東日本大震災200億円義援金を追いかけた台湾在住作家・木下諄一
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2017年3月、1冊の小説が日本で出版された。タイトルは『アリガト謝謝』、著者は木下諄一。東日本大震災後に、台湾からの200億円もの義援金がどのように集められたのか。また、その義援金に込められた台湾の人々の日本への熱い思いとは何だったのか。山の小学校、片田舎の町役場、大学のキャンパス、仏教系のボランティア団体、老舗の菓子屋など、それぞれの募金活動にまつわる物語を通して上述の問い掛けに答えていく。また、1人の日本女性のツイッターに端を発した台湾への答礼計画も、この作品のもう一つの軸として描かれている。2つの軸がやがて交差し、義援金を媒介とした日本と台湾の善意と感謝の関係が浮き彫りになるという内容である。
木下はどんな人間なのか——。
木下の海外での歩みと『アリガト謝謝』の誕生について聞いた。
人生の再起をかけて台湾へ赴く
木下と台湾との出合いは37年前にさかのぼる。学生時代の1980年に1カ月半ほど台北に滞在したのを皮切りに、出入国を繰り返しながら、学生時代の1年半を戒厳令下の台湾で過ごした。84年の春、卒業を控えた木下は「決別の思い」で台湾を後にするが、その後、商社勤務、起業を経て、89年、人生の再起をかけて再び台湾に舞い戻る。大したあてもなかったが、台北到着の翌日にはかつての友人のつてで、大学語学センターで日本語教師としての採用が決まった。運も味方した。
社長業は順調だが、小説が書けない
戒厳令が1987年に解除され、続く李登輝総統の登場で、台湾の社会は民主化に向けて大きく動き出していた。土日も返上し、早朝から深夜まで寝る間も惜しんで働いた。学生からの評価も高く、大学からの信任も厚かったが、2年ほどたった91年に次の転機が訪れる。台湾観光協会から日本向け月刊誌『台湾観光月刊』が発行されることとなり、その編集長として木下に白羽の矢が立った。雑誌ではライターとして自ら執筆も担当し文章力が磨かれた。この仕事は99年までの8年間、木下が独立して編集プロダクションを立ち上げるまで続いた。立ち上げた会社の経営は、台湾、日本双方の顧客に恵まれて順風満帆だった。しかし、1年ほどたつと木下は違和感を覚えるようになる。仕事がどんどん社長業に傾き、創作から遠のいていく自分に気付いたのだ。
小説家を志してから10数年、外国人として初受賞
実は起業する2、3年前から、さまざまな制約の中で記事を執筆することに不自由さを覚え始め、自身の気持ちが小説の創作へと向かっていたのだった。木下は経営者としての自分にあらがうように、小説の研究に没頭し始める。
「小説は雑誌の記事とは、使う筋肉が違います。そこで、自分の好きな作家の作品を丹念に読み込んで小説を書く技術を分析しました。たとえば、過去形と現在形の使い方、主語の省略の仕方、一つの文の長さがどうなっているのか、そういった研究を重ねました。」
2002年、単行本としては初めての著作となる『台湾旅行術』(総合法令出版社)を出版した木下は、これを「卒業論文」と位置付け、観光関係の仕事に区切りを付けた。そして、03年には、某出版社の新人賞に応募する。惜しくも最終選考には残らなかったが、1200件の応募作の中から90件の一次選考に残ったことで手応えは感じた。しかし、その後は再び生活に追われる日々が5年ほど続く。
「小説を書いている時はお金にならない。書かなくても誰も文句は言わない。どうしても目の前の仕事を優先させてしまっていたのです。このままでは小説家の道は閉ざされるとの危機感を抱いた結果、2年をめどに台湾での生活を畳んで、日本で小説の執筆に専念しようと一大決心をしました。」
しかし、台湾と木下との縁は簡単には終わらなかった。程なく台湾の友人から「台北文学賞」の存在を伝えられた。日本に帰国してしまったら、この賞に応募する機会はまずないだろう。そう思うと「創作脳」がむくむくと頭をもたげた。中国語での執筆だったが、ただ小説を書きたい一心で『蒲公英之絮』を完成させた。結果は見事に11年の台北文学賞を受賞。長年の夢がかなった瞬間だった。小説家を志してから10数年の歳月が流れていた。
「高いハードルを一つ越えると、その先は自然とチャンスが広がる」という木下に、台湾で最大発行部数を誇る新聞『自由時報』の文芸欄でのコラム執筆が決まり、13年にはエッセイ集『随筆台湾日子』として出版される。新聞の文芸欄が作家の新作を発表する場でもある台湾で、木下は職業作家としての道を着実にステップアップさせていた。
知りたい人々と伝えたい人々の間に立つ
東日本大震災が発生した時、木下は台湾にいた。2日後には台北文学賞の授賞式を控えていた。自身の文学賞受賞と震災の発生が重なり、情報整理が追いつかず、慌ただしい日々だったと振り返る。未曾有の大震災が故郷の日本で起きた。海外にいる自分はどう向き合うべきだろうか。映像から流れる惨状を見るにつけ苦しい思いが続いた。しかし2年半後の2013年秋、木下は『アリガト謝謝』の執筆に取りかかりはじめる。
「知人の1人が『東北の人たちが台湾のことを知りたがっている』と伝えてくれたのがきっかけでした。被災地では今も大変な暮らしが続いていて、震災について海外にいる自分が軽々しく語る資格などありません。随分とためらいました。しかし台湾に30年近く住んでいる自分が小説家としてできることは何か。熟慮の中で出した結論がこれでした。」
また、作品の取材を進めていくうちに、台湾の人々も自分たちの思いを日本に届けたがっていることに気付いた。東北の人たちの知りたいという気持ちと台湾の人たちの伝えたいという気持ちがつながっていた。ならば自分はその間に立てば良いのでないか。そう考えた。
「記録」ではなく「記憶」をつづることに心掛ける
「この作品はフィクションで、出版されるかどうかもわからないと台湾での取材対象者には前置きしたのですが、誰もが快く取材に応じてくれ、思いの限りを語ってくれたのです。この本を書き上げ、台湾の人々の思いを伝えることが、30年間お世話になった台湾への恩返しになるのではないかと考えました。」
震災から6年、構想から4年、台湾の人々と被災された人々をつなぐように『アリガト謝謝』は日本で出版された。いつか日本でも小説を出版したいと願っていた夢も実現した。
本書は、「日本を助けるために、どうしてこんなにも熱くなれるのか」をキーワードに、社会のさまざまな人々へ徹底取材を行って描かれている。ノンフィクション・ノベルに位置付けられることが多い自身の作品について、木下はこう語る。
「この小説は、『記録』ではなく『記憶』をつづることに心掛けました。70%が事実に基づく物語の骨子、30%の周辺部分はフィクションです。これらに自分の台湾での30年間の実体験を織り込みました。普段感じることが難しい台湾の人々の温かさを感じてもらえたらと思います。」
困った人に手を差し伸べようとする精神を、台湾の人々は生まれながらにして備わっていると木下は語る。そして、今回はその苦境にあった相手が「日本」だったという特殊な要素が加わったことで、大きな支援のうねりとなったのではないかと分析する。台湾は「親日」だからというひと言では片付けられない、世代や立場の異なる台湾の人々の、それぞれの日本に対する特別な思いをこの作品で表したという。
人事を尽くせば、道は開ける
この作品の構想、取材、執筆、出版に至るまでの4年間の道のりは、決して平たんではなかった。筆が全く進まなくなったことも、ほぼ決まりかけていた出版社から最終段階で断られたこともあった。それでも、木下は書き続け、出版社の門をたたき続けた。決して諦めることはなかった。その原動力を木下は「作品に対する根拠の無い自信」と表現する。
「この物語を知りたい人が必ずいる。世に問いたいという出版社が必ずある。執筆の途中でもそれらを疑うことはありませんでした。」
「人生に無駄なことは無い」を座右の銘とする遅咲きの小説家は、失敗や挫折もそう思えばこそ受入れられる。そして、マイナスと思える経験も将来の自分に必ずプラスの形で返ってくると語り、最後にこう結んだ。
「自分の人生に自分で制限を設けてはいけません。自分の人生に遠慮することほどもったいないことはない。ベストの準備をしてベストの状態で臨めば、道は必ず開けると信じています。」
撮影=熊谷 俊之