住み継いでいく古民家
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現代の技術では再現できない家を大切に
竹内昭彦さん(47歳)宅の玄関から一歩入ると、まず目に入るのが黒くて大きな梁(はり)。120年の歴史を感じさせる。
竹内家はこの地で、明治時代(1868~1912年)から食用やランプ用の菜種油を売る油屋だったが、石油の普及とともに養蚕業へと転業。さらに、戦後の絹織物業の衰退で、群馬特産のこんにゃくを作ることになったという。明治時代の半ばに建てられたこの家は、家業にあわせて少しずつ改築を重ねながら、大切に受け継がれてきた。
2005年、竹内さんは、高齢となった両親との3世代同居を考えて、約30年ぶりの大規模なリフォームをすることにした。妻の里美さんは当初、古い家は壊さずに、敷地内に現代風の家屋を建てることも考えたが、昭彦さんは古い家を生かすことを優先した。
昭彦さんは「バブル経済期にきらびやかに見えた新築住宅も、20年もたてばボロボロ。逆に、いろりの煤(すす)で黒くなった柱の風合いは、新素材では出せないでしょう。この家で育ってきた僕の記憶も、新築住宅では再現できない。何よりも、この歴史ある家を壊してこれより立派な家が建てられないのでは、先祖に申し訳が立たない」と、先祖伝来の家を残すことへのこだわりを強調した。
里美さんも「『100年以上たつと木は強く、硬くなる。耐震強度を補強すれば、さらに長く住むことも可能』という設計士さんの説明を聞いて、私もこの家で住み続けたいと思うようになりました」と話す。
竹内さん夫妻は、設計を担当したCA-LAB代表の八巻秀房さんと3年間、打ち合わせを重ね、古くてモダンな理想の家を完成させた。竹内家の自慢は、大きな家を支える太く長い梁。現代の木造住宅ではまっすぐに加工された角材を使用するが、当時の大工は、天然の木材の曲がりを生かして、家を建てていたという。今回の改築では、この梁をうまく生かした設計となった。
昭彦さんの父・芳茂さんにとっては、自分の代に入れたという、帯戸や、大黒柱を中心とした3本の欅(けやき)の柱が引き立ち、大いに満足している。柱のほかにも、落書きが残ったままの格子戸(こうしど)や建具(たてぐ)も削り直して、以前のものを使用した。
次世代にも住み続けてもらう家をつくる
古いものを大切にしているだけではない。2階の子ども部屋を仕切る壁は取り外しやすくしており、子どもたちの成長に合わせて間取りを変更できるようにするなど、長期間の家族のライフスタイルを考えた設計も取り入れた。
里美さんは、格子戸の透かしガラスから光が入ってくる様子を見るとき、古い家の良さを実感するという。
「古い家でもきれいに住むことは可能です。今あるものを大切に、そして長く使い続ける。昔の人なら当たり前に実践していたことですよね。子どもたちにも、この家に住み続けてほしいと思います」
古い家を大切に使い続ける。いいものを長く使うことこそ、究極のエコライフだ。
撮影=大瀧 格
竹内邸の“和コロジー”アルバム
間取り図の番号をクリックすると、各部屋の伝統を生かした部分がご覧いただけます
竹内家の思い出年表 ~油屋から養蚕業、こんにゃく農家、そして次世代に~
明治時代(1890年頃) | 油屋として家が建つ。この時代の一般家庭は、菜種油を食用やランプ用に使っていた。 |
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大正時代初頭(1920年代) | 石油の普及で、家業を養蚕業に転向。2階部分を蚕部屋に。 |
昭和20年代(1940年代後半) | 2階蚕部屋は100畳の広間となる広さで、旅芸人を呼んで舞台をしたこともあった。 |
昭和40年代後半(1970年代) | こんにゃく農家に転向。2階はこんにゃくの貯蔵部屋に使った。いろりに裸電球の居間、4本足の白黒テレビがあった。こんにゃくは寒さに弱いので、いろりの暖が階上にも上がり役立った。 |
昭和50年代(1980年代) | 天井の梁を覆い、バブル期の流行であった洋風の内装に改装。こんにゃくも2階まで上げずに別の倉庫に保存するようになった。 |
平成20年(2008年) | 現在の家が完成。 |