“悪魔のおにぎり”を生んだ南極調理隊員・渡貫淳子:40代で極地を職場に選んだ訳

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板倉 君枝(ニッポンドットコム) 【Profile】

日本の南極観測が開始されて60年余り。過酷な環境での業務に赴く越冬隊員たちの中で女性はまだ少数派だ。一般公募の調理隊員として越冬隊に参加した渡貫淳子さんに、白い「非日常な世界」での日常生活について聞いた。

渡貫 淳子 WATANUKI Junko

調理師。1973年青森県八戸市生まれ。「エコール辻東京」を卒業後、同校の日本料理技術職員に。一般公募の調理隊員として2015年~17年南極で過ごす。帰還後、伊藤ハム株式会社商品開発部に勤務。19年1月平凡社から『南極ではたらく かあちゃん、調理隊員になる』刊行。

「悪魔のおにぎり」が与えた小さな幸せ

食事のメニューは日替わり1種類のみ。隊員の要望を聞いて夕食メニューを決めることもあった。「要望を聞いて困ったのは『サムゲタン』ですね。丸鶏はありましたが漢方食材が足りなかった。それでもなんとか調味料を混ぜ合わせてそれらしい料理を出すと、喜んで食べてくれました」

そのほか、日本の季節に合わせた“春のお花見”や6月の冬至を祝う「ミッドウインターフェスティバル」などで用意する「イベントご飯」もあった。帰国が近づいた頃には、南極恒例の「氷山流しそうめん」を実施。「唯一持ち帰ることが許されているのは氷です。みんなで氷山に行ってつるはしで規定量の氷を採取するんですが、その際に氷山で流しそうめんをします。お湯を詰めたポリタンク、ゆでたそうめん、めんつゆ、天ぷらを用意しました」

生ゴミを極力出さない努力が必須なので、夕飯の残りの食材で夜食用おにぎりもよく作った。天ぷらを作った時には天かすを活用。真夜中に食べるにはカロリーが高過ぎる、でもおいしいから食べたい―「このおにぎり、悪魔っすね」とある隊員が口走ったのが「悪魔のおにぎり」命名のきっかけだった。夜な夜な除雪作業にいそしんでいた彼にとって、このおにぎりを食べるのが「小さな幸せ」だったそうだ。

氷山流しそうめん(左)と悪魔のおにぎり
氷山流しそうめん(左)と天ぷらを作った際の天かすを活用した「悪魔のおにぎり」

心残りは、南極域に生息する深海魚「ライギョダマシ」を調理できなかったこと。渡貫さんら「漁協係」の隊員たちは、ドリルで氷に穴を開けて「釣り」を楽しむことがあった。「穴を開け始めると4メートル掘っても海に届かないことも。そんな時はみんなで笑いながら、今日はダメだと諦めます」。本来の目的は、釣った魚を国内の専門家に生体サンプルとして持ち帰ることだが、たくさん釣れたときは調理できる。「ライギョダマシをさばいて食べるのが夢だったのですが、釣れたのが体長150センチぐらいの大物だけだったので…」。包丁を入れることはかなわず、今では葛西臨海水族園に展示されている。

雪上車で白い世界を堪能

調理隊員ではあるが、料理ばかりが仕事ではない。夏には土木作業、冬には除雪作業に参加する。大型トラックの運転やフォークリフトの操作もした。

渡貫さんが一番楽しんだのは雪上車の運転だ。隊員たちは海氷上を移動して大陸上のさまざまな拠点で観測活動を行う。渡貫さんも雪上車で同行して野外観測拠点となる小屋や車内で調理したこともあった。

雪上車を運転中
雪上車を運転中

「もちろん、雪上車の運転は初めて。ハンドルは2本の棒状で操作は簡単ですが、大きな車体を動かすのはとても疲れます。曲がる時にはハンドルをすごく引かなければならないし。腕がパンパンになって、湿布を貼ったまま運転したこともありました」

昭和基地の東約20キロに位置する内陸調査の中継地点が「S16」で、数十台の雪上車やそり、燃料ドラム缶などが置かれている。渡貫さんも雪上車で何度かS16に向かった。「基地から片道4時間ぐらいかかります。ガソリンスタンドはないので、雪上車で燃料ドラム缶を引っ張りながら向かいました。燃料はS16はじめ各拠点に置いてあって、積み替えながら移動します」

雪上車の運転には神経も体力も使う。だが、「真っ白な世界を何時間も走行するだいご味は特別でした」と言う。

大人のケンカも無駄じゃない

一度「大ゲンカ」をしたことがある。基地到着から1カ月が過ぎた頃だ。白髪が目立つせいか「おじいちゃん」の愛称で呼ばれていた50代の隊員に、唐突に「越冬隊に調理隊員はいらない」と言われた。観測は天気や機器の状況に左右される。決められた食事時間より、観測を優先させたいというのがその理由だった。2時間口論し、悔しさに涙した。だが翌日顔を合わすなり、「ごめんなさい!」と頭を下げてくれた。

「歩いて20分くらいの観測所で仕事をしていた “おじいちゃん” は、それからはいつも食事時間の5分前には必ず基地に戻って来ました。絶対に食事の時間に遅れなかった。それは彼の誠意だと思いました」

その “おじいちゃん” は再び南極にいる。「年賀状をもらいました。1月1日昭和基地の消印がありますが、届いたのは4月中旬。南極からの郵便物は1年に1回しか届かないので」

“おじいちゃん” を含め、南極での1年を共有した30人の隊員たちは、「仕事の同僚以上、家族に近い関係」で結ばれている。「とても刺激的な1年でした。40歳を過ぎて、こんな風に自分が成長できたと感じられる経験はあまりないですね」

「しらせ」の接岸を待つ。船体の後ろに広がるのが南極大陸
「しらせ」の接岸を待つ。船体の後ろに広がるのが南極大陸

「南極廃人」という言葉があるそうだが、帰国後は不調が続いた。「体内時計のズレもありますが、モノがあふれて食品ロスの多い日常に違和感を抱いて…」。その違和感は消えないが、「この感覚を忘れたら、南極まで行った意味がないと思っています」と言う。

もう一度南極で働きたい。それが今の夢だ。「帰国直前、海氷上を雪上車で移動する機会がありました。白い世界で車を走らせるのはこれが最後だろうなと思ったら、どうしてももう一度、この景色を見るために戻りたいと…」。渡貫さんの挑戦はまだ続く。

取材・文=板倉 君枝(ニッポンドットコム編集部)

バナー写真:昭和基地看板のある「19広場」で。基地周辺では珍しく平らな場所。2016年7月撮影/南極の写真は全て渡貫淳子さん提供。

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出版社、新聞社勤務を経て、現在はニッポンドットコム編集部スタッフライター/エディター。

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