16代佐野藤右衛門:数々の名庭園を手がけた伝説の庭師
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京都の庭の「守り」をする
日本の古建築と庭を見るのなら、建築は奈良、庭は京都と言われている。奈良は中国から伝来した様式にのっとった寺院建築などが創建当時の様子をほぼそのまま今に伝えているのに対し、京都は度重なる戦乱により、建物が焼けたり破壊されたりして建築の古さでは奈良にかなわない。
しかし京都にある庭園は、戦火をくぐり抜けたもの、再建された寺院や邸宅、あるいは明治期に別荘地の庭園として作庭されたものなど、さまざまな時代の名庭園が数多く今に伝わる。そんな京都にある数々の庭園の「守り」をしている一人に、16代佐野藤右衛門がいる。御年90歳。「桜守」として知られる庭師である。桜には、どんなきっかけで関わるようになったのだろうか。
佐野藤右衛門 日本人の誰もが好きな桜の木を集め始めたんは、2代前に当たる14代目からや。大正時代のことやから、交通網も整備されていないわな。でもね「名桜がある」と聞けば、全国どこへでも調査に行って、周りの人から「桜狂い」と言われるほど熱心に取り組んでたらしい。何でそれほど熱心やったのか。それは日本の自然が破壊されることへの危機感からだったと聞いてます。
14代が苦労して集めた桜を、15代が図譜として記録し、わしがそれらを元に書籍を出版した。その桜の調査は今でも続けてます。花びらの1枚、雄しべの1本に至るまで、スタッフが丁寧に手描きして細密画の資料を作ってます。
年によって咲く花の色まで違うのが桜ちゅうもんや。ふわっと咲いて「きれいやな」とか、そんな生易しいもんちゃいます。花が咲くのは桜自身の1年間の成果なんや。そやから桜の花を見る時は「1年間ご苦労さん」という気持ちになるんや。
桜は全国的にソメイヨシノが好まれますけど、植え過ぎましたわな。あれは挿し木や接ぎ木で殖やすので、子孫を残すのに昆虫を必要としません。ただし100本、200本とまとめて植えますやろ。すると調和が取れなくなって一旦病害虫がつくと大発生につながってしまいますのや。人間の都合ばかり優先して自然の営みを無視した結果やと思います。
庭師になるのは必然だった
佐野の庭師としてのキャリアはすでに70年を超える。先祖は仁和寺の御領内で農民として暮らし、江戸時代の後期頃から次第に植木や庭を手掛けるようになったのだという。そのような家柄の長男として生まれ、なるべくして庭師となった。
佐野 わしが子供の頃は親子三代が一緒に暮らすのが当たり前やった。そうすると、会話の中でだいたい200年の時間が流れる。わし、おやじ、そしておじい、さらにおじいが自分のおじいの話をするやろ。そうすると200年ほどさかのぼることになるわな。今度はわしの子、孫とつながっていく。それが、ちょっと前の日本では当たり前やった。
どこの家でも働くおとう・おかあの代わりにおじい・おばあが子供の面倒を見てた。わしもおじいにかわいがられて、そのおじいの仕事ぶりを知らず知らずのうちに見ていて、なんとなく記憶していてな。ある一定の年齢になった時、「ああ、あの時おじいはこうしていたな」と思い出しながら仕事をしたもんや。
仕事は習おうと思って習ったわけじゃのうて、日々の暮らしの中に仕事(庭師)があった。ただそれだけのこと。自然に仕事にはまっていったちゅうわけや。おじい・おばあに上手に飼いならされたんかな(笑)。だからわしは庭師になることを疑問に思ったことはいっぺんもないな。
草木や石だけでなく、佐野は人への向き合い方も大切にしている。それが人としての魅力となり、若手からも憧れの存在として慕われる理由だろう。
佐野 広島の大規模分譲地の開発に、仲間の地元造園会社の人たちと一緒に関わらせてもらったんやけど、最初はな、「4本ばかり桜を植えてください」ということだったそうや。でもな、もともとこの地域には神楽をはじめとした豊かな文化があったはずやのに、1945年8月6日、一瞬にして消えてしもうた。今もな、表面に見えてないだけで原爆の爪痕は確実に残っておる。そういう場所で、利益ももちろん大事やけど、それよりも神楽をしたり、野点(のだて)をしたりする文化を取り戻したいという思いを、当時の社長が話してくれましてな。そこからわしも熱が入りましたわ。
でも最初に言いましたんや、「広島で桜は難しい」と。真砂土(まさど)(※1)だから桜は育ちづらい、植えるなら土を入れ替えなければできんと言うた。その条件やら、土壌改良は素掘りしてガラや粗朶(そだ)(※2)、炭を入れる昔ながらの工法にする、桜や竹を植える季節も一番ええ時期にする、そんな要求ものんでくれて、3年間、腹をくくって付き合ってくれましたのや。要するに仕事も人との信頼関係が一番ですわ。若いもんにも言ってます、「仕事は腕以上に人間関係を磨けよ」と。
「ユネスコ本部日本庭園」のイサム・ノグチとの仕事でも、寝食を共にして信頼関係が築けたからできたんや。でもな、彼との関係はさっぱりしたもんやで。お互い自分の友達を紹介することはまずなかったしな。人付き合いと仕事とは別。これが長続きのコツや。
失われつつある日本文化の本質
佐野の話は「日本の文化の奥深さ」に触れることが多い。そこから、日本文化の神髄(しんずい)が失われつつあることに対する嘆きが聞こえてくる。
佐野 どこの国の文化も、主食が何かによるんや。だから日本はコメの文化なんやけど、戦後70年たってな、日本人は本来コメ文化だったということを忘れてしまった。コメの食事には副菜がたくさんついて、コメと一緒に食べよるから自分の口の中で、もういっぺん味をつくり直すことになるんや。そんな食事、よその国にありますか?
今は昔と違ごうてパンを食べる人が増えたから、コメが忘れられている。それは稲作が忘れられるちゅうことで、日本文化の根幹に関わることなんや。文化は人間の精神的支柱やで。今、それがぐらついているちゅうことや。
日本文化は摩訶(まか)不思議で奥深いのや。例えば言葉。漢字、ひらがな、カタカナと3種類もありますやろ。そして一つのものを言い表すのにいくつも言い方がある。コメがそうや。イネ、コメ、メシ、と同じもんなのに状態で言い換える。色についての単語も多いわな。四季があって自然の複雑さを感じてきた民族だから、それだけ感性が繊細だってことや。それがな、特権階級の人たちだけじゃなしに一般の人たちにもなんとはなしに広まっているところが、日本文化の奥ゆかしさや。そんな複雑で繊細な文化が、最近は単一化方向に向かっていますわな。要するに麦の文化(西洋文化)にやられてしまったんですわ。
佐野は時として欧米文化に批判的になる。それは自身も言うように「まともな戦中派」であり、召集され陸軍の兵隊となるべく訓練を受けたことや、皇室と所縁(ゆかり)のある仁和寺の仕事をしているということとも無縁ではないだろう。また敗戦後、あまりにも変わってしまった日本の様子に、いら立ちと寂しく思う気持ちとがないまぜになっているようにも思える。
佐野 まず住まいが大きく変わったわな。縁側がなくなったり、和室がなくなったり。襖(ふすま)や障子もなくなっているし。そうすると、それに関連した仕事をする職人たちがどんどんいなくなる。みんなマンションに住みおるから、庭を造る人が減ったわな。だから、昔の時代のまんまはもう作れませんのや。庭もな、本来なら平屋か2階建てなのかで、そもそものつくり方が違うもんなんや。間仕切りを頭の中にたたき込んでおかないと、本来庭はできへんのや。そんな風に考えて作る庭は、世界中を見ても日本しかないん違いますか?
緑化産業と化す現代の造園業界
佐野によると、近代から現代にかけての日本庭園の最盛期は、大正期から昭和15年ごろまでだという。
佐野 現代の庭は、単に空間を緑化する緑化産業になってしまった。本来は家が「用」、庭は「景」でそれがつながらんといかんのやけど、今は用か景のどちらかや。例えば昔は水回りは外にありましたやろ。今は全部家の中や。土間もなくなってしまって用と景とがつながらなくなってしまった。
今また水琴窟(すいきんくつ)(※3)がちょっと注目されているらしいけど、水琴窟がどうしてできたか知ってます? 昔の家のトイレは離れたところにありましたやろ。だから富裕層の人たちはトイレの後、手を洗ってホッとした時に、なんやチンチロリンと音が聞こえたらええなと。そんなんでできたもんですわ。今は生活騒音が大きくなって聴こえないもんやからマイクつけたりしてるらしいけど、何のために水琴窟を作ったのかを考えたらちょっとおかしいわな。
それに昔はトイレの周りには梅を植えることが多かったんですわ。冬の寒い中、用を足して外に出た時、ふわっと梅の香りがしたら、ええですやろ? だからトイレの周りには芳香性の高い樹木を植えたもんなんや。でも今はそんな気風もなくなったし、だいたい「どうしてこうなっているのか」を疑問に思わないから、発展のしようがないわな。
庭園文化は必然的に残ったもの
現代人にとって、庭はあまり必要のないものになりつつあるように思える。庭師の将来はどうなっていくのだろうか。
佐野 庭は現代の生活様式に合うように作らないかん。今は一戸建て住宅にしても、全てが屋内で済んでしまうから屋外との連携が少ないし、高層マンションの敷地にあるのは庭園ではのうて坪庭的なものにしかならへんのや。でも、たとえわずかでもほっこりできる空間が、いつの時代でも必要なんや。だから、昔からの庭園文化は、切れるということはない。日本で庭園文化が続いているのは、それなりの必然性があったからなんや。
ただ問題なのは、仕事の内容が単純化してきとるから技を磨く場が減って、職人の数が減ってしまうこと。それが怖いんや。
インタビュー・文=澤田 忍
撮影=大島 拓也
バナー写真=植藤造園の桜の圃場にたたずむ、16代佐野藤右衛門氏