『裏切られた台湾』に込められた思い——「湾生」・川平朝清さんに聞く

政治・外交 文化

今では内外で知られる戦後間もなくの台湾の混乱や「二二八事件」などを記した『裏切られた台湾』の著者ジョージ・カー氏は、かつて台北高等学校の英語教師でもあった。カー氏に薫陶を受けた、湾生・川平朝清さんにあの時代の話を聞いた。

川平 朝清 KABIRA Chōsei

1927年、日本統治下の台湾台中に生まれる。1946年、台北高等学校を卒業。在学時に『裏切られた台湾』の訳者、米ワシントン大学終身名誉教授(神経病理学)の蕭成美氏と出会う。戦後は沖縄に引き揚げ、RBC琉球放送の設立に尽力。1953年、米ミシガン州立大に留学し、ジョージ・カー氏と再会。以来、氏の薫陶を受ける。1967年、沖縄放送協会会長に就任。1972年、沖縄の本土復帰に伴い、沖縄放送協会が解散。家族と共に東京に移り、NHK経営主幹に就任。1992年より学校法人昭和女子大学英文科教授、副学長、副理事長などを歴任し、現在、同大学名誉理事。川平家は琉球王朝につながる家柄で、昔から通訳や広報に関する仕事に従事している。キャスターでタレントのジョン・カビラさん、実業家で米国在住の川平謙慈さん、タレントの川平慈英さんら3兄弟の父でもある。

2014年9月26日。この年の春に勃発したヒマワリ運動の余韻が冷めやらぬ中、台湾で「2014年アジア太平洋フランチャイズ連盟および世界フランチャイズ協議会大会」が開催された。その際、国際レセプションに参加しようとした馬英九総統に対し、「台湾と中国は別々の国、一辺一国だ」、と叫びながら、本を投げつけた若者がいた。改めて今日の台湾における台湾アイデンティティーの強さを感じる事件だった。

一方、人々は投げつけられた本にも注目した。本の名は『裏切られた台湾』。著者は、外交官、著作家、大学教授で、米国で数少ない戦中戦後を通じて、台湾、琉球・沖縄、そして日本を熟知するジョージ・H・カー(George H. Kerr)氏である。

本著は、カー氏が駐中華民国台北副総領事として赴任した際、台湾が中華民国に接収された様子を、また、1947年の「二二八事件」に代表される中国人による台湾人への無差別殺戮の様子を、当時の国際情勢に照らしながら、台湾や台湾人の苦悩を詳細に記録したものだ。

二二八事件や台湾の国際的地位に関する問題を国際社会に訴えたことから、特に戒厳令下の中華民国・台湾で、本著は長らく禁書に指定されていた。

一方、カー氏は、李登輝元総統や作家の邱永漢氏、元国際司法裁判所判事の小田滋氏や元最高裁判事の園部逸夫氏、宇宙物理学者の小田稔氏などを輩出した名門・台北高等学校の英語教師でもあった。彼の下には日本人、台湾人を問わず、さまざまな学生が世界で活躍していた。

川平朝清さんも、そんなカー氏の薫陶を受けた一人である。後に、『裏切られた台湾』の日本語版の監修を務めている。

今回、川平朝清さんに、湾生として、台北高等学校の卒業生として、また、カー氏の学生として、当時の思い出を、69年目の2月28日がやって来る前に聞いた。

台中生まれの台北育ちの沖縄人

——故郷、台湾での生活の様子を教えてください。

川平朝清さん(以下 川平)  私は、昭和2年(1927年)、台中の明治町7丁目4番地に生まれました。当時、そこは刑務所の近くで、沖縄から台湾に移った父母らは、そこの刑務所のクラブで仕事をしていました。ただ、私が物心ついた頃には、明治町の6丁目に移っていて、家の近くには台中地方法院(裁判所)があって、その建物が白く大きかった記憶があります。一番印象深いのは、台中公園にあった建物の大きな屋根です。

その後、5歳の時に台北の錦町に移り、旭尋常小学校、今の東門国小に通いました。

今年1月上旬に、台中の法院の跡と、台北の自宅跡地を訪れましたが、前者は、まだ建物が残っており、後者は、すでに別の大きなビルが建っていました。一方、台中公園の、あの大きな屋根も残っていました。

名門・台北高等学校に入学

——その後、台北高等学校に通うのですね。

川平  そうです。台北高等学校は、現在の国立台湾師範大学の前身で、当時、台湾唯一の高等学校でした。尋常科(4年、中学に相当)と高等科(3年、高校に相当)を備えた7年制の学校で、私は尋常科から入学しました。李登輝さんは、私が尋常科に通っていた頃の4つ上の、高等科の先輩に当たります。

——文献などによると、大変自由な校風だったようですね。

川平  全くその通りで、米国の大学のような“自由と自治”を掲げる学校でした。これは第二代校長の三沢糾(ただす)氏の影響が大きいと思います。尋常科の学生も、高等科の学生も、お互いを「君」で呼び合えと教えられました。上下の関係を重んじるより、相手に敬意を払うようにということでしょう。同じように、当時の学校では珍しく、いわゆる鉄拳制裁のような体罰は一切なく、校内の雰囲気はとても良かったです。

今でいうネイティブスピーカーの外国人教師を雇って、外国語教育にも大変力を入れていました。そのうちの一人がカール先生(ジョージ・カーのこと。当時はカールと呼ばれていた)です。また、高等科には、外国の大学へ留学し、教授の肩書を持つ先生が多くいて、教育レベルが大変高かったと思います。そのような中、全校の1割から2割いる台湾人学生も大変優秀で、とてもかないませんでした。

戦況が厳しくなってくると、多くの学校で、敵性語である英語が廃止されたのですが、私たちの学校だけは、唯一、英語教育に力を入れ続けていました。学校に配属された軍人将校が、「なぜ英語教育を続けるのか」と英語教師に詰め寄った際、「我が国が南進するにあたり、どの言葉が最も重要か?」と反問し、「それは英語だ。英語を使わずして統治はできない。むしろもっとやるべきだ」と言って、相手を説得した逸話が残っています。この逸話の通り、ほぼ毎日、英語の授業がありました。本当によく鍛えられたと思います。

しかし、私が17歳、高等科の2年生になる直前の3月末に、それまで対象外だった台湾人学生と共に、学校がまるごと召集されました。約6ヶ月の間、私たちは台北の八里庄、後に大屯山竹子湖で過ごし、戦争が終わった8月の末頃に召集が解除されました。

復員後の12月頃、教員も学生も建物も変わらない中、学校の名前が台北高等学校から、中国名の台湾省立台北高級中学に変わりました。卒業証書を一旦もらうのですが、裏に但し書きがあって、所定の課程を終えた昭和21年(1946年)3月末日に有効となる、というものでした。

沖縄への引き揚げとラジオの道に進む

——引き揚げ時の様子とその後について教えてください。

川平  当時、内地の引揚者を「日僑」と呼ばれたのに対し、私たち沖縄出身者は「琉僑」と呼ばれ、区別されていました。統治していた米軍が、戦地となった沖縄で一斉に引揚者を受け入れるのは困難と判断し、引き揚げには規制をかけていました。そのため、私が引き揚げたのは、終戦後の翌年、1946年12月でした。

引き揚げてからしばらくは、通訳の仕事をしていたのですが、最初はなかなか聞き取れない、上手く言葉にならないなどがありました。しかし、しばらくするとそれらを克服しました。台北高等学校での教育が活きたのだと思います。

台北高等学校の頃から、私は医学の道を志していたのですが、1949年頃、沖縄でラジオ局を作ろうという機運が起こり、そちらに移ってアナウンサーになりました。医学から報道の道に転向したのです。

台湾人を思い続け、沖縄出身者の引き揚げにも尽力したカー氏

——この時、カール先生と再会したのですか?

台湾を熟知するジョージ・カー氏が米国人としての公平な視点でまとめた台湾の日本統治時代の50年に関する著作『Formosa: Licensed Revolution and the Home Rule Movement, 1895-1945』

川平  そうです。実は、私たちは台湾から引き揚げた際、カール先生からそれぞれ名刺をもらっていました。「もし、沖縄や内地に行って米軍関係の仕事を探すのであれば、いつでも力を貸す」と言っていただいたのです。しかし、しばらく連絡を取っていませんでした。

1949年のある日、先生が沖縄に調査でやって来たのです。先生は台湾だけでなく、沖縄事情に精通していました。私が台北高等学校の高等科に上がる頃には戦況も悪化し、先生もすでに退職され、深いお付き合いはさせていただいておりませんでした。沖縄でのこの時の再会から、先生との本格的なお付き合いが始まりました。

そして、琉球放送での仕事とともに、私は米国への留学を決断します。その際に相談したのは、もちろんカール先生でした。カール先生は、当時いらっしゃったスタンフォード大を熱心に推薦されました。しかし、私はジャーナリズムの道に進みたいと思い、ミシガン州立大へ留学することにしました。その後も先生とは、ハワイで亡くなるまでずっと連絡を取り合う間柄になっています。

——大変面倒見のいい、優しい先生だったのですね。

川平  そうなのです。戦後、台湾を離れてからも、学生のこと、特に台湾人のことが大変気になっていました。その思い入れは、時に日本人に対する以上のものがありました。根底には、台湾人への同情があったのかもしれません。

一方、「琉僑」と呼ばれた私たち沖縄出身者が、当初より比較的早く引き揚げられたのも、カール先生が副総領事として熱心に国務省に働きかけ、マッカーサー司令部を動かしたからでした。カール先生は私たち、沖縄出身者にとっても恩人なのです。

『裏切られた台湾』が日本で出版される

——『裏切られた台湾』が日本で出版されるまでの経緯を教えてください。

川平  1965年、カール先生から『裏切られた台湾』の英語原本をいただきました。しかし、何ぶんにも500ページを超える大作なため、しばらく手を付けずにいました。そうしている内に、今度は、台北高等学校の同級生で、ワシントン大学で神経病理学を教えている䔥成美君が、本著から戦後間もなくの台湾の混乱や、沖縄人が如何に苦労したのか知った、と手紙を送ってきました。そこでようやく本格的に手を付け始めました。

『裏切られた台湾』の日本語版と中国語版

読み進めていくと、我々沖縄人の苦労だけでなく、日本人が台湾から去ってからの、たったの半年から1年の間に、中国からやってきた官吏や兵士が破壊的な汚職や略奪収奪を繰り返し、そして「二二八事件」とそれに続く無差別殺戮があったことを知ったのです。それらは、先生が自身の台湾との関わりに基づいて記したもので、日本への留学から台北での滞在、そして米国での研究の30年間が蓄積されたものでした。引用された資料は、政府発表のものから学生らからの私信、さらには、国連救済復興機関(UNRRA)の派遣チーム職員の生の声など、まさに集大成といえるものでした。

後に、蕭君が本著の翻訳出版権を得たというので、私も国内での出版に協力することになりました。そこで、新聞社を退社後、印刷所を開業した台北高等学校の同級生に相談したところ、より適当な出版社を紹介してくれました。

様々な困難を乗り越え、2006年6月、本著の日本語版がようやく世に出されたのです。

時が経っても変わらない仲間と変わっていく土地

——戦後、故郷でもある台湾を再訪したのはいつですか?また、二二八事件のことをすでにご存知でしたか?

川平  台湾を再び訪れたのは1961年、15年後のことでした。また、この頃には、すでに二二八事件などの情報は知っていて、戒厳令下でもあるのである程度用心していました。

ちょうど台湾大学でテレビに関するワークショップがあって講師で参加した際、終了時に学生から今晩はどこに行くのか尋ねられ、何の躊躇もなく北投に行くと言いました。すると、男子学生は大笑い、女子学生は怪訝そうな顔をしました。

ワンダリー夫人と共に

その晩、同級生からその頃の北投は、すでに日本時代の温泉街ではなく、歓楽街になってしまったと聞かされ、その時に初めて学生らの反応の意味が分かりました。

もっとも同級生らは、北投なら台北北部にあって市内からも遠く、戒厳令下でも台北高等学校で歌った日本語の歌が堂々と歌えると考え、ここで宴会を開催することに決めたのでした。

今では、日本の温泉旅館も進出する日本時代のような北投に戻っていて、また一つ時代が変わったのだと感じています。

今年、ジョージ・カー展が台湾で開催

——今年の2月28日の記念事業について、何かご存知でしょうか?

川平  台湾師範大学の台湾史研究所の先生によりますと、今年の2月にカール先生の特別展が開催されるそうです。1月に台湾を訪れた際、カール先生に関するインタビューを受けました。また、蕭君も、米国よりカール先生の縁の品々を寄贈したそうです。

5年くらい前に、初めて二二八記念館を訪れた際、残念なことにカール先生については、少ししか紹介されていませんでした。今回の展示会をきっかけに、もっと多くの方に知っていただけたらと思います。

聞き手:nippon.com編集部

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