「硬頸精神」で勝利をつかむ——囲碁女流棋士・謝依旻六段に聞く
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謝依旻(シェイ・イミン)六段(29)は、客家(はっか)の「硬頸精神」と呼ばれる不撓不屈(ふとうふくつ)の精神と素晴らしい人々に支えられ、一局一局を全力で向き合ってきた。囲碁人生で味わった苦労と成功と、これからの囲碁界について話を聞いた。
子供の頃から負けず嫌い
——謝依旻さんが育った頃の話を聞かせてください。
両親が教育熱心だったこともあり習い事をたくさんやっていたのですが、叔母がそろばん・暗算教室の先生で言葉を上手に話す前から、掛け算の九九をそらんじていたそうです。3歳になると、暗算の3級試験を受験しました。ところが、普段、叔母から私はまだ小さいので10問中5問解けばいいと言われていたので、試験もその調子でいたら大失敗。状況を理解した時には終了のベルがなり、会場で大泣きしてしまいました。しかし、翌年に再度挑戦して無事に3級を取得しました。今では1問解くのに3分以上かかり、自分の事ながら本当にすごいと思います(笑)。
——囲碁とはその頃に出合ったのですか?
習い事の中で囲碁教室にも通っていましたが、兄のおまけのような存在でした。年齢的にまだ難しいと考えられ、もう少し大きくなってから正式に習うことになっていました。ところが6歳の時に会場で五目並べをしていたら、相手をしてくれた囲碁のアマチュア六段の先生に勝ってしまったのです。それをそばで見ていた別の先生が、年齢に関係なく囲碁を教えるので良かったら習いに来ないかと誘われ、私の囲碁人生がスタートしました。
兄の存在も大きかったです。すでに囲碁を習っていた兄は、当然私よりも強かったのですが、対局では情け容赦なく私はいつも負けてばかりいました。しかし、幸いにも私は囲碁を嫌いにならなかったのです。むしろもっと強くなって勝ちたいと思いました。もしあの頃、兄に勝ちたいと思わなければ、囲碁を続けなかったかもしれません。そういう意味で兄も私の囲碁人生では大切な存在です。もっとも兄は中学校で教室をやめてしまい、今では兄と打つことはありません。ただ、私の対局は気に掛けているようで、たまに電話で「いい碁を打ったね」と言われることがあります。
父ほど厳しい、優しい人はいない
——なぜ日本でプロの棋士になろうと思ったのですか?
台湾では囲碁に関する教材や情報がほとんど日本からのものでした。台湾にもプロ棋士はいますが、対局数が少ないので、日本でプロになるのは半ば当然の目標になりました。また、林海峰(リン・カイホウ)先生や張栩(チョウ・ウ)先生はスターのような存在で、台湾出身棋士の日本での活躍は現地でも大きく取り上げられていました。林先生の名前を冠した海峰杯という大会もあります。10歳の頃にこの海峰杯で優勝したのですが、トロフィーをいただいた時は本当にうれしくて感動したのを、今でも覚えています。
ちなみに囲碁を始める頃に読んだ日本棋院発行の『棋道』という雑誌にあった「女流本因坊」という漢字を指して、「私は将来、女流本因坊になる!」と父に伝えたことがあったそうです。その後、本当にそのタイトルを手にするわけですが、囲碁を諦めなくてよかったと思います。
——ご両親の指導と支えについて教えてください。
私の父は学習塾の先生をしていましたが、とにかく自分にも生徒にも厳しい人でした。父より厳しい人にいまだに会ったことはありません。でも、実家から片道2時間かけて都会の会場まで車で送り迎えしてくれたり、12歳で来日後は日本語ができない中でも身の回りの世話をしてくれたり、私を常に支えてくれました。本当に感謝でいっぱいです。一日も早くプロになろうと頑張ったのは、ひとえに両親や支えてくださった皆さんに報いたいと思ったからです。
日本には誰でも来られるわけではありません。実力もそうですが、資金などさまざまな支えがあって初めて来られます。
14歳でプロ棋士になった時のことを今でも覚えていますが、とにかく責任を果たせたことで開放感に満ちていました。またゴールと言うよりようやくスタート地点に立った気がしました。
プロになってしばらくして、父母にはもう日本に来なくていいと伝えました。言葉や身の回りの世話が自分でできるようになったのもありますが、少しでも楽をさせたかったからです。
スランプを支えてくれた恩師や先輩
——初めてタイトルを獲得した時のことを教えてください。
14歳でプロ棋士になったのですが、16歳の頃に生まれて初めてスランプを経験し、半年間勝てない日々が続きました。プロとしてやっていけるのか不安が募る中、2006年第1回広島アルミ杯・若鯉戦(非公式戦)でやっと優勝することができました。これをきっかけに改めて囲碁がおもしろいと思えるようになり自信にもなりました。その後、東京精密杯第8期女流プロ最強戦で、17歳1カ月で当時の女流棋士史上最年少でタイトルを獲得しました。夢が一つかなってうれしかったです。
——黄孟正(コウ・モウセイ)九段の指導でもっとも印象に残ったものは何ですか?ご自身の得意な戦法などがあれば教えてください。
黄先生には院生(※1)時代からご指導いただいていたのですが、教えていただくというより研究会で他の門下生と一緒に研究するスタイルでした。プロになってからは黄先生と実際に対局することはほとんどないのですが、私の対局前にはいつも励ましやアドバイスを送っていただいています。囲碁は本当に孤独で精神的な強さも必要です。先生のサポートはとても大きくありがたいです。また、先ほどの林海峰先生は台湾にいた頃から憧れの存在で、来日後に先生宅で研究会に参加した際は天にも昇る気持ちでした。プロになってからは張栩先生にお世話になりました。早碁をたくさん打っていただき、さまざまな布石を教えていただきました。本当にありがたかったです。改めて自分はいい先生や先輩に出会えて幸せだと思います。
囲碁の戦法ですが、以前の私は対局の中盤から終盤にかけて力を出すタイプで、序盤は苦しいことが多かったです。一方で、複雑な局面、プレッシャーがかかる局面では実力を発揮していました。まだ研究中ですが、最近は何事もバランスが大切だと思うようになりました。特に実力が上の棋士との対局では序盤に大きく出遅れると挽回が難しくなります。長所を失わない程度にバランスのいい打ち方を心掛けています。
(※1) ^ 棋士を志す青少年に対して専門的な囲碁指導を行い、棋士育成を目的とした制度
囲碁界の発展にはスターが必要
——2016年に「アルファ碁(AlphaGo)」が棋士に勝利した以降、AIとの関係性がいろいろ言われていますが、AIの存在と囲碁界の発展についてどのように考えていますか?
私を含めほとんどの棋士はAIを活用して碁の研究を行っています。判断が難しい局面では、AIの意見を取り入れることもあります。私は、人間はAIには勝てないと思っていますが、一方で、AIのおかげで50年かかるはずの研究が10年でできた、人間の成長を助けてくれる存在だとも思っています。AIが囲碁の発展を妨げるとは思っていません。
しかし、囲碁がさらに発展するにはAIではなくて、もっと多くのスターの出現が望まれます。例えば2019年4月に史上最年少の10歳0カ月でプロ棋士になる仲邑菫(なかむら・すみれ)さん(9)のような新たな才能です。スターが現れることで、世間からより注目され、囲碁界の裾野が広がります。私たち先輩も後輩に負けじと、努力して全体のレベルアップに努めます。囲碁界の発展には、さらに多くのスターが必要だと強く思います。
生涯忘れられない大地震の中での対局
——これまで一番印象に残っている対局を教えてください。
タイトル戦含め、いつも全力で向き合っているのでなかなか決められません。あえて一つ挙げるとすれば、それは東日本大震災の最中に、まさにここ日本棋院東京本院7階特別対局室で行われた2011年の「第23期女流名人戦」です。私にとってはタイトル防衛戦。1局目は内容も完敗で、もう後がない不安の中で2局目を迎えました。相手は同期の向井千瑛さん(当時四段)。お互い勝ちたい、負けたくない、そんな状況でした。
そして、午後2時46分、あの瞬間が来ました。地震で花瓶が落ちそうになり天井からは黒い粉のようなものが落ちてきて、碁盤も大きく揺れて碁石が落ちそうになりました。私の手番ですが、揺れが激しくて石を打てません。「ここでは死にたくない」、命の危険を感じました。とにかく向井さんに一度対局を止めようと声を掛け、記録係にも時間を止めてもらいました。すぐその場から脱出しようと思ったのですが、揺れが長く、何かにつかまっていないと倒れてしまう状況です。数分後、ようやく運営役員が7階に上がってきて、正式に中断と1階への避難が伝えられました。
1時間後、対局を再開したのですが、余震が続き、この状況で続けるのは危険と判断され、史上初めて女流名人戦で「打ち掛け」(一時中断)となりました。一方、私の手番だったので「封じ手」を行いました。「封じ手」と言うのは、その瞬間自分が次の一手をどこに打つのか、棋譜に書いて封をして、対局が再開される際に開けられ、それを打つというものです。揺れで恐怖する中、負けたくない、納得のいく一手を打ちたい気持ちが入り交じって、10分ほどかけてようやく封じました。通常の2日制の対局は翌日に再開されるのですが、私たちの場合、余震や世の中が少し落ち着くのを待ったこともあり、12日後の3月23日に再開しました。
その間、私も向井さんも集中力を維持するのに本当に苦労しました。台湾にいる家族からもすぐに帰国するように言われましたが、まだ対局があるので帰れないと、なんとか理解してもらいました。再開後の対局に勝ち、その次の対局でも勝って2勝1敗の逆転勝ちでタイトルを防衛しましたが、私にとって特別な対局となりました。
バナー写真=謝 依旻六段
協力=公益財団法人日本棋院
撮影=花井 智子
取材、文=高橋 郁文(ニッポンドットコム編集部)