する恐れが広がった。
「会津は原発から約100㎞離れていますが、従業員と家族の避難先を確保しなければと覚悟しました。自分が一人残って、この広い旅館をどうやって管理できるのか、140年続いた旅館もこれで終わりかと一時は廃業も考えました」
常連客の声にこたえる
会津若松市の観光業者の会合では「この状況では今後数年間、会津が観光地として立ち直るのは難しい。被災地の後方支援に徹した方が良いのでは」という意見まで出たという。東山温泉では、県や市の支援を受けて温泉街全体で原発のある大熊町の住民を受け入れることになったが、向瀧はこの避難住民の受け入れには敢えて参加しなかった。
「震災直後、『食事はおにぎり程度しか出せませんが、お湯だけは豊富にありますので、休みに来てください』とインターネットで呼びかけました。でも、うちに避難したいという方は現れませんでした。一方で、常連客からは『行けるようになったらすぐ行く』とか『名物料理を通信販売で買いたい』という連絡が次々に入りました。風評被害の中で避難住民を受け入れる話を断ったら、新しいお客様が来てくれる保証はありません。旅館を続けられるかどうかの不安はありましたが、それでも旅館を長年支えてくれている常連客を優先したいと、避難所の話は断りました」
東北新幹線の東京―福島間が4月12日に復旧すると、常連客を中心に客足が復活。4月は前年比4割減の落ち込みにとどまった。その後、宿泊数は順調に伸び、ゴールデンウィーク(4月29~5月6日)の8日間すべてが満室。5月は前年度30%増の売り上げとなったという。
140年という「時」を味方にして
向瀧の最大の魅力は、野口英世や伊藤博文が宿泊したときの雰囲気をそのまま味わえることだ。以前から歴史を感じられる外観と、室内の充実した現代的な設備が人気だったが、平田社長によると、震災後のお客様アンケートには「変わらないでください」という声が倍増したという。
「露天風呂を作れば客が増えるという人もいましたが、真新しい露天風呂で『野口博士が泊まった宿』と言っても通用しません。普通、時間が経過すると物は劣化します。しかし、創業100年より140年の方が魅力的に聞こえませんか。変わらないだけでなく、向瀧という空間を磨き続けることで、より美しくなるように心がけています。その結果、時間が私たちの味方になってくれました」
源泉かけ流しの向瀧の温泉。会津藩保養所の伝統をつたえる「きつね湯」、3種類の家族風呂と、大浴場の「さるの湯」と、それぞれ趣が違う。約60度の源泉を、加水、加温をせずに配管を工夫して、45~42度に調整している。
郷土料理を中心にした「地産地消」の向瀧の料理。メニューには福島県産の食材であることが明記されているが、断る客はいないという。
伝統の東山芸妓が復興を盛り上げる
「変わらない」というのは、向瀧だけでなく、会津観光全体に通じるキーワードかもしれない。東山温泉には、地方の温泉街ではめっきり減った芸妓さんも健在で、20代の若手芸妓も多い。先輩芸妓から芸を継承し、明治時代からの伝統を今に伝えている。お座敷の定番の端唄から地元の民謡までレパートリーは幅広く、白虎隊の悲劇を舞踊化したものもある。
端唄の「梅は咲いたか」を披露する、東山芸妓の美紀子さん(右)と月乃さん。
唄と三味線の名手、美紀子さんは若手からの信頼も厚い大ベテラン。この道何年ですか、とたずねると「やぼね」とかわして、東山芸妓の魅力を説明してくれた。
「会津は新潟に近く、京風の文化が日本海側から入ってきて、古くから芸事が盛んな土地です。最盛期は100人を超えていたので、ずいぶんさびしくなりましたが、不景気ないまの時代にこれだけ若い芸妓がいる地方の温泉街は他にはないと思います。震災後の自粛ムードで開店休業状態の時期もありましたが、地元の企業の方が、『こういう時だからこそ、盛り上げていこう』と積極的にお座敷に呼んでくれて。東山芸妓の伝統をまた次に伝えることができそうです」
京都の茶屋遊びなどを想像して、庶民には手が届かないと思われがちだが、東山温泉の場合は、芸妓1人につき、90分1万4175円。宿泊先の旅館に頼めば、スケジュールの合う芸妓を手配してくれる。美紀子さんも「家族連れや、女性グループの席に呼ばれることもあります。女性客とは、『女子会』みたいに話がはずみます。言葉が通じない外国の方とも、身振りや手振りでコミュニケーションしてこちらも楽しいです。震災後は外国の方がいらっしゃらないのが残念。ぜひまた来てくださいね」と話す。
一方の月乃さんは、22歳。会津若松市の隣町、喜多方の出身で芸妓になってまだ4年。「子どもの頃から日本のものが好きで、高校に入って職業としての『芸妓』を意識するようになりました。きれいな着物を着て日本髪の鬘をつけるようになってうれしいですが、毎日勉強することの連続です」
負けても正しいことを続ける会津精神
会津にはまだまだ「変わらない」魅力がある。会津の人々そのものだ。江戸時代にこの町の子どもたちが学ぶ「什(じゅう)の掟」もその一つ。年上を敬うことや、ウソをついてはいけないことなどの生活のルールが示された後に「ならぬものはならぬものです」と締めくくられる。
前出の平田社長はいう。
「会津の精神というのは、負けると分かっていても正しいことを続けたい、という気持ちの持ち方だと思います。『ならぬものはならぬ』というのも、他人に対してではなく、己を戒める言葉です。この気持ちがなくなったら、会津はなくなってしまうでしょう。そうならないために、私たちは、この会津という町を磨き続けたいと思います」
撮影=鵜澤 昭彦 撮影協力=株式会社コシナ/使用レンズ・Carl Zeiss Distagon T* 2.8/25 ZF.2