崖っぷちの人を救う—「日本駆け込み寺」代表・玄秀盛さん
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江戸時代、夫の暴力に苦しむ妻が逃げ込む駆け込み寺という制度があった。厳しい封建社会の中で逃げ場を失った女性を救済するシステムだ。
玄秀盛さんが運営する「日本駆け込み寺」は、その現代版とも言える組織である。ただしこの避難所には、性別や宗教を問わず、さまざまな世代、階層の追い詰められた人たちがやってくる。ドメスティックバイオレンス(DV)や虐待、多重債務やヤクザ関係のいざこざなど、ありとあらゆるトラブルに巻き込まれた人たちが駆け込んでくる。組抜けしたいヤクザが訪ねてくることもある。
ワルが始めた悩み相談所
——日本駆け込み寺では、日々どんなことが行われているのですか。
基本的には悩み事の相談に乗り、一緒に解決の糸口を探っていきます。いろんな事情で、警察や行政機関には相談できんという人がやって来ます。2002年にスタートしてから延べ3万件近い相談に乗ってきました。
——具体的にはどんなふうにして解決に持っていくのでしょうか。
例えば夫の暴力に耐えきれず全身あざだらけの女性が駆け込んできたとします。まずは女性の身の安全を確保し、その後で夫がこの事務所に来るように仕向けます。暴力夫が来たら、説得や時には恫喝(どうかつ)を交え、とことん絞り上げます。法律に抵触しない範囲内で、徹底的にやります。時には警察や弁護士、行政機関や民間支援グループの力を借りて、夫が妻に会えないようにします。長期化するようであれば、彼女に勤め口を探してあげることもあります。
距離と時間をおくことで2人の関係が回復することもあるし、離婚しないと解決しないこともある。それは十人十色。ヤクザ絡みの案件では、組事務所に乗り込んで話し合うこともあります。
——駆け込み寺ができてから今年で14年になります。大きな変化はありましたか。
当初は、歌舞伎町で食い物にされた風俗産業の女性の相談に乗っていましたが、今では全国から相談者がやって来ます。駆け込み寺自体も全国展開しようとしています。12年7月、仙台市に仙台支部を開設しました。場所は、東北地方最大の繁華街・国分町です。
同時に、相談者の幅も広がりました。社会的弱者だけでなく、一流企業の社員や公務員、医者や弁護士、芸能人などもやってきます。みんな切羽詰まったギリギリの人ばかりです。
——弁護士がどんな相談でやって来るのですか。
例えば、右翼団体の顧問弁護士が、顧問料を支払われず数年間ただ働きしていたことがありました。その弁護士は公には出来ず、下僕のような立場に立たされていたんです。奥さんが駆け込んできて、相談に乗りました。警察にまず届け出を出すように言いました。旦那はメンツがありますから、絶対にそんなことはでけへん。でも家では相当に苦しんでいたようで、見るに見かねて奥さんがやってきた。右翼団体には背後に日本駆け込み寺がついていることを伝え、事を荒立てるとかえって面倒なことになると思わせました。
しばらくして、その団体は顧問契約を解除しました。奥さんからは、「主人が寝汗をかいたり、うなされたりしないで、ぐっすりと眠れるようになりました」と感謝されました。
——問題解決において、何か心掛けていることはありますか?
100パーセントの解決を目指さんことです。悩みを生んだ原因は、自分にもあるんやから、そこそこの解決でいいと思わなあかん。全てを解決してすっきりさせたい気持ちは分かるが、中途半端な解決でええんです。すっきりせん部分は、時間をかけて自分ですっきりさせていく。僕らは、あくまでその手助けをするだけ。白黒つけずにグレーの部分を残していくのも大事だと思っています。
——なぜ、みな玄さんをそれほど頼りにしてやって来るのでしょうか?
それはやっぱり、加害者だった時代があるからやろな。昔はかなりのワルやったから、悪党の急所がどこで、どう攻めたらメンツをつぶさず着地点を見つけられるかがよう分かります。蛇の道は蛇と言いますやろ。
日本も捨てたもんじゃない
玄さんは在日韓国人で、4人の父と4人の母の間をたらい回しにされて育ち、中学校時代から恐喝やシンナー遊びなどの不良行為で何度も補導された。中学卒業後は自動車修理工や寿司職人、とび、大工など約30種の職業を転々とした。25歳で日雇い労働者を建設現場に派遣する会社を設立。人夫の労賃を中間搾取してもうけた資金を元手に次から次へと新しいビジネスに乗り出し、年収が20億円に達したこともあった。
しかし同時に、強引な経営手法が災いして訴訟を起こされ、敗訴していくつかの会社が倒産したこともあった。サラ金や探偵事務所を経営していたためヤクザ絡みの金銭トラブルも絶えず、殺されかけたことも5回、逮捕・拘留されたことも数回あった。ヤクザにはならなかったが、ヤクザに限りなく近いアウトロー人生を歩んできた。
——裏街道を歩いてきた玄さんが、どうして人助けをしようなどと思ったのですか。
2000年、44歳の時に「HTLV-抗体検査」で陽性反応が出てから、人生が百八十度変わりました。HTLVウイルスは急性白血病を引き起こし、その当時は発症したら治療法もなく、1年以内に死ぬと言われていました。まあ、死刑宣告を受けたようなもんです。
その時自分は、「恨んでいる5人の奴らを皆殺しにしてあの世にいこう」と思った。自分だけ地獄に落ちるのは間尺に合わん。道連れにしてから自分も死のうと。それで段取りを考え、実行に移そうと決めた時、ふと、我に返った。守銭奴のように金に執着し、人様からは鬼と言われ、最後は人殺しで終わる。こんなんで本当にええんかいな。結局、俺は何のために生まれてきて死んでいくんやろか。そう思うと、とてつもなくむなしくなった。
——それで、悩める人を救おうと思ったのですか。
何でもええから、何かにすがりつきたかった。誰かのために命を使えば、自分という人間が生まれてきた証しを残せるはずや。誰かの身代わり不動になればいい。それで日本一けがれた街、歌舞伎町でぼろくずのように扱われている女性らを救おうと決めたんです。
——玄さんの改心を誰も信じなかったんじゃないですか。
開設から半年ぐらいは、憎悪の電話が鳴りやまんかった。「ええかっこすんな」とか「だました金を返せ」とか、とにかく非難囂々(ごうごう)。それは仕方ないことです。それまで人様に迷惑をかけてやってきたわけですから。
でも自分は、この人助けが無性にやりたかった。すがるもんはこれしかなかった。それで歯を食いしばって頑張った。相談所に泊り込んで、365日、1日2~3時間の睡眠時間で朝から晩まで相談に乗り、体を張って問題を解決していきました。本当に死にもの狂いやった。「そんなに悩むんだったら、死んだらええやん」と一発かまし、つき物を取り除いてから生きていく方策を一緒になって考え、必要とあれば裏技も指南した。やわな人生相談なんてまっぴらごめんやった。
——玄さん自身、相談を始めて何か変わったことはありましたか。
まず驚いたのが、ボランティアの人たちの存在や。こんな人たちがおるんかいなと。事務所のトイレ使ったりするわけやから、うちのボランティアになるには5000円の登録料をとった。それでもボランティアをやりたいという主婦やら、学生やら、サラリーマンやらが引きも切らずやって来た。
この人たちは一体なんやねん。自腹切って、人助けしようと思う人らがこんなにおるなんて想像できなかった。これまで自分は全てが金、金、金の世界で生きてきた。金のために社会が回っていると信じ込んできたんや。それが、駆け込み寺を始めて、ボランティアがぎょうさんやって来る。それもみんなピュアでいいやつばかり。ほんと信じられへんかった。日本もまだまだ捨てたもんじゃないと思った。
元暴力団員が働く店
2015年4月、日本駆け込み寺の新しい試みが始動した。刑務所出所者の雇用支援を打ち出した「出所者居酒屋」プロジェクトだ。第一弾として、民間業者と一緒に出所者が働く居酒屋「新宿駆け込み餃子」を開業した。
場所は歌舞伎町で、出所者の社会復帰を目指す「一般社団法人再チャレンジ支援機構」がプロデュースしている。同機構は玄さんが立ち上げたもので、元最高検察庁検事の堀田力さんに代表理事になってもらった。同店では、刑期を終えたものの、住居や就労の場が得られない出所者が働いている。
——新宿駆け込み餃子を始めた動機は何ですか。
僕らは長年被害者とともに、加害者にも接してきました。それで、当然ながら被害者を減らすためには加害者を減らさなあかんと思うようになった。加害者を減らすには、まず再犯防止が重要です。刑務所から出てきた者の刑事事件全体に占める割合は6割にも及んでいますから。
また出所者の社会復帰を進める上でポイントになるのが、働き口を探してあげること。仕事のない出所者の再犯率は、有職者の4倍というデータもあります。
これまで出所者の職場は工事現場や農場など、一般の人との接触が少ない所がほとんどでした。でも彼らに本当に必要なのは、一般社会で生きていく上でのコミュニケーション能力なんです。それで出所者の働く居酒屋を作ろうというアイデアを思いついた。お客さんと接することで、一般の人とうまくやれる自信もつく。同時に、お客さんに出所者が社会復帰を目指して一生懸命やってる姿を見てもらえれば、出所者に対する恐怖のイメージも薄まるしな。
開業にあたっては、「包丁を持たせて大丈夫か」「レジの金に手をつけないか」など、いろいろと不安視する声があったのは確か。でもふたを開けたら大成功やった。出所者支援の趣旨に賛同してくれる人がたくさんいて、店は繁盛してます。
どんな人生もやり直しがきく
16年2月、玄さんは同じ歌舞伎町に出所者が働く居酒屋「駆け込み酒場 玄」をオープンさせた。同店は、新宿駆け込み餃子をさらに進化させたものだ。駆け込み餃子ではスタッフ10人のうち出所者は3人に限定され、それも重犯罪を犯した者は雇用できなかった。駆け込み酒場は再チャレンジ支援機構の提携店で、そうした縛りを全て取っ払った。だから元暴力団員もいれば、覚醒剤や傷害罪で捕まった者もいる。
——出所者の生活に関して、気をつけている点はどんなことですか。
長い時間一人にさせないこと、多額の金銭を持たさんことです。担当スタッフがそれぞれの日々のスケジュールに目を光らせて、悪の道に逆戻りせんよう細かくチェックしています。手間も時間もかかりますが、出所者が自分の生活に自信が持てるようになれば、新しい職場でもうまくやっていける。「どんな過去でもやり直しがきく」と言いきかせ、そう信じ込ませることが大事です。
「愛」の反対は「憎しみ」じゃない
——14年間、玄さんはさまざまな悩みを聞いてきました。そうした体験から見えてきたことはありますか。
世間に無関心が広がってると思う。孤独死なんてその最たるもの。1981年にマザー・テレサが来日したとき、日本の繁栄ぶりに驚きながら彼女はこんなことを言ってます。「日本の多くの人は弱い人、貧しい人に無関心です。物質的に豊かな多くの人は、他人に無関心です。愛の反対は憎しみと思うかもしれませんが、実は無関心なのです」
30年前と比べて、日本は何も変わってない。変わっていないどころかますます悪くなっている。人間関係の基本である親子の間でさえ無関心が広がってる。自分の子がどんな時間を過ごし、誰と一緒にいて、何を食べてるのか、知らん親が多すぎる。子どもに対してもそうなんやから、他人に対して関心を持つはずがない。人としての感性が退化しているとしか思えへん。
——そうした社会を変えていくためには、どうしたらいいのでしょうか。
社会全体の仕組みを変えていかんとあかん。日本社会はこれからどんどん格差が広がっていく。裕福な高齢者が自分の生活を守るために蓄財に励む一方で、社会の底辺であえいでる人はますます貧しくなる。
自分のことばかりではなく、ほんの少しでいいから他人を思いやる気持ちを持ってほしい。せっせと貯め込んだお金の一割でも、市場に流すなり、寄付するなりすれば、それだけでも日本社会は劇的に変わります。30兆円あるといわれているタンス預金から、ほんの少しだけでも人様のことに使ってもらおうと思う。そんな気持ちが世の中全体に広まれば、確実に日本は変わっていく。
人は金だけでは生きていけへん。他人との関わりの中で生きてこそ人間。一番の財産は人とのつながりなんや。14年間の活動で、自分自身がそれを一番学ばせてもらいました。
インタビュー・文=近藤 久嗣(ニッポンドットコム編集部)撮影=長坂 芳樹