
すばる望遠鏡との30年:天文学者・林左絵子「宇宙の果てを知りたくて」
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2019年9月、観測史上最も遠く離れた最も古い銀河の集まりが見つかった。130億光年かなたにある12の銀河からなる「原始銀河団」の発見には、米ハワイ島にある「すばる望遠鏡」などの望遠鏡が大きな役割を果たした。宇宙年齢が8億年の時代の初期宇宙を知るための「重要な発見」だと報じられている。
宇宙の果てを見てみたい——この夢を実現するために、天文学関係者たちは性能の優れた望遠鏡を開発してきた。ハワイ島マウナケア山(標高4205メートル)山頂付近には、世界各国の天文機関が設置した13基の望遠鏡がある。1999年1月から観測を始めた国立天文台ハワイ観測所のすばる望遠鏡はその一つ。主反射鏡(主鏡)の口径8.2メートルは世界最大級だ。運用20周年にあたる今日まで、宇宙の謎の解明につながる数多くの重要な発見をしてきた。
親に黙って東大を受験
林左絵子さんはすばる望遠鏡の設計段階から関わってきた天文学者だ。理工系に進む女子が極めて少なかった時代に、自ら進路を切り開いてきた女性天文学者の草分けといえる。
「今でも理工系に進む女子学生は決して多くないでしょうが、私が高校生だった頃はかなり珍しい方でした」と林さんは言う。
戦後日本の高度経済成長期に生まれ育った林さんが小学生の時に、強烈な印象を受けた出来事があった——1969年「アポロ11号」の月面着陸だ。「その時の、『人間は力を合わせるとあんなことができるようになるんだよ』という先生の言葉が胸に焼き付いています」
国立天文台(東京・三鷹)の展示室にある「すばる望遠鏡」の模型前で
中学、高校では吹奏楽部の活動に明け暮れる一方で、本を読むことも大好きだった。「中学校では、図書室の本を手あたり次第に読みました。まだインターネットがなかった時代なので、他の世界のことを知る手段は本しかありませんでした。中でも、(米SF作家)アイザック・アシモフが書いた物理、科学の解説書シリーズがすごく面白かった」
大学進学を考える時期になると、理工系に進もうと心に決めた。「通っていた高校は男子生徒が8割で、先生は女子を放っておいてくれたから楽でしたね。男子はいい大学、いい会社に就職するために必死になるけれど、当時の女子は幼稚園の先生か看護師になるというのが主な職業の選択肢でした。私は地球物理の勉強をしたいと思っていた。でも、親は女子に高等教育はいらないと反対していました。嫁にいけなくなると心配して…」と笑う。「ただ都合のいいことに、高校の時には親と住んでいなかった。当時は父親の転勤に家族が同伴するのが普通でしたが、私はついて行かなかったんです。だから、親に黙って願書を出しました」
そして東京大学理学部に入学。「でも、職業につながるとは思いませんでしたね。ロールモデルが周りにいないから、将来のことは具体的に考えられなかったんです」
「たった一人の日本人」としてマウナケア山へ
1987年東京大学大学院を修了し、同年マウナケアの天文台で働くただ一人の日本人となった。赴任したのは当時英国、オランダ、カナダが共同運用する電波望遠鏡(後述)「JCMT (=James Clerk Maxwell Telescope )」だった。「1990年までそこで働きました。別に英語が得意だったわけではなく、日本に職がなかったので…」
大学院時代、長野県の東京天文台(現・野辺山観測所)で電波望遠鏡の性能を最大限に引き出すための作業を経験したことが、JCMTの調整・整備の仕事に大きく役立った。2015年3月からJCMT は「東アジア天文台」に引き継がれ、日本・韓国・台湾・中国が共同運営をしている。
当時すでに結婚していて夫も天文学者だったが、林さんは単身赴任をためらわなかった。「天文学者の就職先は多くありませんから、単身赴任になることは最初からお互いに想定していました。でも海外で仕事をして本当によかった。一歩日本の外に出ると、女性だろうとアジア人だろうと関係なく、とてもフェアです。成果を上げれば認めてくれる。当時は1日16時間ぐらい仕事をしました。昼には山の上で整備をして、いったん山の途中、高度3000メートルの宿舎に戻って食事を取り、夜その成果を確かめるためにもう一度山の上に行って観測を行う。どういう性能が出るか、望遠鏡の限界を極めたいという思いに突き動かされていました」
1990年、国立天文台は助手1名を公募した。すばる望遠鏡のプロジェクトに予算が付く見通しが立ったためだ。林さんは応募して採用され、設計段階から関わることになった。「91年度の本予算に組み込まれて、主鏡の材料作りが始まりました」
口径8メートルの1枚鏡
当時、世界の光学望遠鏡は口径4メートルが主流だった。「日本にはそれまで口径188センチメートルの望遠鏡しかなかった。それがいきなり8メートル級を作るというので、本当にできるのかという懐疑的な声もありました」と林さんは振り返る。
「主鏡を1枚で造るのか、あるいは分割して後で組み合わせて作るのか、という問題もありました。ある大きさ以上になるとどちらも難しい。分割鏡は並べた後に隣との段差がないようにするのが大変。すばるのような1枚鏡は、造るのも運ぶのも大変ですが、いったん設置してしまえば、あとは比較的楽です」
すばるの主鏡は、熱膨張率がほとんどない特殊なガラス材を米コーニング社に発注して同社のカントン工場(ニューヨーク州)で製作され、コントラベス社のワンパン工場(ペンシルバニア州)に運ばれて研磨された。「当時、日本で造らなかったのは、日本の狭い道路では鏡が通れないからと冗談で言ったものです。でも、運搬の際は米国の広い道路の3車線全部を使っていましたから、本当に日本では難しかったでしょうね」。材料の溶かしこみから研磨完了までには8年の月日を要した。同時に広視野の主焦点カメラなどさまざまな観測機器も開発された。
1994年完成した主鏡鏡材を研磨のために輸送中の光景 ©国立天文台
2002年、すばる望遠鏡の前にたつ林左絵子さん。主鏡の検査は高所作業車に乗って操作するため、安全帯を付けている(提供:林左絵子)
1997年にハワイ観測所が開設され、林さんは98年に赴任した。すばる望遠鏡の主鏡が現地に着いたのが同年11月で、翌年1月には画像撮影の初観測に成功した。
「1987年の時とは違って、家族も一緒でした。最初は子ども一人でしたが、ハワイでもう一人生まれた。私の担当は、主鏡の性能調整、維持、向上です。連れ合い(林正彦氏)はマネジメント担当で、2006年から10年までハワイ観測所の所長を務めました」
「ハワイ観測所には常勤職員が約100人いて、そのうち研究者15人ぐらいでしょうか。エンジニアやメカニックの多くは地元の人たちです」
複雑な仕組みのすばる望遠鏡は、夜の観測が始まる前に調整をきちんとしなければならない。問題があれば、エンジニアたちとのチームワークで解決する。冬にはドーム屋上の雪かきや建物周辺の氷割りなど、体力的に大変な作業もある。風が強い時は吹き飛ばされそうになりながらも、降雪後できるだけ早く観測ができるように林さんも雪かきに励んだという。