東大寺第224世別当 橋村公英さん:大仏さまに手を合わせるひととき、怨みを忘れ、他者を理解する
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国家全体の平穏を祈るための象徴
東大寺は奈良時代に国家の安泰を祈る寺として創建された。聖武天皇(701〜756)の発願によって752(天平勝宝4)年に完成した本尊の盧舎那仏(るしゃなぶつ)は、「奈良の大仏さま」として世界的に有名だ。国内外から多くの参拝客でにぎわう観光地としての顔と、修二会(しゅにえ)のような修行の場としての顔を併せ持つ。橋村公英さんは2022年、初代の良弁(ろうべん、689〜773)から数えて第224代目の別当に就任した。
「約1280年に及ぶ東大寺の歴史は大仏さまと共にあったと言えます。743(天平15)年に『大仏造立の詔(みことのり)』が聖武天皇によって発せられ、初めに大仏さまは紫香楽(現・滋賀県甲賀市信楽町)で造り始められますが、都が平城京(現・奈良市)に遷都されますと、大仏さまの造像も平城京北東の現在地で再開されました。749年に仏身の鋳造が、『東大寺要録』によると751年に大仏殿(金堂)が完成し、752年には盛大な開眼供養会(くようえ)が営まれました。その後、西塔や東塔、講堂や僧房などが順次造営され、七堂伽藍(がらん)が整備されていったのです」
当時の日本は中国大陸から九州へ持ち込まれた疫病(天然痘)が各地に広がり、未曽有の混乱に陥っていた。735年、737年の大流行で政権の中枢を担う藤原氏をはじめ多くの貴族も命を落とした。『続日本紀(しょくにほんぎ)』によると、聖武天皇は「私の不徳によってこの災厄が生じた」と自らを責めた。税の減免、米の支給、資金の貸し付け…。応急対策を打ち出した天皇が国家の命運をかけて取り組んだのが大仏造立だった。仏教の力によって平穏な社会を取り戻そうとしたのだ。
「聖武天皇は『一枝の草、一握りの土でも持ち寄って造立に協力したいという人がいれば、共に造ろう』と呼びかけました。苦難を乗り越えるには、国民の心を一つにすることが肝心だと考えたからです。当時の人口のおよそ半数にあたる260万人が10年近くを費やしたこの大事業に関わったと言います。各地に池を掘り、橋を架けるなどの社会事業を行い、厚い信頼を得ていた行基が民衆の力を結束させる役割を担いました。だからこそ大仏さまは国全体の平穏を祈るための象徴になり得たのだと思います」
アジアを視野に入れた巨大プロジェクト
開眼供養には聖武太上天皇(上皇)と光明皇太后をはじめ、僧侶や役人ら1万人以上が参列、大仏と大仏殿の完成を盛大に祝った。開眼法要で大仏に目を入れたのは、インド出身の高僧・菩提僊那(ぼだいせんな、704〜760)だった。
「開眼師を仏教発祥の地であるインドから招いたことには、宗教的な意味に加え、政治的な意味もありました。当時、インド、中国、朝鮮を含め、仏教というのはその国の文化の在り方を測る、国際基準の1つとなっていました。現代で言えば、民主主義がその国に根付いているかどうかでその国の在り方が判断されるように、仏教が定着した国というのは対外的に豊かな国情を示す大きな要素でした。大仏さまは国を導き、護(まも)る象徴というだけでなく、アジア諸国に日本の文化力や技術力を誇示するための重要な外交的主張でした。『日本書紀』によれば、552(欽明13)年に百済の王の使者が仏像と経典を献上したとあります。その年から200年後に当たる752年に大仏開眼という一大法会を催したのもそのためです。全国に国分寺・国分尼寺も建ち、わずか200年で日本は中国に引けを取らない仏教国になったと伝えたかったのだと思います」
復興事業にも民衆が参加
約400年後の1180年、源氏と平氏の戦いに巻き込まれて大仏が傷つき、大仏殿が焼け落ちた。しかし仏の教えに忠実だった鎌倉時代の人々は重源(1121〜1206)を中心に朝廷や武士、そして多くの民衆も協力して大仏を修復し、大仏殿を再建した。ところが1567年、戦国大名の戦闘に巻き込まれて再び大仏殿が炎上、大仏も頭部や腕が落ち、上半身は熱で溶け落ちてしまった。そして100年以上も雨ざらしにされたままになる。江戸時代になって、そんな大仏の姿に心を痛めた公慶(1648〜1705)が再興のために立ち上がった。
「2度の復興事業においても、多くの人々が自ら願い出て大仏さまの修理と大仏殿の復興に参加したと言います。戦乱などで大仏さまが傷つくことはあっても、それはやむを得ない。傷ついた大仏さまを再興することもまた功徳になると多くの人々が信じたのです。鎌倉時代に再建された大仏殿は天平時代とほぼ同じ規模です。江戸時代に再建された現在の大仏殿は、当時の資材・資金不足のために正面の間口が11間(約88メートル)から7間(約57メートル)に縮小されましたが、1300年前の人々の思いは21世紀にも受け継がれていると言っていいでしょう。聖武天皇はこうした功徳を廻(めぐ)らし続けていくことが『万代の福業(ばんだいのふくごう=未来永劫に福を生み続ける行い)』につながっていくと言っておられます。その遺志を引き継いだ多くの人々が各時代にいたからこそ、私たちは今、大仏さまを拝むことができるのです」
仏像を通して自己と向き合う
東大寺は大仏の他にも不空羂索(ふくうけんさく)観音像をはじめとする国宝仏24体を所蔵し、1998年には「古都奈良の文化財」の一部として国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界遺産に登録された。
「仏教では、お釈迦さま以降の時代を正法(しょうぼう)、像法(ぞうぼう)、末法(まっぽう)という3つの期間に区切ることがあります。正法とは、お釈迦(しゃか)さまが入滅してからの1000年間(500年間という説も)を指し、教えと修行の証しとして悟りを得た生身の仏が現れ得る時代です。像法とは正法の次の1000年間(500年間という説も)で、教えと修行は存在しますが、その結果として悟りを得た仏が現れない時代です。末法とは像法の後の時代で、仏法の教えは生きていますが、修行さえもなかなか困難な時代。日本では1052(永承7)年から末法に入ると考えられていたそうです。
聖武天皇の治世は像法の時代になります。この時代には、お釈迦さまや悟りを得た生身の仏がおられないので、仏舎利(ぶっしゃり=釈迦の骨)を供養することが功徳とされました。そこで塔を建てて仏舎利を納め、お釈迦さまをしのび、瞑想(めいそう)したり、修行したりする。寺院にはそのような歴史もあります。聖武天皇は、『大仏造立の詔』を出された年に『像法の中興は実(まこと)に今日にあり』と述べておられます。このお言葉は、聖武天皇が七重の塔も含む国分寺を整えたり、大仏さまをお造りになられたりされた背景につながっているのではないかと思います。
像法の「像」には、「似せる」とか「姿」の意味があります。仏や菩薩のお姿に似せて、修行の縁(よすが)とするために仏像も作られます。創建以来の多くの仏像を私たちはお守りしてきたのですが、2つのことを大切にしています。1つは、文化財としての保存・修復です。漆を塗り替えたり、劣化した部材を直したりしてメンテナンスをしてきました。もう1つは、人と仏像の関係性を保っていくことです。仏像は単なる彫刻品ではなく、そこには信仰心や慈悲などの仏教の教えが介在します。それは古代から繰り返されてきた祈りの心で、生活の一部でもありました。しかし、ライフスタイルの変化によって現代人はこうした祈りの心を持ち続けるのが難しくなりつつあります。古代の人々のようにはいかないかもしれませんが、仏像に向き合った時だけでも穏やかな心で手を合わせ、御仏(みほとけ)の慈悲の心を実感していただきたいです」
言葉を超えた世界との出会い
橋村さんは13歳で得度したが、大学時代は僧侶として生きることに迷いがあったという。転機となったのは、世界的な仏教指導者である禅僧ティク・ナット・ハン(1926〜2022)が著した英語の仏教書に出会ったことだった。ハン師はベトナムに生まれ、非暴力でベトナム戦争の反対運動を展開したが、政府との軋轢(あつれき)によりフランスへの亡命を余儀なくされた。その後、フランスや米国で布教活動に取り組み、瞑想やマインドフルネスに関する書籍を100冊以上も執筆。欧米社会で仏教徒以外にも大きな影響を与えた。
「説いている内容は同じなのでしょうが、日本語で書かれた仏教書とはだいぶ異なった印象を覚えました。日本の仏教を外側から捉えることができて、当時の私にとって目から鱗(うろこ)が落ちるようでした。瞑想にも興味を持つようになり、言葉を超えた世界が仏教にあることを教えられました」
国際色豊かな21世紀の大仏殿
橋村さんが別当に就任した2022年は新型コロナウイルス感染症の拡大期で、境内に参拝客がほとんどいなくなってしまった。東大寺がこれほど閑散とした時代はかつてなかっただろう。しかし翌年、パンデミックが収束に向かうと、大仏殿は世界中から訪れた参拝客でにぎわうようになった。
「オーバーツーリズムを心配する声もありますが、少なくとも境内を見ていると、さまざまな言語が行き交う国際色豊かな現在の景色は実に素晴らしい。宗教の異なる人々が往来していますが、平穏そのものです。一方で世界には宗教がらみで戦争が起きることが多い。ひとたび感情がもつれてしまうとどんどん憎悪が膨らんでいきます。お釈迦さまは戦争を起こす人間の心について『法句経』でこう説かれておられます。
実にこの世においては、怨(うら)みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息(や)むことがない。怨みを捨ててこそ息む。これは永遠の真理である。
このお言葉は、一族の多くが虐殺されたお釈迦さまご自身の経験から導き出されたものです。怨みを捨てない限り、怨みの連鎖を断ち切ることはできません。世界中の戦争は、欲望と不安から生み出された怨みがぶつかり合う憎悪の心が引き起こしています。
仏教では自分だけでなく、他者の幸せを願う慈悲の心を重視しています。仏教徒もそうでない方も、大仏さまに向かい合うことを通して、少しでも他者を思いやる気持ちになっていただければ、こんなうれしいことはありません。自分が信じる宗教以外についても知り、世界には多様な宗教があると分かれば、信仰のいかんにかかわらず、他者を理解するヒントになると思います」
インタビュー・文:近藤久嗣(nippon.com編集部)
撮影:六田春彦
バナー写真:東大寺大仏殿で