6000人のユダヤ難民を救った「好ましからざる」男—映画『杉原千畝 スギハラチウネ』チェリン・グラック監督に聞く

文化

「日本のシンドラー」と呼ばれる杉原千畝の半生を描いた映画を監督したのは、ユダヤ人の血をひく父・日系2世の母を持つ日本生まれの米国人だ。チェリン・グラック監督にこの映画に込めた思いを聞いた。

チェリン・グラック CELLIN Gluck

1958年3月アメリカ人の父と日系アメリカ人の母の長男として和歌山県に生まれる。1980年に寺山修司監督の『上海異人娼館/チャイナ・ドール』で映画キャリアをスタート。その後、『ブラック・レイン』(1989)、『ラスト・アクション・ヒーロー』(1993)、『コンタクト』(1997)、『タイタンズを忘れない』(2001)、『トランスフォーマー』(2007) などのハリウッド大作で助監督を担当。2009年、『サイドウェイズ』で映画監督デビューを果たす。日本映画では『ローレライ』(2005) でUSユニットの監督、『太平洋の奇跡~フォックスと呼ばれた男』(2011) でUSユニットの監督・脚本を担当した。

日系人収容所を体験した母の忘れがたい言葉

この映画の底流にはユダヤ人をはじめとするさまざまな人々の苦難の歴史、記憶がある。それらは、グラック監督の両親、監督自身の体験にも深く結びついている。

「父は17歳の時、年齢をいつわって“ドイツ軍をこらしめたい”と海軍にはいり、母は(日系収容所の)Rohwer Arkansasに入れられました。父、母からいろいろと聞いた戦時中の話が僕の中の“データベース”に入っている」。だからこそ、役者の演技に違和感を覚えたときに、真情のこもった演技を引き出すための的確な助言が出せたのだと言う。

監督にとって特に忘れがたいのは、高校生の時に聞いた母親の言葉だった。日系人収容所に入れられたことは不幸だが、「人生では不幸な中から幸運も生まれてくる」という言葉だ。母親によれば、戦時中、日系人の若者が収容所を出る機会は、「徴兵」「周辺の農家の手伝い」、そして「大学進学」だったという。大学に行きたければ、政府が大学に送ってくれた。もちろん合衆国に対する忠誠心が認められることが前提だ。農家の娘で、収容所に入る前はタイピストだった母親は、ニューヨークの大学に進学してドレスデザインを学び、ニューヨークで父親と出会った。「2人が出会わなければ、僕も生まれなかったからね」。

多文化間を橋渡しする日本育ちのアメリカ人として

グラック監督は和歌山県に生まれ、広島、神戸で少年時代を過ごした。戦後、古代ペルシャ専門の考古学者としての道を歩んでいた父親の研究のために、家族はイランでの生活も体験した。日本では「外国人」とみなされ、監督自身も、日本育ちで日本語を流暢に話しても、自分は「アメリカ人」だという意識を強く持っていた。だからこそ、米国の大学に進学したとき、「アジア系アメリカ人」のサークルから誘われたときには、反感さえ覚えたと言う。「アメリカに行くまでは自分がAsian Americanだと思ったこともなかった」。

両親の戦時中の体験、日本で「外国人」として育った生い立ちから、グラック監督はこの映画に特別に強い結びつきを感じている。

かつて監督は、生活する国の文化と両親の出身国の文化の橋渡しをする子どもたち、“third culture kids” という言葉が好きで、その自負も持っていた。だが「今では、むしろ “multicultural kids” とか、“global kids” と呼ぶ方がずっといいと思う」。

『杉原千畝 スギハラチウネ』には、アメリカの日系2世部隊がドイツのダッハウ強制収容所の生存者を救う場面がある。これは生存者が後に書き残している実際にあったエピソードだ。敵性外国人として強制収容所に入れられた日系人2世たちで編成された部隊は、合衆国への強い忠誠心を示すために、熾烈な戦いに身を投じ、アメリカ軍の中で最も多くの死傷者を出しながら、最も多くの戦功をあげた。日系人兵士がユダヤ人少年を救い出す短いが印象的な場面には、監督の強い思いが込められている。

グラック監督の背景を知ることで、映画の興味深さも、感動も倍増するはずだ。

(2015年11月24日都内でのインタビューに基づき構成)

タイトル写真=リトアニア領事館でのヴィザ発給の場面/ポーランドロケ現場のチェリン・グラック監督 ©2015「杉原千畝 スギハラチウネ」製作委員会

聞き手:一般財団法人ニッポンドットコム代表理事・原野 城治/文:板倉 君枝(編集部)/インタビュー写真:大谷 清英(制作部)

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