パラリンピックの魅力で社会変革:パリ大会選手団長・田口亜希さん 東京からパリへ障がい者の思い 

スポーツ 社会 東京2020

28日に開幕するパリ・パラリンピック。日本代表選手団の団長を務めるのは、ライフル射撃でアテネ、北京、ロンドンと3大会連続でパラリンピックに出場した田口亜希さんだ。東京から引き継がれる大会を前に「無限の可能性を体現するアスリートの魅力を通して、社会変革を生み出していきたい」と語る。

田口 亜希 TAGUCHI Aki

1971年、大阪市生まれ。日本パラリンピック委員会運営委員、日本オリンピック委員会理事、日本ライフル射撃協会理事、日本財団パラスポーツサポートセンター 競技団体支援部ディレクター。2024年3月にパリパラリンピック日本選手団団長に就任。 大卒後、郵船クルーズの客船パーサーに。25歳で脊髄の血管の病気を発症し、車いす生活に。友人の誘いでビームライフルを始め、その後ライフル射撃に転向した。パラリンピックは04年のアテネ大会から3大会連続で出場し、アテネと北京では入賞。

メダル目標は最多52個超 「挑め、自分史上最強。」

─パリ大会は、海外開催の夏季大会としては史上最多の選手数となる見通しですね。目標を教えてください。

目標は夏季大会で最多記録のアテネのメダル52個を上回る成績です。日本選手団のスローガンは「挑め、自分史上最強。」。選手それぞれの思いをこの言葉に込め、持っている力を最大限に発揮しよう、という意味を込めています。メダルを目指す選手の気持ちを喚起しつつ、成績だけでない選手の振る舞いなどを含めて意識を高める言葉にしていきたいと思っています。

パリ・パラリンピックの結団式でスローガンを掲げ、活躍を誓う選手団。中央が田口亜希さん=8月16日、東京都千代田区のホテルで(松本創一撮影)
パリ・パラリンピックの結団式でスローガンを掲げ、活躍を誓う選手団。中央が田口さん=7月16日、東京都千代田区のホテルで(松本創一撮影)

─選考会などを積極的に視察してきました。強化の成果は。

ベテラン勢はもちろん、若手や女子の選手も増え、競技力は向上しています。

東京大会の前からジャパン・ライジングスター(J-STAR)を実施しています。日本パラスポーツ協会が日本スポーツ振興センターから委託を受けた事業で、基礎測定やトレーニングを通し有望選手を発掘してきました。パリ大会では、 J-STARを経た水泳の木下あいら選手やボッチャの一戸彩音選手など8人が代表入りしています。

障がい者は身体的な特徴などと競技の特性が合っているかどうかの判断が難しいので、才能発掘は効果があります。私は25歳で車いすユーザーになるまでスポーツ経験が無く、たまたまライフル射撃の競技が適合しました。ただ、やりたい競技が身体的特徴と合致しているとは限らないので、マッチングは強化に重要です。

異なる競技の練習を取り入れるクロストレーニングも実施し、適性を見極めたり、効果的な練習方法を考え出したりしています。

ロンドン大会直前にライフル射撃の練習に励む田口亜希さん=2012年7月(本人提供)
ロンドン大会直前にライフル射撃の練習に励む田口さん=2012年7月(本人提供)

五輪とパラ、共に進む取り組み

─東京大会を経て、日本のパラスポーツの環境は変化したのだろうか。

日本の環境という観点では、2013年に東京大会の開催が決まり、関係官庁が厚生労働省から文部科学省傘下のスポーツ庁に移りました。そして19年には東京都北区の「ナショナルトレーニングセンター(NTC)」に五輪と共用の「屋内トレーニングセンター・イースト」が完成しました。 段差がないバリアフリーの設計が特徴で、車いすラグビーやボッチャなど、パラ競技の選手が優先的に使える共用コートも備えています。

パラリンピック経験者や選手を雇用する企業も増え、東京大会を見た障がい者が何人も「競技に挑戦したい」と手を挙げました。東京大会があったからこその変化です。

東京五輪・パラリンピックの準備段階で、組織委員会のアスリート委員会にはオリンピアンとパラリンピアン複数名が参加しました。パラアスリートから、選手村や会場は五輪終了後にパラリンピック用にスロープをつけたりするのではなく、初めからパラリンピアンが使えるように設計し、大会後もユニバーサルな施設にしてほしいと提案したところ、オリンピアンもパラリンピアンに合わせて作れば誰もが使えると後押ししてくれ、それが採用されました。

東京五輪、パラリンピックをPRした2018年のイベント。中央手前は田口亜希さん。奥左から大林素子さん、バドミントンの藤井瑞希選手、EXILEのUSAさん、TETSUYAさん、陸上とスノーボードで夏冬のパラリンピックに出場した山本篤選手ら=東京都新宿区(時事)
東京五輪、パラリンピックをPRした2018年のイベント。中央手前が田口さん。奥左から大林素子さん、バドミントンの藤井瑞希選手、EXILEのUSAさん、TETSUYAさん、陸上とスノーボードで夏冬のパラリンピックに出場した山本篤選手ら=東京都新宿区(時事)

東京大会の招致活動でも関係者が自主的に協力した例がありました。2016年大会を招致していた09年のころ、五輪は文科省、パラリンピックは厚労省が管轄し、選手同士もコミュニケーションは少なかったのです。最終プレゼンでリオに敗北した後、現スポーツ庁長官の室伏広治さんらオリンピアンの方々が、私たちに「今は一つの団体として活動することはできない。でもアスリート同士はいろんな活動を一緒にできる。一緒に盛り上げていこう」と声を掛けてくれました。

その後は、日本オリンピック委員会(JOC)のアスリート委員会などにもパラリンピアンが参加できるようになり、オリ・パラの一体感が創出され、東京大会の招致成功につながったと思います。招致活動も4年間で大きく変わりました。

2013年の国際オリンピック委員会(IOC)評価委員会へのプレゼンテーション終了後、記者の質問に答える太田雄貴選手(中央右)と田口亜希さん(中央左)=東京都中央区(時事)
2013年の国際オリンピック委員会(IOC)評価委員会へのプレゼンテーション終了後、記者の質問に答える太田雄貴選手(中央右)と田口さん(中央左)=東京都中央区(時事)

─東京大会は、パラリンピックと五輪の垣根が取り払われていくという変化があった、と受け止めて良いでしょうか。

東京大会に向けた行動一つ一つから、インクルーシブな環境が生まれていきました。

今、障がい者の課題解決に関するさまざまな協議の場に、障がい者団体の方などが入るのが普通になっています。従来のように健常者が自分たちの目線で「障がいのある人たちにこういう施設は必要だ」などとおもんぱかってくれるのはうれしいのですが、私たちは当事者の意見を聞かなければ、結果が無駄になってしまうかもしれないと感じます。障がい者と健常者が別々に話し合うのではなく、一緒になってプランをまとめていくことは意義のあることなのです。

インタビューに答えるパリ・パラリンピック日本選手団団長の田口亜希さん。「パラリンピアンとオリンピアンの垣根が少なくなったことも東京大会の成果」(川本聖哉撮影)
インタビューに答える田口さん。「パラリンピアンとオリンピアンの垣根が少なくなったことも東京大会の成果」(川本聖哉撮影)

パラリンピック経て変化した日本

─東京大会のレガシーとは何でしょうか。

東京大会は新型コロナウイルスが拡大する中で開催できたこと自体が成果です。それは日本だからこそ、可能だったことだと思います。私は大会招致、聖火リレーのアンバサダー、選手村副村長を務めました。期間中に各国の選手や関係者たちが日本への感謝を口にしていました。

そして、障がいのある人たちに対する日本社会の空気感や、雰囲気が少しずつ変わっていったことが挙げられます。

以前は、街の人たちが私たち障がいのある人に出会うと、少し遠巻きで、「大丈夫かしら?」と見守っている感じでした。今は車いすユーザーである私がその場にいても、それが普通で違和感もないという感じになり、声をかけられることも増えました。障がい者用のトイレや車いす用スロープが一般的になり、障がい者が街の中に出ていく場面が増えました。そして、パラスポーツの中継やテレビCMなどメディアでもパラアスリートを見る機会も多くなり、結果として障がい者を見慣れてきたことが大きいと思います。共生社会という言葉も浸透してきました。

私が病気で車いすに乗るようになった25年以上前は、周りには障がいのある人を見かけることが珍しかったし、障がい者は街に気軽に出られる状況ではありませんでした。私も、健常者の友達と一緒に行動するとトイレなどさまざまな面で迷惑をかけるのではという意識がありました。でも今は、街に出ても何とか乗り越える選択肢はあるだろうと思えるようになり、誰とでも一緒に出掛けやすくなったという変化があります。

東京パラリンピック開会式でともされた聖火=2021年8月24日、東京・国立競技場(時事)
東京パラリンピック開会式でともされた聖火=2021年8月24日、東京・国立競技場(時事)

小さな変革重ね、国全体に波及を

─長くパラリンピックに関わって、中長期的な大会の変化をどう感じていますか。パリに伝えたい東京大会の経験はどんなものでしょうか。

パラリンピックは少しずつステップアップし、変革が進んでいます。新聞報道を見ても、私が初出場したアテネ大会は、五輪はスポーツ面なのに、パラリンピックは社会面で福祉色が強い記事が多かったと記憶しています。今は競技性が高まり、パラリンピックも多くの結果がスポーツ面に載るようになりました。

一例ですがメダルも少しずつ進化しています。リオでは視覚障がいのある選手のためにメダル内に小さな金属の球が入っていて、メダルの色ごとに異なる音が鳴る工夫がしてあったが、東京大会は側面のくぼみの数を手て触れればメダルを区別できるようにしました。パリ大会は、縁に金は1本、銀は2本、銅3本のダッシュ記号を刻んでいます。

リオ大会を現地視察した時、車いす用の観客席の一部で目線の位置に柵があり競技が見えにくかったことに気が付きました。数センチ床や柵の高さを変えてくれればと思い、東京大会の組織委員会に「もう少し工夫しませんか」と話しました。

パリの関係者、パラアスリートも東京大会を見て、「ここは改善できる」と持ち帰り、向上させているはずです。そこで得たユニバーサルデザインや障がい者の利便性を高めるテクノロジーなどを国全体に浸透させ、一歩一歩、社会がより良くなっていけば良いと考えています。

それが東京からパリに伝えられることなのだと思うし、パリがどう試行錯誤をして大会をつくっているのか、現地で楽しみたいと考えています。

日本の選手にリラックスした環境づくり

─団長として、パリで実践したいと考えていることを教えてください。

7月16日の日本選手団の結団式では「練習の成果を最大限に発揮し、パラアスリートの無限の可能性と、パラリンピックの価値を体現してくれることを期待している」と呼びかけました。

大会間近になると、選手たちはプレッシャーや緊張を強く感じるようになります。私自身は最後に出場したロンドン大会の時にメダルを意識しすぎて大変な重圧を感じました。ただ、選手の中で誰よりも練習してきたのだという思いを繰り返し意識し、強い気持ちと自信を胸に出場したのです。

パリ・パラリンピック日本代表選手団の結団式でポーズを取る日本代表選手団。左から、副団長の中沢吉裕さん、競泳の西田杏選手、団長の田口亜希さん、陸上の石山大輝選手、副団長の井田朋宏さん(松本創一撮影)
パリ・パラリンピックの結団式でポーズを取る日本代表選手団。左から、副団長の中沢吉裕さん、競泳の西田杏選手、団長の田口さん、陸上の石山大輝選手、副団長の井田朋宏さん(松本創一撮影)

緊張を味方にできる人と、そうでない人がいます。プレッシャーが強い時には他の人と一緒にいたい人と、一人で集中したい人がいるように、競技前のリラックスの仕方は人それぞれ。選手に合った環境を、選手村でどう作るのかが大切です。団長として選手やスタッフの皆さんとコミュニケーションを深め、気軽に声を掛け合える雰囲気をつくり、少しでも選手の緊張感をやわらげたいと考えています。

「選手がリラックスできる環境をつくりたい」と語るパリ・パラリンピック日本選手団団長の田口亜希さん(川本聖哉撮影)
「選手がリラックスできる環境をつくりたい」と語る田口さん(川本聖哉撮影)

見て、応援して、楽しんで

─一般のファンも、パラアスリートの皆さんがパリで輝く姿を楽しみにしています。

日本の皆さんにたくさんパリに来て応援していただきたいですね(笑)。でも難しい人も多いと思うので、テレビ、ネット、新聞などいろいろなメディアで見て応援してもらえると、選手たちも奮い立つと思います。

前職の同僚が、リオ大会の放送を見て、「世界にはこんなにもたくさんの障がいのある人たちがいて、いろいろな障がいの種類あることも分かった。障がいがあることをポジティブに変えて競技に生かしている選手を見たのはすごく楽しかった」と言ってくれました。パラリンピックを見てたくさんの方々が、このような点に気づいてほしいです。

そして障がいのある人たちがどこでもやりたいことがやるようになれて、いろいろな人たちと対話できる社会を築いていけたら良いな、と思います。

バナー写真:「パラリンピックの選手の活躍を通して、社会変革を生み出したい」と語るパリ・パラリンピック日本選手団長の田口さん(川本聖哉撮影)

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