梯久美子が語る「私がノンフィクションを書く理由」
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第2次世界大戦で、日米の兵士が文字通り死闘を繰り広げた硫黄島。そこで2万人の兵を率いて日本軍の指揮を執った栗林忠道中将を、デビュー作『散るぞ悲しき』で描き、大宅壮一ノンフィクション賞を受賞したノンフィクション作家の梯久美子さん。栗林中将の生きざまは、クリント・イーストウッド監督の映画『硫黄島からの手紙』では俳優・渡辺謙さんが演じ、話題となった。その後の著書『狂うひと 「死の棘」の妻・島尾ミホ』では数々の賞に輝き、近著では原爆作家と呼ばれた原民喜の人生を追っている。日本を代表するノンフィクション作家、梯さんに尋ねる「ノンフィクションを書く」ということとは。そして平成が終わろうとする今、遠くへ去りゆく昭和は、彼女の目にどう見えているのだろうか。
亡くなっていても、知り合える
——梯さんが、ノンフィクションを書くモチベーションはなんでしょうか。
理解したい、という欲望でしょうか。知りたいことを深く知るための手段が、私にとってのノンフィクションを書くということ。私が書いているのは評伝というジャンルなので、書く対象は「ひと」。だからまずはシンプルに「好き」という気持ちから出発します。へえ、というエピソードがあったり、手紙や日記などのプライベートな文章に胸を打たれたり。あと、外見に惹かれるということもあります。島尾ミホさんの場合は、老境に入ってからの写真を見て、異様な美しさを感じたのがきっかけでした。もしかしたら恋愛と似ているかもしれませんね。好きになる相手が必ずしも人間としていい人とは限らないのも恋愛と同じです(笑)。
器用ではないし、頭もよくないので、自分の手で書いてみないと、その人のことが分からないんですね。取材にも執筆にも時間がかかって、特に執筆は、3行書いて5行消す、というようなペースで書いているので、遅々として進みませんが、そうやって苦しみながら文章にすることで、ようやく、その人のことが見えてくる。なぜその人のことを好きになり、書く必要があったのかも、少しずつですが、分かってきます。そうすると、相手がすでに亡くなっている人であっても、徐々に知り合っていく感じがある。この人とは知り合いになったな、と感じられたのは、栗林忠道と島尾ミホ、そして原民喜。いずれも、書くのに難渋した人です。
この人のことをもっと知りたいとスイッチが入るのは、それまでのイメージと異なる一面にぶつかった時ですね。栗林中将は、2万人の兵士を率いて戦史に残る闘いをした硫黄島の指揮官ですが、戦地から東京の家族に宛てた手紙では「お勝手の床板の隙間は塞(ふさ)げただろうか?」と心配し、対処法を言葉で指示するだけでなく、絵まで描いて伝えています。そういう所帯じみたところが意外でした。島尾ミホは、夫の島尾敏雄が書いた『死の棘』の影響もあり、狂うほど夫を愛した聖女というイメージを持たれていました。でも、生前にご本人とお話しした際に、「それって本当?」と思ったんです。女優さんのような、ちょっと芝居がかった感じの方なんですね。
——最新作の『原民喜』は、どこでスイッチが入ったのですか。
故郷の広島で被爆し、その経験を「夏の花」で書いた原民喜のこれまでのイメージは、「教科書に載っている原爆作家」。でもいろいろ調べてみると、いいところのお坊ちゃんで、旧制中学校時代の5年間、クラスメートが一人も彼の声をきいたことがなかったという極度の人見知りで、かつ引きこもり。生涯で得た友人は同人誌の仲間だけという、今でいう“コミュ障”です。そして、俳号を「杞憂」としたほど怖がりだった。それなのに、轢死という恐ろしい方法で自殺を遂げる。「なぜ?」という疑問からスタートしました。
ただ、構成には悩みました。生まれてから死ぬまでを時系列で追う方法もありましたが、散々悩んだ末、私が一番こだわっているこの「なぜ?」を読者と共有しようと決め、冒頭に自殺する場面を持ってきました。最期を描いた序章だけで、1カ月以上かかっています。
どの本もそうですが、書き出す前にいかに綿密に取材し構想を練っていても、文章にして初めて気が付くことが必ず出てきます。たぶん、その気付きがなければ、私にとって書く意味はないと思うんです。結論を決めてそこに向かって書いていくのではなく、今書いている一行が次の一行を連れてくることを信じて書いています。
被害者を描くだけが、戦争ではない。
——『狂うひと』の島尾ミホも、自分の住む奄美に特攻隊員として赴任してきた敏雄と出会い、恋に落ちます。栗林中将、島尾ミホ、そして原民喜と、これまで深く描かれた人々の多くは戦争と関係していますが、梯さんにとって、戦争とはなんですか。
最初から「戦争を書こう」と思ったわけではありません。デビュー作の『散るぞ悲しき』で、太平洋戦争末期の激戦地・硫黄島の指揮官だった栗林中将を書いたのですが、まずは栗林忠道という「ひと」を知り、惹かれた。彼を理解するために必要だったので、硫黄島戦について一から学んだという順番です。それまで戦史についての知識はほぼない状態でしたし、軍隊のシステムについても全く詳しくありませんでした。取材の過程で、幸運にも、それまで世に出ていなかった1次資料をいくつか発掘することになりましたが、それまで歴史資料を扱った経験も実はなかったんです。
——本に、捕虜になったとしても、「イオージマ・ソルジャー」であることが知れると、どの収容所でもアメリカの軍人から一目置かれたというエピソードが出てきます。それほど、硫黄島での激戦はアメリカで知られています。栗林中将の手腕も高く評価されている。それに比べて、『散るぞ悲しき』が出るまで、日本で硫黄島の戦いを知る人は少なかったですね。
硫黄島がどこにあるのか、知らない人がほとんどだったのではないでしょうか。その存在すら知らなかった人もいたと思います。まだクリント・イーストウッド監督の映画『硫黄島からの手紙』が製作されていない頃、ある新聞社の人に硫黄島に取材に行きたいという相談をしたら、「海外取材はむずかしい」と言われまして(笑)。硫黄島は日本じゃないと思っていたんですね。
あの本は、女性が戦記物、それも高位の軍人を主人公にしたものを書いたことで注目された面があると思います。書いている時に気づいたんですが、私が物心ついてからメディアで接してきた戦争もので、軍人を主人公にしたものはほとんどありませんでした。いまも8月の終戦記念日前後には戦争関連のドラマが放映されますが、原爆、沖縄戦、東京大空襲と、日本人の一般市民が被害者になったものが圧倒的に多い。例外は、若い兵士が主人公の特攻ものくらいです。いずれも忘れてはいけない史実であることは言うまでもありませんが、そればかりが戦争ではありません。戦場という殺し殺される場に身を置いた人たちのことをきちんと描くことも必要でしょう。「加害も語らなければ」と肩に力を入れるのではなく、戦場で何が起こっていたのかをフラットに描く作品があっていいはず。犠牲者の目線に立たないと戦争を語れないというのはおかしいと思います。
——『散るぞ悲しき』は8カ国で翻訳されています。海外で読まれるというのは、日本とはまた違った感覚でしょうか。
最初にアメリカで英語版が出たとき、Amazonに投稿された英語のレビューにはほとんど目を通しました。硫黄島で戦った日本の将兵を、自国のために戦った人たちとして敬意をもって受け止めてくれていることが分かってほっとしました。
硫黄島は、世界の中でもおそらく唯一、戦場で敵味方として戦った国が一緒に慰霊祭を行っている戦地です。私も3度ほど慰霊祭に出席しています。命を懸けて戦った者同士だから分かり合える関係があると、肩をたたきあう日米の元兵士たちの姿を見て思いました。不思議ですが、戦いや死を通して生まれる絆というものが、この世にはあるんですね。
たとえ誰も読まなくても、この本を書きたい。
——「ノンフィクション作家」とは、どんな仕事だと思われますか。
ジャーナリストは、「今、世界が知るべきこと」を人々の代わりに取材して伝える役割を持っていて、歴史という縦の流れと、今という横の地平が交わる地点に存在している感じです。そして、書いたものが確実に世の中を変える。
ノンフィクションが世界を変えることはたぶんないでしょう。ただ、この広い世界のどこかに自分の作品を必要としている人がきっといると信じて、遠くにボールを投げることを許されているのが、小説も含めて“作家”というものじゃないでしょうか。
その相手は、もしかしたら今の時代にはいないかもしれない。でも、いつか誰かがどこかで私の作品を見つけ、出会えてよかったと感じてもらえたら嬉しいです。
——最初から読み手を想定して書かれるわけではないのですね。
もう少しで『散るぞ悲しき』が書き上がるという日、徹夜明けで歩いていて自転車にぶつかりそうになりました。「書き終わるまでは死ねないから気を付けないと」とヒヤッとすると同時に、「もし自分以外に読む人がいなくても、私はこの本を書くだろうか」という問いが浮かんできたのです。答えは、「書く」でした。
たとえ誰も読まなかったとしても、世の中には、文章にして書かれるべき人や出来事があるのではないか——。そう強く思ったのです。そのうちの一つが、硫黄島の戦いにおける栗林中将で、それに関しては、どうしても私が書きたいと思った。これは、書き手としての私の欲です。
もちろん一人でも多くの人に読んでもらいたいけれど、その前に、私の手で、私の表現で書きたいという欲望があると、この時に気が付きました。自分のために書くのだからお金にならなくても仕方がないか、という諦めの気持ちも同時に生まれましたが(笑)。
平成は昭和の後始末
——間もなく平成も終わります。昭和を描いてきた梯さんの目に、平成はどんな時代だと映っていますか。
平成が終わる時に、やっと昭和も終わる。そんな感覚でしょうか。平成は、昭和の後始末の時代だったように見えます。昭和が残した数々の宿題に、平成の間に立ち向かい、解決に導いたのか……。あまりうまくできていない気がしています。昭和の影は、普段は目に見えなくても、伏流水のように時折表に顔を出してきます。社会も経済も外交も、次の時代への積み残しがここまで多いとは、平成が始まった頃には、正直、予想できませんでした。
もう一つ気になっているのは、歴史への相対し方です。歴史とは複雑なもので、少し資料にあたった程度では、どちらが悪いとか、あの事件はなかったなど、一言で片付けられるような結論が出るはずありません。ところが現代は、こんがらがった歴史の糸を解きほぐそうと努力する忍耐力や、歴史の複雑さに耐える知性が失われつつあるように感じられます。
——最後に、次回作の予定を教えてください。
一人は、詩人の石垣りんさんです。1920年生まれで、14歳で銀行の見習い行員になり、定年まで働きながら詩を書いた。あとは最近、サハリンに興味を持って何度か出かける中で、ピウスツキというポーランド人の存在を知り、調べています。分割統治下のポーランドで、ロシア皇帝暗殺事件に連座して政治犯としてサハリンに流され、アイヌ民族の女性と結婚し……とドラマチックな人生を送った人。どちらが先になるかはまだ分かりませんが、二人とも深く長い付き合いになりそうです。
インタビュー・文=幸脇 啓子
撮影=三輪 憲亮
(バナー写真=nippon.comオフィスで撮影した梯さん)