映画『KANO』―甲子園大会で準優勝した台湾代表の物語

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台湾で映画『KANO』が公開される。戦前、日本の全国中等学校野球大会で準優勝した台湾代表の嘉義農林学校の物語だ。台湾在住のシンガーソングライター馬場克樹氏が、魏徳聖プロデューサーと馬志翔監督に話を聞いた。

魏徳聖 WEI De-Shen

1969年、台湾台南生まれ。映画監督、プロデューサー、脚本家。1996年に林海象監督による日台合作映画『海ほおずき』でアシスタントプロデューサーを担当し、同年には故・楊徳昌(エドワード・ヤン)監督の『カップルズ』の助監督も務める。2008年に監督、脚本を担当した『海角七号 君想う、国境の南』は、台湾映画史上最大のヒット作となり、台湾版アカデミー賞といわれる金馬奨で最優秀台湾映画賞を受賞。続く2011年の『セデック・バレ』でも、国内外で多数の映画賞を受賞。

馬志翔 Umin Boya

1978年、台湾花蓮生まれ。台湾先住民。先住民名はUmin Boya。俳優、映画監督、脚本家。2000年に俳優としてデビュー、台湾国内のドラマと映画に多数出演。2003年には『赴宴(原題)』で台湾版エミー賞といわれる金鐘奨で最優秀助演俳優賞にノミネート。2011年の『セデック・バレ』では、役者として出演。監督としては、2008年に『生命関懐系列一説好不准哭(原題)』で、金鐘奨最優秀ミニドラマ監督賞受賞。『KANO』では、初めて長編映画の監督を務める。

台湾代表校が甲子園を席巻

野球少年の夢の舞台、甲子園で繰り広げられる全国高校野球選手権大会は2014年に96回目を迎える。その歴史を戦前までさかのぼると、日本の統治下にあった台湾や朝鮮、満州の代表も出場していた時期があった。

昭和6年8月22日大阪朝日新聞と菊池寛の観戦記(国立国会図書館所蔵)

昭和6年(1931年)8月の全国中等学校優勝野球大会(当時の名称)で、旋風を巻き起こした嘉義農林学校(嘉農:かのう) (※1)も台湾代表だ。嘉農野球部は日本人、台湾人(台湾で生まれ育った漢人)、原住民(先住民)による混成チーム。松山商などで監督を務めた名将・近藤兵太郎の赴任をきっかけに実力をつけ、この年、甲子園初出場ながら次々と強豪校を破って決勝に進出した。最後は惜しくも敗れたが、さわやかなプレーで観客を魅了。作家・菊地寛も決勝翌日の大阪朝日新聞に寄せた観戦記でこのチームの活躍をたたえたほどだ。

嘉農の活躍は、地元の台湾ですら戦後ほとんど忘れ去られていたという「伝説」。今回、『海角七号』や『セデック・バレ』で知られる魏徳聖氏が、約80年ぶりにこの物語を“発掘”。若手監督として注目の馬志翔氏にメガホンを託して映画『KANO』が製作されることになった。

日本人と台湾人が手を取り合って栄光をつかむという物語の内容にふさわしく、映画も日台のスタッフ、キャストのチームプレーで完成した。嘉農野球部の近藤監督役の永瀬正敏、台湾で「ダムの父」として知られる八田与一役の大沢たかおなど、多くの日本人俳優も出演している。

日台の若者たちの成長物語に共感した台湾在住のシンガーソングライター馬場克樹氏が、公開を前に魏徳聖プロデューサーと馬志翔監督にインタビューを行った。

統治時代を通して見えてくる“心の矛盾”

——なぜ今、嘉義農林の物語を映画化しようと思ったのでしょうか。

魏徳聖プロデューサー(以下、魏) 実は『セデック・バレ』の撮影に向けて日本統治時代の資料を収集している時に、偶然この話を見つけたのがきっかけです。

馬志翔監督(以下、馬) 魏プロデューサーからこの話を初めて聞いた時には、かつて野球少年だった自分の記憶とも重なり、まさに血湧き肉踊るという感じでした。

——魏さんの作品『海角七号』や『セデック・バレ』も日本統治時代が背景でした。この時代に対して特別な思いがあるのでしょうか。

 この時代を描くことで、自分の描きたかったことがより鮮明になったのは事実です。つまり日本の統治時代の資料を読み込んでいくうちに、現代の台湾人が抱える心の矛盾が浮き彫りになってきたのです。

台湾は歴史上自分が主役だったことがなく、常に外からの支配を受けてきました。台湾はいわば“孤児”と言ってもよく、“親”だけが何度も入れ替わってきたのです。21世紀なった現在、台湾はすでに“成人”したにもかかわらず、自分たちがもう“孤児”ではないことに気づいていなかったのです。

日本統治時代は、時には愛憎相半ばし、良し悪しの基準だけでは解釈できない面が多々あった時代です。それゆえに、その時代に生きた一人ひとりの立場の違いに絶えず思いを寄せて、あれかこれかという決めつけに陥らないように心がけました。

『KANO』は、日本人、台湾人、原住民の三者が一つに結束して、夢に向かって突き進む物語です。三つの民族が明確に階層化されていた時代に、それぞれの存在価値を認めながら自己実現を果たしました。この歴史的な事実をまず知ってもらいたかったのです。

『海角七号』、『セデック・バレ』、そして『KANO』の3部作は、日本統治時代における「心残り」や「恨み」、「栄光」など、複雑な心情を描いた作品ですが、いずれも自分たちのアイデンティティを問うているのです。台湾の人々はかつて“孤児”だったかもしれませんが、“成人”して新たな家庭を作る際には、新たな“孤児”を生み出してはならないと思うのです。

日台の歴史の重みを感じてほしい

——『KANO』は日本人と台湾人が民族を超えて一つになる物語です。今回の映画製作チームも日台の混成メンバーでした。撮影過程でも物語と同様に、言語や民族の壁を超えることはできたのでしょうか。

 私にとっては『KANO』が初の海外との合作。台湾と日本では仕事の進め方が違います。日本人はきっちりとしていますが、台湾人はもっとフレキシブル。しかし、結果的にはそれらがうまく融合しました。主役の永瀬さんとのコミュニケーションには特に時間を取り、お互いの違いをまず理解していただいてから撮影に臨みました。仕事に対する台湾人の熱意と日本人の矜持(きょうじ)が、相互補完して一つの作品になったのだと思います。

——『KANO』は近藤監督や選手たちの挑戦と成長の物語でもあります。初めて長編のメガホンを取った馬監督、初めて監督を支える立場となった魏プロデューサー、そして野球部員を演じた素人俳優たち、それぞれの挑戦と成長の場でもあったと思います。

 プロデューサーと監督では心理状態がまったく違います。プロデューサーは現場を仕切るべきではありませんが、しばらくすると、予算が膨らむ、時間が足りないという問題に直面しました。創作には干渉したくはないが予算は抑えなければならない。理想と現実のはざまに立たされました。ただ節約を唱えるのでは監督が困惑するだけですので両者のバランスに配慮しました。例えば、1シーンを撮り終えるたびに編集作業を進め、監督とも話し合いつつ、重複する映像撮影を避ける工夫をしました。

 これまで手掛けたのは短編ばかりでしたので、短距離選手からマラソン選手への発想の切り替えが必要でした。『KANO』は脚本が完璧でしたので、最大の挑戦は野球のシーンをいかにリアルに描くかでした。嘉農が本当に強いチームに見えなければなりません。それで演技は素人でも野球経験者を起用しました。役者も混成でしたが、漢人、原住民も日本語の台詞を猛特訓で覚えてくれました。

——日本のプロ野球で活躍した台湾人選手の先駆けで、日本の野球殿堂入りもした呉昌征(※2)さんも嘉農出身で、この映画に登場しますね。

 彼は甲子園に初出場したチームより数歳年下で、近藤監督の薫陶を受けた一人です。映画には少年役で登場します。2月27日、台湾での上映会の初日には、日本のご遺族もご招待します。

————プロデューサーの立場から見た馬監督の最大の魅力とは何でしょうか。

 馬監督は私と違って俳優出身ですので、役者の心理を熟知しています。難しい年頃の素人の役者さんを相手にアメとムチの使い分けもうまい。私はこの物語を是非映画にしたいと思いましたが、撮るのは自分ではないと思っていました。だから野球経験もあり、原住民でもある馬監督なら「自分はこの映画を撮るために生まれてきたのだ」と感じてくれると思いました。

——『KANO』は3月7日に大阪アジアン映画祭でオープニング上映されます。日本の皆さんにメッセージをお願いします。

 『海角七号』も『セデック・バレ』も日本で公開されましたが、『KANO』がメインストリームの映画としてロードショーにつながることを期待しています。そして、日本人と台湾人が気持ちを一つにして夢をかなえた時代があったことを是非知っていただきたいと思います。

 これまでになかった野球映画だと自負しています。また、心と心の交流には国境がないことや、台湾と日本の人々がともに作り上げた歴史の重みを感じていただければと思います。

©果子電影有限公司

公式サイト: https://www.facebook.com/Kano.japan
動画アドレス:http://youtu.be/pmG6LuRxilw
撮影=劉士毅(Liu Shih-I)

(※1) ^ 嘉義農林学校 1919年、日本の統治下にあった台湾で設立された台湾公立農業学校をルーツとし、その後台湾公立嘉義農林学校、台南州立嘉義農林学校と変遷。戦後は台湾省立嘉義農業職業学校と改称。2000年に国立嘉義師範学院と合併、現在の国立嘉義大学となった。戦前に夏の高校野球甲子園大会に初出場ながら準優勝を果たし、その後も強豪校として全国に名を轟かせた。

(※2) ^ 呉昌征(1916-1987) 正式な台湾名は呉波、日本に帰化後は石井昌征、呉昌征は登録名。日本統治下の台湾台南生まれ。嘉義農林学校で近藤兵太郎監督のもと、春の甲子園大会1回、夏の甲子園大会に3回出場。裸足でグラウンドを駆け回るプレーから「人間機関車」の異名をとった。プロ野球入りして、1942年と1943年に2年連続で首位打者を獲得。投手兼任外野手でもあり、戦後初のノーヒット・ノーランも記録。1995年に特別表彰により日本の野球殿堂入りを果たした。

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