ポップカルチャーは世界をめぐる

ゲーム大国のヒミツ Part 2

経済・ビジネス 文化

世界のポップカルチャーに大きな影響を与えた日本のゲーム機が逆境に立たされている。日本のゲームの未来はどうなるか?

ゲーム産業を支えた電子立国

日本のゲームソフトは、ゲーム機というハードウェアがあればこその産物だ。ゲームハードが国内に広く普及したから、それを活用するソフトも売れる。さらに人気ソフトで遊ぶためにハードのユーザー人口も増えるという、相乗的な関係で発展してきた。 ゲーム機というハードウェアは、設計図の上だけで完成するものではない。その要求仕様を満たす半導体を大量に製造できる体制が不可欠だ。しかも安定供給のできる生産インフラを整備し、互いに激しい競争を繰り広げて品質を向上させる国内メーカーの企業努力が欠かせない。日本の「ゲーム大国」への軌跡は、1970年代~80年代に半導体産業を急成長させた「電子立国」への道と軌を一にしていた。

任天堂の躍進


「ゲーム&ウォッチ」
(任天堂、1980年)
任天堂が開発した初の携帯型液晶ゲーム機。サラリーマンが暇つぶしに電卓のボタンを押しているのを見て生まれた「電卓型のゲーム機」。写真は82年発売のマルチスクリーン。


「ファミリーコンピュータ(ファミコン)」
(任天堂、1983年)
8ビットCPUを搭載し、ゲーム機本体のスロットに差し込むロムカセットを交換することによって多様なゲームを楽しくことを可能した家庭用据置型ゲーム機。

日本を代表するゲームメーカーである任天堂の歩みも、そうした「電子立国」への足取りと深い関わりがあった。玩具会社だった同社がゲームメーカーへと転身したきっかけは、電卓の発売を検討したことだった。提携した半導体メーカーからゲーム専用チップを提供されるというチャンスがあり、それを活かして開発した「テレビゲーム15」と「テレビゲーム6」(1977年)の2つが、任天堂の「ゲームハード」の原点となった。

その後、任天堂は小さな液晶ゲーム機の「ゲーム&ウォッチ」(1980年)を発売。「新幹線の中でも遊べる」というコンセプトの携帯ゲーム機は前例がなく、全世界を席巻する大ヒットを記録した。開発者の横井軍平(よこい・ぐんぺい)氏の「枯れた技術の水平思考」という言葉はよく知られている。つまり、価格が低下した一時代前の高性能技術を、まったく違う目的に使うことで商品の可能性を広げるということだ。

しかし、1983年発売の「ファミリーコンピュータ(ファミコン)」は「最先端かつ低価格」に挑戦して成功を収めた。まだ“枯れていない”当時最高の技術による256×240ドットのグラフィック画面や、50色以上も使える表現力は、1983年当時のゲームハードの中では圧倒的な存在だった。

当時の任天堂社長・山内溥(やまうち・ひろし)氏が「マシンはソフトを得るための手段。金を儲けるのはソフトウェア」と強調したように、高性能ハードを低価格に抑えてソフトで収入を得るというビジネスモデルもこの時にスタートした。

この戦略は、1990年に登場した「スーパーファミコン」にも引き継がれ、ソフトの開発力とブランド力で確立した任天堂を頂点とする「一強皆弱」の日本の市場構造は維持された。

任天堂VSソニーの攻防史


「プレイステーション(初代)」
(ソニー・コンピュータエンタテインメント、1994年)
本格的な3Dグラフィックスと豊富な才能を集めたソフトを武器にNintendo64やセガサターンといったゲーム機に勝利した家庭用据置型ゲーム機。

しかし、ハード技術の革新はすさまじく、あらゆるゲーム機はいつかは時代遅れになる宿命を持つ。永遠の勝者はありえない。90年代半ばに起こった次世代ゲーム機戦争は、スーパーファミコンの王座のみならず、任天堂の覇権を覆すことになった。それは表現力の向上に伴いソフト媒体が大容量のCD-ROMに移行したことによるものだった。

据え置きゲーム機で任天堂に代わってトップに立ったのは、いち早くCD-ROMを採用したソニーの「プレイステーション(以下PS)」(1994年)と後継機の「PS2」(2000年)。CDショップでゲームソフトが買える時代になり、さらにユーザーの裾野を広げることになった。

携帯ゲーム機の新たな地平


「ニンテンドーDS」(任天堂、2004年)
ダブルスクリーン、タッチスクリーン、音声認識などの斬新な操作方法でゲーム人口の拡大に貢献した携帯型ゲーム機。2009年には世界累計1億台を突破。

据え置き型のゲーム機に比べ、携帯ゲーム機の分野では、1989年に「ゲームボーイ」が登場して以来、任天堂ハードの優位が一貫して続いている。ユーザーが求めるものが、単純な「低価格・高性能」だけではなく、サイズの小ささやバッテリー持続時間の長さなど携帯ゲーム機ならではの条件もあるからだ。

さらに2004年末に発売された「ニンテンドーDS」(2004年)も、今なお優位な市場シェアを保っている。興味深いのは、純粋なスペックでは優れているとは言えないDSが、強力な表示能力をそなえたソニーの「PSP(プレイステーション・ポータブル)」(2004年)を圧倒してきた事実だ。

DSのタッチスクリーンやマイクによる音声入力といったデバイスは、決して新しい技術ではない。だが、ゲーム機を「さわる」、画面の中のペットや女の子と「しゃべる」という、斬新なプレイ体験の提供は画期的だった。表現力では据え置きゲーム機にかなわなかった携帯ゲーム機の新たな地平は、ゲームの原点である「想像力の喚起」にあった。

海外産のゲームに対抗するには

国産のゲーム機メーカー各社は、世界の頂点に立つ任天堂と戦うために「世界標準」を目指さなくてはならなかった。その結果、メーカー同士が性能・価格の両面でし烈な競争を繰り広げたが、こうした厳しい状況は世界中どこを探しても見当たらなかった。

さらに高機能とは言えなかった家庭用ゲーム機が、限られた情報量で豊かな想像力を喚起する文化と結びついた結果、多彩なソフトを花開かせることになった。アクションゲームやRPG、果ては画面の中のヒロインと交際する恋愛ゲームまで、他の国では類を見ない様々なジャンルが誕生した。

しかし近年、日本のゲームソフトが押され気味なのは確かだ。スマートフォンやタブレット型端末などを含めゲーム機のすそ野が広がり、その表現力が飛躍的に向上しつつある中で、「圧倒的な情報量で現実の世界を再現する」傾向が強い海外産のゲームソフトが世界市場でシェアを伸ばしているからだ。

だが、データ量に依存する大規模なソフトは開発コストがかさみ、しだいに制作環境が厳しくなりつつある。最小限のリソースで最大限の想像力を呼び起こす日本型ゲームが逆襲する日は、そう遠くはないだろう。(完)

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