近代化を成し遂げた志士に学べ:エジプトの“知の巨人”イサム・ハムザが語る日本論
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エジプト人は東洋人
イサム・ハムザ氏は、アラブ世界で日本語教育・日本研究の中心的な役割を担うカイロ大学日本語日本文学科の第1期生だ。
1973年10月、第4次中東戦争が勃発。いわゆる第1次石油ショックは、エネルギーの大半を輸入に頼る日本には大打撃となった。田中角栄首相は三木武夫副首相を政府特使として中東諸国に派遣、アラブ支持の姿勢を伝えるとともに、経済文化援助を約束した。日本語日本文学科は、こうした経緯で74年9月にカイロ大学文学部に開設された。“油乞い外交”と揶揄(やゆ)されたが、日本から著名なイスラム学者の黒田壽朗(2018年没)やアラブ文学者の池田修、歴史学者の山内昌之ら錚々(そうそう)たる教授陣が派遣さたため質の高い学生が集まり、ハムザ氏をはじめ多くの日本研究者を輩出している。
「第4次中東戦争によるナショナリズムの高まりで、エジプトはエジプト人の手で立て直そうとする機運が高まっていました。エジプト人は、自分たちのことを東洋人だと思っています。でも、東洋のことは何も知らない。東洋の国なのに、頼みもしないのに西洋の文化がどんどん入ってきて、西洋化が進んでいました。こうした現状を見直すべきではないか。そのためにも東洋に学ぶべきだと。東洋の国では日本が唯一近代化に成功し、西欧諸国に伍(ご)していることを知っていましたから、日本語日本文学科ができて“渡りに船”だと思いました」
「近代化」は現代にも通じるテーマ
カイロ大学卒業後は13年間日本に留学、大阪大学大学院で日本思想史を専攻し、1991年に論文「近代日本への新国家構想」で文学博士号を取得した。この論考は、本居宣長から平田篤胤に連なる国学の流れを踏まえ、水戸学の支柱である藤田東湖や会沢正志斎など勤皇の志士の思想が格調高い日本語でつづられた力作だ。
「“実学”を唱えた横井小楠(よこい・しょうなん)をはじめ、幕末・維新期の思想の継承者は、当時日本が置かれた立場を冷静に分析して、進んだ西洋文明を採り入れていきました。その過程で、adaptation(適応)が実に上手でした。例えば福沢諭吉。洋行体験をもとに『西洋事情』を執筆し、西洋文化の優れた点を挙げていますが、儒学の精神を踏まえた上で紹介しています。伝統的なものを温存しつつ、先進的な文化に適応し、日本独自のスタイルに変えていく。フランスで近代化の必要を痛感した渋沢栄一にしてもそうです。論語と資本主義を組み合わせるなんて、すごい発想ですよ」
欧米に学ぶという点で、岩倉使節団は画期的だったとハムザ氏は言う。岩倉具視を大使とする使節団は、1871(明治4)年に横浜港を出帆して、2年後に帰国。木戸孝允、大久保利通、伊藤博文など明治維新の立役者や新政府の秀英をそろえ、「この国のかたち」を求めて総勢107人が参加した。訪問した国は、英米仏など12カ国。帰路はエジプトのスエズ運河を経由し、シンガポール、サイゴン(現・ホーチミン)、香港、上海に寄港し、欧米列強に侵食されつつあるアジア諸国の惨状にも触れることができた。
「極東の小さな島国が革命政府の次世代を担う若者を組織して、西洋文明探索の旅に出掛けました。彼らがすごかったのは、日本が欧米に追いつくには少なくとも30年はかかると考えていたことです。どんなことを吸収していけば近代化を達成できるかを長期的に捉えながら、欧米社会をつぶさに観察しました。それでいて完全に感化されるのではなく、実利を選び取っていった。こうした思想を、私は“pragmatic nationalism(プラグマティック・ナショナリズム)”と呼びたい。近代化=西洋化ではなく、近代化=西洋化・日本化といったシナリオをこの時に描いていました」
日本おける近代化は明治維新(1867年)以降に本格的に始まるが、エジプトではオスマン帝国の傭兵隊長として派遣され1805年にエジプト総督に任命されたムハンマド・アリーによって近代化への道が開かれた。しかし近代化政策を継続しようとした孫のイスマーイール・パシャが海外から多額の借金をした結果、財政破綻して英仏の債権管理下に置かれることになる。どうして日本が近代化に成功し、エジプトは失敗したのか。150年以上も前の出来事である「近代化」に関しては既にさまざまな研究が行われており、時代遅れのテーマだと思われかちだが、決してそうではないとハムザ氏は言う。
「非西欧社会にとって、いかに西洋と向き合うかは今でも重要な課題であり、この一点だけでも、当時の日本に学ぶべきことはたくさんあります。自分たちの伝統・文化を根こそぎ捨ててしまうのではなく、優れた点だけを採り入れいく。日本の近代化政策は、全てのピアノのキーをたたこうとするのではなく、必要なキーだけを選んで演奏していくことに似ています」
ハムザ氏は、明治新政府のメンバーがこうした思想を形成し得たのには、江戸時代の教育が果たした役割が大きいと指摘する。武士の子弟は、全国に300校近くあった各藩の運営する藩校で学んだ。そこでは教養を高め人格を養うためのプログラムが組まれ、高度なエリート教育が行われていた。こうした優れた道徳教育によって志の高い人材が数多く輩出され、彼らが明治新政府を牽引(けんいん)していく。物事をきちんと考えることができる有為な人材を育成することが重要なのはいつの時代も変わらない。
日本社会のバックボーンとなる思想
2007年、ハムザ氏はカイロ大学文学部の日本語日本文学科長に就任。同副学部長やカタール大学日本語・日本文学部長などを経て、18年よりアレクサンドリア郊外のボルグ・エル・アラブにある「エジプト日本科学技術大学(E-JUST)」のリベラルアーツ・カルチャーセンター長を務めている。E-JUSTは、日本政府が支援して10年に開校した工学系大学で、東京工業大、九州大、早稲田大など13大学から講師が派遣されている。アフリカ諸国からも数多くの留学生を受け入れ、現在では中東・アフリカ圏の教育・研究拠点となっている。大学院では英語での少人数制授業が基本だが、学部の学生には日本語の授業を義務付けている。ハムザ教授の「日本学」も必修科目だ。
「日本学では、日本の技術・産業を支える思想、政治、経済、行政制度を幅広く研究し、日本がどのような国かを総合的に探ります。重視するのは、日本社会のバックボーンとなる精神性です。エジプトのエリート層は汗を流して働くことを嫌いますが、日本人は違う。なぜそうなのか。そこには日本人の勤労精神があるからです。私は日本学を通して、中東・アフリカ圏の学生にそうした思想をも伝えていきたいのです」
低下する日本のプレゼンス
エジプトの人口は1億を超え、そのうち6割が若者だ。中東諸国全体の人口が約6億だから、6人に1人はエジプト人ということになる。さらに多数のエジプト人が中東圏で教師として働き、教育面でも多大な影響力を持っている。
「エジプトを“知の拠点”にして、日本の現在・過去・未来を中東・アフリカ圏に伝えていくのが私の使命だと思っています。だから、一人でも多くの学生に日本に興味を持ってほしい。アニメや漫画から日本に関心を抱く学生が多いですが、日本の魅力はそれだけにとどまりません。古典文学、工業製品、温泉、和食など他にもたくさんあります。しかし、それがうまく伝わっていません」
宣伝下手に関して日本人は無自覚すぎるとハムザ氏は不満げだ。
「中国人は基本的に商売人ですから、自分たちの商品がいかに魅力的なのかを伝えることにたけています。中国中央テレビ(CCTV)の海外放送は、テーマの選び方から映像のクオリティー、キャスティングまでとてもよく考えられています。それに比べてNHKワールドは情けない。英語で放映しているのに、海外で暮らす日本人向けのような内容です。海外発信に無頓着なスタッフが制作しているとしか思えません。CCTVをもっと研究すべきです」
現在、世界で約400万人が日本語を学んでいる。アジア諸国が8割を占め、中東・アフリカ諸国は1%にも満たない。日本語学習者は年々減っており、先細りの感を否めない。
「中国は世界中に550カ所以上の孔子学院を設立し、海外での中国語教育に力を入れています。このままでは日本語よりも中国語を学ぼうとする若者が増えてくるのは止むを得ないでしょう。また、日本研究に関して、最近では英語で書かれた文献をもとに論文をまとめる研究者が増えています。インターネットの時代になってこうした傾向は高まっていますが、私としてはやはり日本語文献に当たってほしいと思っています。
なぜ日本研究が重要なのか。それは私が日本を愛するからではありません。さまざまな価値観があってこそ、世界はより豊かになると信じるからです。特定の国の価値観だけが支配する世界は、あまり好ましいものではありません。世界は多様な価値観によって成り立っています。近代化を成功させたサムライたちが戦略を持って世界に扉を開いていったように、日本は国際社会に対して積極的にコミットしていくべきです。それは閉塞した日本社会に風穴を開けるためにも必要なことではないでしょうか」
編集:近藤久嗣(nippon.com編集部)
撮影:モハマド・オサム
バナー写真:カイロ市内の「Café Riche」で